始まりの始まり
気が付いたら私は知らない家の中にいた。どうしてここにいるのかは分からない。私は確かに自分の家のドアを開けたはずだ。
その日私はお昼ごろに家に帰った。新しい会社の面接を受けた帰りである。
私は少し前に、以前働いていた会社を辞めたところだった。その会社では理不尽に思えるような状況で退職が決まって、やっとの思いで気持ちに区切りをつけて新しい仕事を探し始めていた。
私は以前の会社を気持ちの整理がつかないまま辞めたせいで、しばらくの間ひどく落ち込んでいた。さんざん周囲に心配を掛けて、それでも気持ちが晴れなくて、閉じ篭りぎみになったりもした。
しかしそのままでいるわけにはいかない。生きていくためにはお金がかかるのだ。お金を稼ぐためには働かなくてはならない。いい大人がこんなことでどうする。
自分自身に無理矢理叱咤激励し、強引に気持ちを切り替えてやっと就職活動を始めることが出来た。動き出した私に安心する周りを見て、頑張らなければいけないと強く思ったりもした。
その日、私は面接から帰る途中で、ふと昨日の夜に無くなった調味料のことを思い出した。たまたま帰り道に大きなスーパーがあって目に入ったからかもしれない。スーツ姿だったが寄ってしまうことにした。
終わってしまった調味料を選んで、ついでに無くなりそうだったものや興味があったものも揃えた。必要な物はそれだけだったけど、これでレジに持っていくのはかなり勇気がいる。少し考えて簡単に食べられるバナナとお菓子、あっても困らないペットボトルのお茶を追加した。
そのせいで予想以上に重くなった荷物を、私は大分苦労しながら駐車場から玄関まで運んだ。
資料の入った鞄と調味料の入った袋が特に重く、腕に食い込んでいる気もした。ビンをガチャガチャさせて、面倒臭がらずに分ければ良かった、バナナに傷が付いたな、そんなことを考えていた。
家のドアを開けて中へと数歩踏み出しノブから手を放した。荷物を置いたら振り返るつもりだった。テレビで女の一人暮らしは危険だと何度も言っていたからもちろん鍵も掛けるつもりでいた。
だけど何も出来なかった。その時にはもう私はここに居たから。
とっさに反応出来なかった。声を出すことも出来ず、しばらくそのままの形で止まっていた。何が起こったのかまったく理解出来ていなかった。
ひどく混乱していて、そして混乱したまま目線を下げたら床に人が倒れていた。灰色の不思議な上着を着ていたけど人であることは間違いない。うつぶせで伸ばした片手は私の足元まで来ていた。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて腰を落として声をかけた。思わず揺さぶってしまったけど、その人はわずかに呻いただけだ。パニックになりながら片手で鞄を探る。
携帯電話を引っ張り出して、震えそうになる指でボタンを押した。110だったか、119だったか、とにかく誰かに伝えたくてボタンを押した。間違えていたらもう一度かける、押しながら思った。
だけど携帯電話から望む反応は無い。慌ててもう一度ボタンを押そうと画面を見た。ボタンを押しながら気付く、圏外って出ている。
「使えない携帯って・・・」
放り投げるように携帯を放して立ち上がろうとした。知らない家だが、家の中なのだ、家電を探すつもりだった。
その時、弱弱しく声が聞こえた。慌ててもう一度腰を落とした。
「だ、大丈夫ですか?」
いつの間にか、うつ伏せから仰向けになっていた人は、どうやらおじいさんらしい。白髪としわの刻まれた顔が見えた。薄く目を開いていて唇がかすかに動く。私は耳を寄せて声を聞こうとした。
しばらくその状態でいて、やっと声が聞き取れた、と思ったら脱力した。
「腹が減った」
私は脱力しながらも、買い物袋からバナナを出してセロファンを破いた。皮もむいてそれをおじいさんの口元に押し付けた。
おじいさんは無言で咀嚼していた。
倒れるほどお腹が空いているならまだ食べるだろう。次のバナナの皮をむいて、また押し付けるつもりで待機する。とりあえずバナナがある限り同じ行動を取ってみようと思う。
いつのまにか、おじいさんは起き上がり、あぐらをかくように座っていた。
とても細身の人であることが分かった。ぶかっとした服を着ていて、あまり体の線は見えない。なのに、全体的なシルエットとしてかなり細いのが分かるのだ。服から覗く、首にも腕にもしわが濃く浮かんでいた。
だけど実は痩せてるからそう見えるだけで、実際にはそんなに年を取っていないのかもしれない。私は人の年齢を当てるのが苦手なのだ。人の年齢を聞いて驚いたことは一度や二度では無い。
日本人には見えないけど、どこの国の人だろうか。コーカソイド系の肌の色をしている。顔はこんなに痩せていなければかなり良い方だと思う。細い面にすっと通った鼻と目をしていて、手入れをしている訳でも無いだろうに眉もきれいな形をしている。今はバナナを頬張り過ぎているせいで崩れているが、顎の線はシャープだ。唇は薄く、色はほとんど無い。
若いころは美形だっただろうな。すごくもててそう。髪もふさふさだし。
そんなことを思ってしまったのは、今日受けた会社の面接官の髪が寂しいことになっていたからだろうか。
ぼんやり人間観察をしてしまう。
ああ、それにしても、倒れるほどお腹が空いていたのにスープとかじゃなくて丈夫なのだろうか。次ぎ食べるとしたらヨーグルトだろうか、それともクッキーのほうが良いのか。私は不法侵入に当たるのか。ヨーグルトは食べるのにスプーンがいるから、クッキーのほうが良いかも。そういえばさっき日本人じゃ無いのにしっかり日本語話していたな。
とりとめもなく次から次に考えが浮かぶ。まだ私は混乱しているのかもしれない。