意識消失もしくは感謝
「ただいま戻りました」
気が付いたら私の目の前に先生がいた。先生が屋敷の外にいるとは思えなくて、周りを見渡すまでもなく今私のいるここが屋敷だということが分かる。
いつの間にか帰り着いていたらしい。
先生を先生だと認識したら、ずっと頭に残っていた言葉だけが私の中からするりと出てきた。伝えたいことは他にも色々あったはずなのに、ほかの言葉は形にならずとっさに出てきたのはそれだけだった。
ちなみにそれは、「伝えたい言葉がたくさんありすぎて胸がいっぱいで」何て感動的な理由では無い。
物理的に言うと迂闊に口を開くと何かが奥から込み上げてきそう、で、具体的に言うと倦厭していた恐怖体験によって思考が働かなくて、である。
私は一刻も早くベッドに横になって、出来れば夢は見ないで眠りたい。
何故なら、街からの帰り道には、あの恐怖の高速移動が再び繰り返された。
私のラリズへの説得は、説得にはならなかった。正確に、私がラリズに説得のつもりで話しかけていたことはすべて聞き流されていた。
屋敷への帰り道では、私はラリズに街を出るまでと出てからのしばらくの間、ずっと街に来るときの高速移動が私の精神に負担を掛けたかを訴えていた。それに対してラリズは、確かに私の言葉に真摯に向き合い頷いてくれていた、はずだった。
なのに門を潜って僅かばかり歩いたときには、まだちらほらと周囲に人影があったのに私は再び抱え上げられていた。あまりに突然なことに、未だ説得中だった私の口は間抜けな形で固まり、紡がれていたはずの言葉も全てストップした。
行動全てをストップさせたまましばらく固まり悩み、そして私は諦めた。
そのせいなのか、直ぐに高速移動が始まるわけではなかったのだけど、こうなってはきっと何を言っても聞いてもらえない。暴れても叫んでも降ろしてはもらえない。肉体的な暴力を振るわれているわけではないのだから潔く諦めるべきなのだ。
ラリズだって好きで私を運んでいるわけは無いのだ。こうする理由があって、こうするしかないから私を抱え上げているだけで、けして絶望する私を楽しんでいるわけでは無いだろう。
私は固まったまま必死に考えた。黙った私の代わりのようにラリズが何か話しかけてくれている。
地面を歩くときには空中に浮かんで移動するときとは別の注意が必要になるそうだ。背の高い草が生えていなくても、下生えの中には何が潜んでいるか分からないから。
そうなんですか、参考になります。次に森に出るときには注意しますね。
言葉には出せずに心の中だけで反応する。獣や草に対する注意点もいくつか教えてくれたけど、そちらは実行出来るかどうか微妙なものばかりだった。現在の私の参考になるかは正直分からない。
そんなことをしている間にも、いつしか周りの景色は高速で移動し始めていて、私は思考を留めておく努力を放棄するこちにした。ただこんな状態でも私は気絶することが出来ないようで、ずっと目だけは開いていた、はずだ。
そして気が付いたら屋敷の中、目の前に先生がいた。私は先生に対して一言だけ呟いたけど、何をする気力も湧かずに結局先生を見下ろしたまま黙り込んでしまった。
先生会うの凄い久しぶりな気がする。朝出かける前に会ったばかりなのに、もう随分長い間会ってなかったような気がしてしまう。当たり前だけど何も変わっていない先生に私は密かに安堵した。
そう言えば先生は食事を食べてくれただろうか。
出かける前に朝食の準備と併せて用意をしておいたのだけど、果たしてあれに先生は口を付けてくれたのだろうか。私自身は自分で作っておきながらも、代わり映えしない食事に大分参っていた。
先生は私以上に長いあいだ、あの食事をずっと続けていたはずなのだけど。
ちなみに私は、街では何も食べなかった。
飲み物は街でも口にしたけど、固形物は屋敷を出る前に朝食を食べたのが最後である。けして街にいた時間が短かかったというわけではないけれど、街を出るそのときにも私には食欲はわかず、結局何も食べれなかった。
街では店に入らなくても、屋台のような仮説の場で軽食などの販売をしていたし、食べ物の匂いもそこかしこに漂って充満していた。体調を崩していた私には辛かったけど、本来ならばそれらに惹かれて客は店に集うのだとは思う。
私自身も、未知の食材の味を知るためにも、その食材の調理法を知るためにも、本来ならばそれら屋台には積極的に挑戦していくべきだった。
しかし私には、それら食べ物に手を伸ばすことがどうしても出来なかった。それどころか臭いを嗅ぐだけでもダメージを受けていて、調理済みの食べ物にはできるだけ近付きたくなかったほどだった。
それだけで、あの時の私がいかに参っていたかがはっきり分かってしまう。
私達が街にいた間中、ラリズは色々な食べ物を勧めてくれて、そして少しでも私の興味を引けば購入しようとしてくれていた。本来の私なら喜んで、そのせっかくの好意を受け入れるべきだった。
しかしあの時の私には、どうしてもそれを受け入れるだけの余裕が無かった。
「私今何か口に入れても飲み込めないです」
やっとの思いで伝えてようやく諦めてもらった。