朝日の中
窓の光ががだんだんと力を増していくのを見守りながら、私は何とか自分の気持ちに区切りをつけた、ことにした。
ベットから起き上がると、しわになったスカートとシャツ、適当に放り出したせいで変な癖の付いているコートと上着、とりあえず纏めて置いたと分かる荷物が目に入る。
嫌でも目に飛び込んでくる豪華な内装は、丁寧に見ない振りをした。
荷物に近付くと真っ先に鞄から携帯を取り出し、祈るような気持ちで画面を開く。そして分かっていたはずの圏外の表示に、またショックを受ける。
しばらくそのまま睨んでいたのだけど、画面が暗くなったところで視線を引き剥がした。
そのまま携帯自体の電源も落とす。こちらでは携帯を充電することすら出来ないのだから、もしかしたらを考えて使用できる状態にしておきたかった。
本当は持ち歩きたかったけど、このスーツの隠しは胸元の一つのみだ。そんなところに入れたら変に目立つし、コートを着ていくのもおかしいだろう。
表面を一撫ですることで諦めてまた鞄に戻す。今さらだけど自分の鞄があって本当に良かった。
A4の書類も楽に入る、この大振りの鞄の中には色々なものが入っている。特にマジックやのりが入ったペンケース、櫛や鏡、爪切りまで入った化粧道具のセット、針や鋏の入った簡易裁縫セットは有り難い。
欲を言えば切りがないが、これが一緒だったことだけは幸運だったと言えるだろう。
買い物袋はゴミが少し気になったけど口もきっちり閉じているし、もう一つの袋に入っている食品にも生物は無い。このままにしておいても大丈夫だ。
しかし、荷物を暢気に確認していた私はそこで大事なことに気付いた。
私には何よりも早急にしなければならないことがあったのだ。慌ててベットに戻ると毛布ををひっくり返す。
何と私は昨日、化粧を落とさないでそのままベットに横になってしまったのだ。
色落ちしていないかを焦って確認する。おじいさんは好きにしろと言っていたけど、こんな高級そうな寝具に化粧汚れをつけるなんて怖すぎる。洗って落ちるものだろうか。
しばらく持ち上げたり、ひっくり返したりして確認をしていた。
しかし、どうやら落ち難い化粧品を使っていたことが功を奏したのか、ベットに目出つような汚れは無いようだった。淡い色合いのシーツもカバーも、滑らかな光沢を保っている。
朝から一気に疲れ、今度は気が抜ける。
しかし安心したところで休んでいるわけにはいかない。ふらふらしながらも化粧道具のセットを持って、身支度を整えるために水場へ向かう。
しかしそこでまた、化粧を落とした状態で私は考え込むことになる。
化粧をしてしまって良いんだろうか。
ここに持って来れたのは化粧をするためというより直すためのもので、普段使っている化粧品の一部でしかない。一応これだけでも何とかすることは出来るけれど、使用すれば当然減るのであくまで限りがある。というか、ここで新しいものを手に入れることは出来るのだろうか。
しかし化粧をしないで人前に出るなんて、考えるだけでかなり抵抗を感じるのも確かだった。おじいさんだけだって人前だ。本音を言うなら流れ作業的に化粧をしてしまいたい。
くだらないことかもしれないけど切実だ。
地味に悩む。悩みまくる。
しかし、私は結局化粧をするのを止めた。
今は何とか出来てもこの先がどうなるか分からないのだから、これが正解のはずだ。先延ばしにすればするほど苦痛になる。化粧品のことなどでおじいさんを煩わせる可能性を考えれば我慢出来る、はずだ。納得出来るだろう、自分。
何となく後ろ髪引かれるような思いを残したまま、のろのろとそこを離れて一階の階段のある場所へ向かう。
この場所は玄関というかロビーのようになっていて、その上大きなドアの横にはガラスの入った窓がある。外の様子を見ることも当然出来る。
私は外の様子をきちんと確認したかった。
昨日は呆然としていて一部の風景しか見ていなかったし、朝はバタバタしていて窓のカーテンすら開けていない。おじいさんが起きて来る前に、少しだけでも周囲を見ておきたかった。
確認だけしたら食堂に戻っておじいさんを待つことにしようと思う。
ロビーに出て窓を覗くと、豊かな自然のみが広がっているように見えた。人や動物の姿は無い。
少し躊躇した後に、結局好奇心に負けて迫力のある大きなドアを引く。
それはこの家で見たドアの中で最も立派で豪華なものだったけれど、大きさからはとても考えられないほどの軽さをしていた。外に出ることはせずに、何の抵抗も無く開くドアをゆっくりと引いていく。
そこからは、しっかりとした柱がある石床の玄関ポーチと、どこまでも続くような深い森、そしてすっきりと晴れ渡った空が見えた。
外はラジオ体操でも始めたいくらいの良い天気だった。この位置からは太陽は見えないが、薄く小さい雲のみが僅かにぽつんと浮かんでいる。見事なまでの快晴である。
空を見上げるようにして、胸いっぱいに酸素を取り込む。
どこもかしこも締め切っているこの家に対して、どうやら私は妙な息苦しさを感じていたらしい。
こんな日に洗濯物を干せたら最高だろうと思うと笑みも浮かんだ。
「獣がいる。この屋敷の周りは大丈夫だが、離れると食われるぞ」
しかし完全に力が抜けた状態のところに、物騒な声が掛かった。
飛び上がりそうなくらい驚いて、悲鳴を飲み込んだせいで引きつった顔のまま勢いよく振り向く。
「お、おはようございます・・・」
昨日と同じように、床に付くほど長い灰色の服を着たおじいさんだった。
内容よりも急な驚きゆえに、私の心臓がもの凄く不自然な速さで鼓動を刻んでいる。
心臓の上に手を置いてそれが抑まるのを願いながら、声が震えないように注意して問い掛けた。
「獣・・・。狼とかですか? 」
「狼もいる。他の種類もいる」
おじいさんの眉間にはすでにしわが寄っている。一晩明けて改めて確認した顔色も、特に良くはなっていない。この人は常にこんな感じなんだろうか。
しかし私の頭は、昨日に比べ格段にすっきりしているように思う。これならちゃんと話をすることも出来るだろう。
食堂へ向かったおじいさんの後を追うため、急いでドアを閉めながら私は思った。