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普通になれなかった僕たちへ 上

うわべだけの愛と根深い憎悪に囚われた、ある兄弟の話。

1


 閉め切ったカーテンの向こう、窓の外から子供の声が聞こえる。ワイワイ、キャーキャーと楽しそうな声。帰宅途中だろうか。小学生の男女が数名、みんな笑顔で耳をつんざくような高い声でバイバイなどと叫びながらあちらへこちらへと声が反響する。

「……俺も混ぜてよ」

 届くわけもないその言葉を涙で滲んだノートに向かって小さく呟く。今すぐにでもこの狭い部屋の窓から飛び出し、年相応の無邪気さであの輪に入りたい。自由に走り回って、時間を忘れて遊んで、帰りの時間を知らせる音楽が鳴る頃に慌てて手を振りながら駆け足で帰路につく。それがきっと普通の生活で、普通の子供なのだろう。クラスメイト達が言うにはそうらしい。みんなが言うには、自分は普通じゃなくて子供のような大人だと。自分のやっていることは凄くて、でもそれしかないから面白くないと。正直そんなことはわかっていた。

 小学校に入る前から部屋に閉じ込められ勉強をさせられ、ひたすら両親が満足のいく結果を残すためだけに言いなりになっていた。ただ勉強をするだけならいい。しかしやり方が、教育が普通とはかけ離れていた。例えばテストで良い結果を残せなければ物を投げられる。殴られ、反省しろと部屋に放り投げられ外から鍵をかけられる。泣いても怒っても出してくれやしない。泣き疲れて寝てしまえばそっと扉が開かれ、出してくれるのかと思えばまた殴られ起こされる。震える足で机に向かい震える手で短くなった先の丸い鉛筆を持ち、間違った問題を手首が痛くなるほど書きノイローゼになりそうなほど繰り返し覚える。どれほど時間が経ったかわからないほど長い間閉じ込められ、ついに気が狂って叫びだす寸前に音を立てて扉が開く。そういう時は決まって母親が目を赤く腫らしながら部屋に踏み込み、こちらを強く抱きしめれば『あなたのためなの』『仕方がなかった』と、決まっていつも同じことを咽び泣きながら呪いのように吐いて、仲直りと言いながら頬にキスをする。

 それが日常。それが自分にとっての当たり前。今だって腹を鳴らし、じりじりと熱をもって赤くなった左頬をさすりながら勉強をさせられている。お腹がすいた。喉が渇いた。回らない頭を必死に働かせながらまた殴られないためにひたすら文字を書き続ける。心では泣きたいはずなのに出す涙すらなく、頭では殴られる恐怖と優しくされる虚無感だけが渦巻いて勉強どころではなかった。

 やらなきゃ。そうしなきゃまた叱られる。叱られないために覚えて、もっと勉強をして良い成績を残して、それから……どうするのだろう。

 自分はいったいどこに向かっているのだろう。なにになりたくて、なんのためにやりたくもないことをして、なにかを得られるわけでもないはずなのにどうして身を削っているのか。誰のために、誰がなにを願って自分は生きているのか。そう自問自答するばかりで、手は一向に動かない。やらなければ、という感情に全身が支配される。

 部屋の外から階段を上る音が聞こえる。一瞬にして母親のものだと悟る。ドン、ドンと鈍い音。わざと立てているようにも聞こえるそれに、急激に全身がこわばる。早く、早く手を動かさないと。文字を書かないと、きっと次は頬だけでは済まないかもしれない。足音が近づくにつれ呼吸がだんだんと荒くなる。ノートに跡がつくほど強く書いた文字は、もはや文字とは思えないほど潰れており消しきれないほど濃ゆく、力任せに無理やりつけられた自分の傷のように深く鮮明に残っていた。

 扉が勢いよく開く。あぁ、ついに来てしまった。これから自分はどんな目に合うのだろう。今日は何で殴られ何を投げつけられるのか。昨日は確かフライパンだっけ。本を投げられたりもしたな。背中を丸め、足を閉じ目をぎゅっと瞑る。自分の名前を呼ぶ声が聞こえたと認識した時、赤子のように丸まったその身にふってきたものは重たい拳でも鋭利な罵詈雑言でもなく、触れるこちらが火傷しそうなほど熱を持った人のぬくもりと絞められるような抱擁感、それから呪いの言葉だった。

「ごめんね、(ゆづる)ちゃん……。お母さんたちも本当はこんなことしたくないの。でもこれも弦ちゃんのためなの。ごめんね、ごめんね」

 酷くしゃくりをあげながら嗚咽を漏らし、ぽたぽたと服に涙をこぼしながら自分の求めている言葉を言わせようと首輪を無理やり引っ張るように適当なセリフを吐き続ける。聞きなれたそれを右から左に流し、決まって同じ言葉を機械のように投げかける。

「うん、俺……僕の方こそごめんなさい。僕がお勉強できなくてお母さんたちを困らせて、ごめんなさい。もっとお勉強できるようになって、お母さんたちのために頑張るから」

 『俺』と言いかけた時、自分を抱く手がぴくっと震えたのがわかった。そんな汚い言葉遣いやめなさいといつもならまた叩かれているところだが、今回は運がよかったらしい。そうね、そうね、頑張ってね。なんて言葉をかけられ、頭が撫でられる。もはやそれに安心感などなく、いつ髪を掴まれ引きずられるのかという恐怖心だけが支配していた。悲痛に震えた声を聞くたび動悸が激しくなる。持っていた鉛筆を落とさないよう折れそうなほど握り込み、どこにも当て場のない感情を必死に抑え込みながら謝り続ける。

 仲直りの証といい赤くなった頬に唇を当てやると、優しく手を引かれて一階のリビングに連れていかれる。その間ですら母親は呪いをかけ続け、人形でも扱うように子供のペースなど考えず進んでいく。リビングにセットされた時計を見れば、夜の十九時を回っていた。今日は三時間ほど閉じ込められていたらしい。下手をすれば深夜まで出してもらえないこともあったため、何か良いことでもあったのかと不安がじんわり浮かび上がる。中央にある食卓には父親ともう一人の少年が座り、卓上には温かいご飯が乗ったお皿たちが1つセットになって全部で3つ並べられている。その中でも豪華で手の込まれた皿の前に座らせられ、向かいに両親が座る。両親の前に置かれた料理は自分のものと比べれば少し寂しく感じるが、さらに寂しい皿があった。自分の右隣りの席。おそらく失敗したものなのだろう。残飯を並べたような寄せ集めを乗せた小さな平皿一枚と、少量の味噌汁とパックの白米だけが置かれて何を言うこともなくそれを見つめ続ける。

「さぁ、弦ちゃんもお勉強で疲れているでしょうし、今日は大好物のハンバーグよ。いっぱい食べなさいね。おかわりも用意しているから」

 先程まで情けなく声をあげて泣いていたとは思えないほどカラッとした声色で、皺が刻まれた頬を持ち上げながらこちらに向かって笑いかける。ありがとう、と思ってもいないことを仮面のように張りつけた笑顔を見せながら返事をする。それを見て気が済んだのか、今度は人が変わったように冷たい視線で隣の少年を見る。蔑むような、醜い動物でも見るような目。もはや人間としてではなく生きているナニカとして認識しているようなその表情に、少年は反抗的に睨み返す。重苦しい沈黙が数秒。背中をなぞるように冷たい汗が一滴垂れる。いつ人を叩く音が聞こえるのか、いつ怒鳴り声が聞こえるのかと考えるだけで窒息してしまいそうなほど息が詰まる。何も見えなかった、ということにしたのかもう一度こちらに笑顔を見せながら無言で食事を促す。

 両掌を合わせ、いただきますと小さく言葉にすれば机の上に置かれた箸を指先で持ち上げる。そのまま油を全身にまとった肉の塊に突き刺すと、肉汁が噴き出し食欲をそそるような煙が舞い上がっていく。一口サイズに切り分けてつまみ口元に持っていけば、触れずともその熱が周囲の空気を温めながら伝わり口に入れる前に火傷しそうなほどだった。小さく息を吐き覚悟を決めたようにそれを舌に乗せれば、母親の顔が一段と明るくなり歓喜するような声で美味しいかと質問を投げかけてくる。何度か咀嚼を繰り返しまだ形を保ったそれを半ば強引に飲み込めば、満面の笑みで美味しいと返答する。

 すべてが嘘でしかなかった。両親に向ける笑顔も、美味しいという言葉も、味わうような表情も気づけば失っていた。味を感じる機能は壊れており、目の前のハンバーグという肉塊ですら土を食べているように感じる。野菜は画用紙のように、米は粘土のように、味噌汁はただの液体のように。いつからそうなっていたのかは覚えていない。ただ一つわかるのは、食事というこの時間が避けては通れない生理現象であり人間の動力であるエネルギーを補給するだけの作業として捉えてしまっているということだった。

 そんなことを考えながら必死に胃を膨らませているのを知ってか知らずか、すぐ真横から視線を感じる。隣に座る少年、もとい弟が腹を鳴らしながら詰め込まれ続けている飯を前に今にも飛びつきそうな衝動を抑えながらうらめしそうに見ていた。それもそうだ。弟の皿には焦げた肉片と野菜の切れ端、具の残りカスしか入っていない味噌汁だけでお世辞にもご飯と言えるものではない。貴族と貧民のような圧倒的差をこれでもかと見せつけられ、平然としていられる方が凄いだろう。唾を飲む音が聞こえる。分けてやれるものなら今すぐにでも交換して逃げ出したかった。もとより小食で食事という行為があまり好きではない自分にとってこれほど苦痛な時間はなかったが、それを許さんとする両親からの無言の圧がただひたすらに怖かった。食べ物を胃に押し込む度、体が拒否し吐き戻しそうになる。それでも機嫌を悪くしないために耐えがたい吐き気を抑えながら口に入れ、水で流す。隣に座っていた弟はすでに自分の部屋に戻ったのか、空になった皿を置いたまま姿をくらましていた。

 何度も口を押さえて無理やり食べ終わると、今にも破裂しそうなほど膨らんだ腹をさすり、勉強に戻るからと食後のあいさつと両親に感謝の言葉を済ませ足早に食卓を後にする。階段を一段、また一段と踏みしめることすらままならず全身の毛穴から冷や汗が噴き出るほど体が限界を訴えていた。気分が悪い、腹に入ったものを吐いてラクになりたい。息切れをし過呼吸気味になりながらもなんとか自分の部屋に戻りベッドに座り込んで休んでいれば、閉め切られた空間の向こうからか細い声が聞こえる。

「おにぃ? 入っていいかな」

 また両親かと心臓を跳ねあがらせるも、声をかけながらそっと扉を開けたのは弟だった。自分と全く同じサファイアのような澄んだ青目と、手入れされた馬の毛並みのように艶やかな茶色く短い髪、しかし唯一反対なのは、あまり食べさせてもらえていないとは思えないほどしっかりとした体つき。これでも自分より二つ下の小学四年生なのだから、成長したらいったいどんな大人になるだろうか。きっと自分より優秀で、自我をもってちゃんとした人生を送るのかもしれない。

 不安そうな顔をし、少しよれた服を掴みながらなるべく音をたてないよう部屋に入ると扉を閉める。安心したのか深いため息をつきながら歩みより、ベッドの近くまで来るとすぐ目の前、地面にぺたりと座り込む。

「……(つかさ)、怒られるよ。来てくれるのは嬉しいけど、また司がひどい目に合うところは見たくないよ。今日だってさ……」

 実の弟である司と面と向かって話せる時間なんてこの家にはない。それに反抗するように、毎日こっそり部屋に入ってきては適当な会話という名の近況報告で兄弟という形を保っていた。両親に知られてしまえば、弟はきっと自分以上に。考えただけで張ったお腹をさする手が止まり、胃に溜めたものがせりあがってくる感覚がする。仮にも大切な弟がそのようなことに巻き込まれるのは避けたかった。

 両親は自分と違って、弟を邪魔者として扱っていた。兄の方が優れていて何でもできる、しかしお前はどうだ。無能なら無能らしく黙って自分たちを引き立てろ、というのが両親がいつも弟に向ける言葉だった。頭痛がするほど聞いた言葉。自分ですらそう思うのなら、今目の前で優しく微笑みながらこちらを見つめている彼の心はどれほどの傷を負っているのだろうか。

 思わず唇を噛む。両親の問題は自分の問題であり、弟は全く関係のないことだと何となくわかっていた。見ぬふりをしていればいいものを、それでも彼が身を削ってまで自分に近づいてくる気持ちは正直なところ全くわからない。しかし、その気持ちが自分の疲れ果てた限界の近い自分の心身を唯一支えてくれる安定剤になっていた。その事実が心のどこかではいけないことであると、喉に小骨が引っかかるような違和感をずっと抱えている。

「おにぃは気にしないで。父さんと母さんなんていつもあんな感じだし。それより俺はおにぃの方が心配だよ……ずっと勉強勉強って、苦しくないの? たまには2人で遊びに行こうよ」

 寂しさか怒りか、じんわりと目に水を浮かべ部屋の明かりを乱反射する。サファイアの瞳がより鮮明に輝き、見入ってしまうほど美しいそれに親指を軽く当てて拭えば暗かった表情が柔らかな笑みに変わり、ありがとうと一つ漏らす。その一言に辛かった腹の張りやよどんだ気持ちが少しばかり楽になった気がした。

「遊びたいのは僕もだよ。でも僕は体が弱いし、多分というか絶対にお父さんとお母さんは許してくれないから……。それに司は友達がいっぱいいるだろ? 僕と遊ぶより、友達といたほうがきっと楽しいよ」

 気づけば自分が暗い表情になっていた。せめて弟の前では素直な顔を見せたいものだが、何か強い力で押し返されるようにどうにも上手く表現することができない。物心ついた時から勉強の時間や行きたい学校も友人関係も全て両親に制限され、自由な時間なんてほとんどなかった。そのせいか自分の感情を表現する方法がわからないまま成長している。させられている、と言ったほうが正しいだろうか。

「俺はおにぃと遊びたいの! 確かに友達と遊ぶのも楽しいけど……最近ずっと部屋に籠りっぱなしで顔も合わせてくれないじゃんか。会話だってこんな……」

 跳ねるように立ち上がり左手の拳を強く握りしめながらこちらを見下ろす。つうっと目から大粒の涙が流れ落ち、声を抑えるように泣き出す。その姿に心臓がきゅっと縮こまる感覚がし、力の込められた手を取りながら頭を撫でる。

「……ごめん。僕が駄目なお兄ちゃんだから、司にこんな思いさせちゃって……」

「ううん、俺の方こそごめん。別におにぃもやりたくてやってるわけじゃないのはわかるし。俺もわがまま言い過ぎたよ」

 そういうと軽く流すように手を振りほどく。よれた半袖の服の襟で乱暴に涙を拭きとると、いつもの太陽のような明るい笑顔を見せながら泣いていたことを無かったことにするようにはにかむ。

「明日は遊ぼう! おにぃもこんな部屋にいたら体にカビ生えるよ。学校の帰りとかさ、近くの公園行こうよ」

 断ろうとすればそうはさせまいと言うように、ぐっと近づく。約束、と無理やり小指を絡めればこちらの声を聞く素振りもなく扉の方へ駆け寄り音をたてないよう出ていく。ぱたんと小さく閉められれば、また一人きりの空間に静寂が広がる。

 行き場のない小指をたてた右手が重力を思い出したようにゆっくりと下がり、忘れていた腹の膨らみが突然暴れだす。反射的に口を押え、部屋から少し離れたトイレへ転がり込むと、ダムが決壊するように胃の中のものが逆流する。手足に変な力が入り、立つことすらままならない。何度も咳き込みながらぼやけていく意識を手放さないよう爪を腹に食い込ませる。痛みと苦しさが同時に襲い掛かり、もやは今自分は人の形を保っているのかすら曖昧なほど表情も感情も想像できないまま時間が過ぎていく。

 吐くものがなくなり、えずきだけが絶えず繰り返されるようになってからようやく落ち着き始め、座った状態のまま壁によりかかる。いつものだ。いつも晩御飯にはたんまり食わされ、時間が経てば耐えきれなかった内臓が訴えるように押し返す。今回が初めてじゃなかった。もう一年ほど前からこんな生活を余儀なくされ、いい加減両親も気づいているはずなのにそれでも食べさせてくる。きっかけは、学校で行われた健康診断の結果だった。身長のわりに痩せすぎと言われ、このままでは体が弱って早死にすると考えた両親が無理やり食べさせてくるようになった。もともと細身で小食な自分からしたらそこまで気にするものではなかったが、それを良しとしない勝手な考えに振り回されている。

 頭の中心から鈍い痛みが走る。眩暈がする。神経からじわじわ広がっていく疲労感によりその場で眠ってしまいそうだった。それはいかんとなんとか体を奮い立たせ、トイレを流しおぼつかない足取りで自分の部屋に戻る。汚れた服を着替え、酸味の広がる口内を磨く頃にはかなり落ち着いていた。まだ多少の震えはあるものの、意識を保ちながら用事を済ませてやっと部屋のベッドに寝転がることができた。はちきれる寸前まできていた胃とそれに押されていた臓器の解放感と引き換えに、心身に莫大な倦怠感が襲い掛かる。電気を消し布団にくるまれば、弟と話していた時から堪えていた涙が溢れ出す。それを受け止めるように枕にじんわりと滲んでいく。

 鼻をすすり、かぶっている布団で止まる気配のない涙を拭う。喉が熱を持ち始める。風船が詰まったような違和感で吐き気がぶり返し、息が苦しくなる。部屋から声が漏れぬよう叫びたい気持ちを必死に抑えながらひたすら泣き、えずき、意識を失いかける。

 枕も布団もぐっしょりと濡らし、鏡を見ずともわかるほど目が赤くなった頃、自然と涙が止まり頭がぼーっとし始める。濡れた布が肌に張り付いて気持ち悪いはずなのに気にならなかった。気にしたところで何があるわけでもなければ、誰かが来てくれるはずもない。時折、外から車が走る音がする。どこにいくのだろう。その車に乗せて、どこか遠くへ連れて行ってくれないだろうか。こんなところにいても楽しいことなんてひとつすらない。両親が怖い。勉強なんてしたくない。頭がよくなりたくもかっこよくなりたくもない。ただ普通の生活をしたかった。普通に学校に行って、友達や弟と遊んで、帰る時間がちょっと遅くなって怒られて。勉強も人間関係も縛られない、ただ普通の生活。それがどうして自分には許されないのか。誰が何を考えてこんなことをしているのか。ひたすらにすべてが怖かった。自分以外の人間が、動物が、虫が、無機物ですら自分のことを常に監視しているような気がして安心できる場所などなかった。

 瞼が落ちていく。思考が曖昧になっていく。眠るんだ。そう直感した時、常に思うことがあった。

 ———このまま二度と目が醒めなければいいのに。

 いつものように、そんなことを考える。視界が黒に染まっていく。体が宙に浮かぶ感覚がする。どこかへ去っていこうとする意識のリードを、諦めたように手放した。

—————————————————————

「ねぇ弦ちゃん。あなたはお母さんたちのことを支えるために、良い大人になるのよ」

 頭を撫でながらそう言う母。

「うん! 俺……じゃなくて、僕がんばる! お勉強もいっぱいする!」

「弦は偉いな。それに比べて司は……」

 無邪気に答える弦を見ながら、ちらりと離れたところを一瞥する父。

「……俺だって頑張ってるよ。ほら、昨日のテストだって九十五点取ったし……」

「たったの九十五点? あのね司、あなたのお兄ちゃんは百点なのよ。一度たりとも百点以外を取ったことが無いの。それなのに……はぁ、全く誰に似たのかしら」

 怯えるように紙を見せる司を軽蔑するような眼差しで母が見下す。父も庇うわけでもなければ叱咤するわけでもなく、興味がないようなそぶりを見せると手に持った新聞を読み始める。

「お母さん、司も頑張ってるんだよ。それに九十五点なんてすごいじゃん! ねっ、つかさ———」

 人の肌と肌が勢いよくぶつかる音が響く。頭を撫でようと司に伸ばした弦の腕が、母によって強く叩かれた。無数の針が刺されているかのように、痛みと痒みが同時に襲い掛かってくる。唖然とし、目を見開いて固まっていればその腕を母が強く掴み引きずっていく。階段を何度も躓きながら弦の自室につくと、子供がおもちゃ箱におもちゃを投げ入れるような乱雑さで突き放す。

「弦、変な真似しないで。あの子に触ったらあなたまで馬鹿になってしまうの。お母さんたちを支えるんでしょう? だったらお母さんたちの言うことを大人しく聞いて」

 怒りのこもった母の目に全身がすくむ。それでも、兄として弟を無視することは出来なかった。

「そんな、別にいいじゃん。司に触っただけで頭が悪くなるなんておかしいし、司だって本当に頑張ってるよ! それに、お母さんたちを支えるなら司も一緒の方がいいでしょ?」

 沈黙が流れる。天井がゆっくり降りてくるような圧迫感と重苦しさ。それを母の溜め息が破る。

「そう……やっぱりあの子と話してるからこうなっちゃったのね。ごめんね弦、お母さんたちは弦に期待しているの。あなたの気持ちはわかるけど、もう少しだけ我慢してくれない? そしたらきっと、弦もこれで良かったって思うから」

 その言葉の裏を、子供ながらに感じていた。必要なのは弦で、司はいらない人間なのだとなんとなく理解してしまった。それを悟られぬよう、作った笑顔でなんとか機嫌を取る。

「……わかった。じゃあ、そうするね」

 喉元まできていた言葉を何とか飲み込み、母の望む答えを出す。それを聞いて満足したように笑えば、ひどく荒れた手で優しく頭を撫でながら呪いの言葉を綴る。

「弦は賢いから、わかってくれると思っていたわ。お母さんたちのためにお願いね」

 それだけを残すと、返事を待たずに部屋を出ていく。扉が閉められ、足音が遠ざかっていく。

 ————待って、行かないで。

 行ってしまえば、また聞こえる。聞くに堪えない音が、人から出てはいけないと本能的に直感する音が。

 ————止めなければ。母と父を止めて、弟を助けなければ。

 足がすくむ。手が震える。頭ではわかっていても心が強く拒否するように体が動かない。早く早くと考えるほど、金縛りのように硬直しいうことを聞かない。

「……まっ————」

 絞りだすようにようやく声を発する。裏返った、情けない声。伝えたかった言葉を遮るように、重たい置物が叩きつけられるような鈍い音が床を貫いて響く。怒声と、何かが割れる音。それだけで何が起こっているのかなど想像に容易かった。いうことを聞かない体に心が無理やり動かそうと信号を流す。

 突然、自分を縛る鎖が解けるようにすべての神経が命令に従って扉へ進みだす。しかし自分の意志ではない。糸で吊られた人形のように自分で動いているように見えて誰かに動かされている。止めようとしても体が言うことを聞かず、意識と体が分離してしまったように歩かされる。ドアノブに手をかけ、想像以上に重たい扉を全身の体重をかけて押し開ける。巨大な岩でも押しているかのような感覚に違和感を覚えつつも一心不乱に力を籠める。

 ————あぁ、そろそろだ。

 ふと、そんなことを考える。理由はわからない。ただ無意識に頭に浮かんできた言葉。それに気づいた瞬間、扉が勢いよく開く。飛び出そうと力の入った足が目の前にいる人物を見るなり切り落とされたようにぴたりと止まる。

「……司?」

 同じ背丈だが自分と同じぐらいの少年。それを見た瞬間に弟だと気づいた。しかし、どこかがおかしい。首を曲げ表情すら見えないほど俯き、ただ黙ってそこに立っている。何度声をかけても反応はなく、その場その姿勢で魂が抜けてしまったようだった。異様なオーラによって下手に近づくこともできず背中を伝う汗にくすぐったさを覚えながら息を殺して見ていると、蚊の鳴くような細い声が聞こえてくる。聞き取れずに首をかしげていれば、ゆっくりとその頭が持ち上がっていく。やがてその顔があらわになると血の気が引く感覚が全身を襲った。

 息を呑み、一歩後ずさる。眼前に広がるその異様な空気を纏った少年の皮膚には、無数の打撲痕とえぐられたような傷とそれから溢れ出る血にまみれていた。強く殴られたのか片目が腫れ、刃で切られたように唇が裂け、爪を立てて絞められたことがよくわかるほど首の肉がえぐれていた。

「つかさ、それ……」

 恐る恐る震える手を伸ばしながら問いかけるも、返事が返ってくることはない。ただ何も言わず虚ろな目でこちを見つめるばかりでその思考すら読み取ることができなかった。その目に見られていれば次第に罪悪感が湧いてくる。自分がやったわけではない、さっき聞こえた激しい騒音のなかで起こったことだと必死に考える。しかし心はそれを許そうとしない。自分がおかしなことを言ったから、あの時何も言わなければ司はこんな目に合わなかったのだろうか。それとも、もっと自分が優秀だったら。両親を満足させる結果を得られていればこうはならなかったのかもしれない。自分のせいで。

「おにぃ」

 閉ざされていた口から聞き馴染んだ声が聞こえる。こちらを呼ぶ幼い声。しかしどこか怯えていて、どこか怒りを感じる熱のこもったその声が心臓に突き刺さるように激しい動悸が起きる。視界がかすみがかったようにぼやけて途端に平衡感覚が失われていく。開いた口から溜まっていた血が流れ、首筋を伝って服に染み込むその様子に後ずさるとほんの一瞬目が合った。

 どこを見ているか、なにも映し出さないその目がはっきりこちらをとらえる。獣にでも睨まれたように足がすくみ呼吸が浅くなっていくのがわかる。

「ご、ごめん司。その……僕のせい、だよね? 僕があの時何も言わなかったら、もっと頑張っていたらこうはならなかったと思う……。本当にごめん、僕が全部悪いんだ……」

 腰が抜けて床に座り込み両腕で頭を抱える。音の外れた声で必死に謝罪の言葉を並べるも、それが届いている様子は一切見えない。弟と両親に対する罪悪感。それを上塗りするように広がっていく自分への嫌悪感が涙となって滲んでいく。

 手が震え、吐き気がこみ上げる。両親はいったい弟に何をしたのか。何を言って、どんな気持ちでここまで酷いことをしたのか。弟がこうなるなら自分が引き受けるべきだと感じていた。自分がもっと勉強を頑張って両親が文句の一つも言いようがないほど良い成績を残せば、きっと手は出されなくなる。食事も普通に戻って、服や道具なんかをまた買い与えられて。それから遊びたいときに遊んで。それなのに、悪い方向へ向かうばかりだった。もっと頑張らなければ。もっと、もっと。

 静かに歩み寄る影が目に映る。先程と変わらない獣のような鋭い目でこちらに近づくと、服を掴む左手に力が入っているところが見えた。両親が自分を殴るときと同じ動作。爪が食い込むほど力を籠め、殺してやると聞かずともわかる禍々しさを纏ったそれに反射的に目をつむる。声が出ない。衝撃が来ることを予想した頭にすべての神経が集中する。奥歯を強く食いしばり、その瞬間をまだかまだかと待ち構えていればうるさかった頭の中がクリアになる。

 周囲から鳴る騒音も、はち切れんばかりの心臓の音も、2人の息遣いすら聞こえない。鼓膜が破けたように全てが無になり、自然と体の自由が利くようになる。そっと目を開き顔を上げれば何かをボソボソと呟きながらどこを見るでもなくただ立っている弟がいた。

 殴られないという安心と弟の状態が気になり立ち上がって近づく。

「司、ごめん。もう無理しないで、全部僕のせいだから……」

 その瞬間、脳が直接刺されるような激しい痛みに襲われる。反射的に頭を押さえ精一杯の力で立っていると、腕を掴まれ優しく支えられたかと思えば顔をぐっと近づけられる。額がぶつかりかけ、驚きつつもなぜか頭の中は冷静であり視界全面に映る宝石を埋め込んだように綺麗なその目を見つめていると小さく口が開かれる。

「————————」

 聞こえない。聞き逃したというより、その声だけが消されてしまったように静かだった。口は確かに動いていたはずなのに、聞こえるのはうるさい心臓の音と頭の中で叫び続ける自分の声だけ。それがなぜか怖くて仕方がなかった。殺されるかもしれない、ここで自分は死ぬのかもしれないというどこか漠然とした恐怖が全身を支配する。

「な、なに? なんて言ったの? 聞こえないよ、離して……」

 腕を掴む手を引き剝がそうと力を籠めるも張り付いたように離れない。自分の腕を引っ張っているような感覚に混乱していると、頭の痛みがひどくなってくる。目も開けていられないほど強まっていく激しさに視界がぼやける。声すら出せず溢れそうな吐き気に立っていられず半ば倒れるような形で体勢を崩すと、自然と瞼が落ちていく。底なしの沼に引きずり込まれるようにずぶずぶと意識が沈んでいった。

—————————————————————

「……ぃ…………にぃ……」

 水槽の外から必死に声をかけられているように遠くで誰かが名前を呼ぶ音が聞こえる。全身が塞がれまともに返事もできず、脳だけが異常なまでに活性化され酷い金縛りにでもあっているかのような感覚だった。温かい感覚が左肩に走ると体が揺さぶられる。起こされているのだろうか、目を開けなければ。そう思えば思うほどに力だ抜けていく。次第に声が大きくなる。自然と小さく息を吐くと揺さぶる力が強くなり、声がはっきりとしてくる。

「…………おにぃ……起きろって!」

 耳元で風船が割れるような声量に驚き浅く息を吸いながら目を開くと、ぼやけて曖昧な視界の中に誰かが映っている。逆光で見えずらいが鋭い目つきで心配そうな表情を浮かべた小学校高学年ほどにしては背も高く顔つきも大人びている少年が眠っている自分の顔を覗き込む。こちらの目が覚めたことに安心したのだろうか、柔らかい笑みを浮かべながら肩から手を離す。

「おはよう、おにぃ。今日入学式だろ? 早く準備しないと母さんたちに怒られるよ」

 目の前の少年をよく見ればくたびれた服の間から見える体の所々には痣のようなものができていた。しかしそれを気にする様子もない雰囲気に理解が追い付かず、じわじわと頭痛に襲われる。ワンシーンをところどころ搔い摘んだように夢の内容があやふやに思い出され、息苦しさと吐き気になんとか抗いながら起き上がり改めて青年を見やる。

「入学式って……なんの? それにえっと、君は……」

「……あー、また混乱してんだ。えっとねぇ」

 呆れたような表情で小さくため息をつくとベッドに腰かける。悲し気な目をしながらこちらを見るとぽつぽつと口を開く。

「俺は”不知火 司”。あなたの……弦の弟で、おにぃって呼んでる。そんで、今日はおにぃの合格した中学の入学式。もうすぐ出なきゃいけないから早く準備しなきゃ怒られるよって伝えに来たんだよ」

「僕が中学の……? 嘘つかないでよ、僕はまだ六年生で司はまだ小さくて……」

「うん、わかってる。だから今おにぃは囚われてるんだと思う。また変な夢でも見たのかな? 汗もすごいし。落ち着いたらまた記憶が戻ると思うから、とりあえず着替えて荷物まとめなよ」

 目の前の少年は、あの夢で見た弟らしい。覚えている姿からすっかり変わってしまった弟が震える手を取り落ち着かせるように撫でながら説明してくれる。まだ記憶の糸が繋がらず叫びだしたいほど混乱している自分に向かって焦るでも怒るでもなく、”また”と慣れたように説明するその姿を見るに、過去にも何度か同じことがあったのだろうか。口調と雰囲気から察するに嘘をついている感じはない。それに、その少年には確かに弟の面影があった。成長期だからか多少なりとも顔や体に変化が表れているも、空のような綺麗な目と優しい笑顔は彼にしか表現できないものがあった。

 鈍器で殴られたように痛む頭を押さえながらなんとか荒波を落ち着かせていく。何度か深呼吸をして息を整えると、安堵したように手を離し腰かけていたベッドから立ち上がる。

「ひとりで起きれる? 大変なら俺が手伝うけど、でも父さんと母さんに見つかったら怒られるからあんまり長居はできないかも」

「……大丈夫。ありがとう、司」

 高くなったように感じる背丈を見上げながら答えるともう一度微笑み、周囲を警戒するように扉に近づく。誰もいないことを確認するとこちらに手を振って音をたてずに出て行ってしまう。一人残された部屋でなんとか起き上がろうと鉛のように重たい体を無理やり起こすと、眩暈にふらつきながらもなんとか部屋の隅に追いやられたクローゼットに手をかける。開けば、ハンガーにかけられた新品の制服が着てくれと言わんばかりにやんわりと輝きながら待ち構えていた。

 ほとんど無意識に動かしている腕で制服を取ると、突然脳が活性化する。まばらに漂っていた記憶のピースが枠にはまり、封じ込められていたここ数年の映像が波のように押し寄せる。中学合格発表の日、真新しい制服が届いた日、それからこの数か月の生活が濁った水が澄んでいくように輪郭を取り戻していく。

 小学校を卒業したのはほんの一か月前。それからの両親は今まで以上に厳しくなった。名門校に入ったのだから、トップに立たなければ意味がない。気を抜くな、周りに置いて行かれるぞと毎日同じ言葉を繰り返しかけられた。勉強時間は優に十時間を超え、部屋に閉じ込められ暴力を振るわれることも多くなった。食事は今までよりも多くなり、食べては吐く生活を続けていくうちにだんだんと体が弱っていくのを実感した。

 それと同時に、弟は確かに少しずつ成長していた。背が高くなり顔つきも大人に近づき、声も変わって。とても小学生とは思えないほど精神的に成長し続け、彼なりに強く生きていた。時折こっそりと部屋に来ては学校での出来事や楽しかったこと、面白かったこと、悲しかったことなど話せずにはいられないというようにお喋りを交わす生活をしていた。それがこの閉ざされた暗い世界で、唯一深く息ができる瞬間だった。

「……司、ごめん。僕のせいだ」

 忘れていたここ数年の出来事。それら全てがフラッシュバックし、心臓を握りつぶすように苦しくなる。夢で見た光景。あの日の放課後、こっそり抜け出して2人で公園で遊んだ日。帰る時間が数分遅くなったことを怪しまれ、両親から徹底的に尋問された結果遊んでいたことをばらしてしまった。絶望のような、失望のような両親の顔が今でも写真のようにはっきりと思い出される。その時、自分にだけは何もなかった。それが逆にいけなかった。部屋に連れられいつものように外から鍵をかけられたとき、扉の外から聞いたことのない音を聞いた。陶器の割れる音、重たいものが壁や地面にぶつかる音、甲高い罵詈雑言。そのあとは————————。

「弦、準備は出来てるの?」

 我に返ったように目を見開く。手の中には冷たく硬い制服。少し狭く感じる部屋の中に立ち尽くす自分が部屋の壁に立てかけられた全身鏡にくっきりと反射していた。

「あ……もうすぐで準備終わるから」

 薄い扉一枚先に、母親が立っている。もう少し遅ければ弟がこの部屋に来ていたことがばれていたかもしれないと思うと、思わず安堵の溜め息が漏れる。

 慣れない布地に袖を通し、長くなった髪を軽く整えて一階のリビングに降りる。真っ白な式典服に身を包んだ母親がメイクをしながら待っていた。

「遅い。もっと早く準備できなかったの? 入学式に遅れるなんて恥ずかしくて人に言えないわよ」

 鏡の中の自分と向き合い、リップを唇に塗りたくりながらこちらを見ることなく声を上げる。短い返事を返しながら用意された朝食を細々と食べると、いつものように小さな疑問を口走る。

「お母さん、お父さんは? 今日の入学式来ないの?」

 身支度をする手を止めることなく、苛立ったような声色で変わらずこちらを一瞥することもなく答える。

「仕事よ。あの人は結局行くって言葉だけで本当に何もしないのね。お父さんはね、お母さんがどれだけ頑張っているか知らないの。お母さんがどんなに頑張ってお化粧をしても、料理をしても、掃除をしてもお父さんは仕事ばっかり。大した稼ぎもないくせに仕事仕事って買い物にすら付き合わない。その上お母さんのやること全部に口を出して……はぁ、もうお母さん疲れた」

 乱雑にメイク道具を片付けるとこちらに近づき、力強く抱き寄せる。息ができないほど強い香水の匂いが周囲の空気を支配し、食べたばかりの朝食がせりあがってくるも何とか抑える。

「あなただけよ、弦。あなただけがお母さんの希望なの。だからお願い、お母さんをがっかりさせないで」

「……うん。わかった」

 機嫌を損ねないよう言葉を柔らかくしながら返事をする。頭と腰に手を回されぞわりとした感覚に耐えながら、ただこの腕の中から抜け出したい一心で天井を見つめる。自分という人間は、いったい何なのだろう。両親のコンプレックスを埋めるためか、世間体のためか、あるいは。

 そんなことを考えているとようやく解放され優しく頭を撫でながら満足そうに頷くと、手を引っ張って玄関へと向かう。

「ほら、早く靴を履いて車に乗りなさい。遅刻したらどうするの」

 その声に従い、玄関に置かれた真新しい革靴に足を入れる。硬くて、痛い。かかとからつま先まで締め付けるような感覚に歩きずらさを覚えながらも母の背中を追いかける形で玄関から出る寸前に家の中を振り返れば、階段を少し上ったところから弟が小さく手を振っていた。母にバレぬよう振り返すと、満足したように姿を消す。体の傷が治るまでは体調不良という名目で家に閉じ込められる。それが彼の当たり前だった。

 車に乗り込むと、母は運転席で鏡を見ながら髪を直しなにか言葉を小さく繰り返し呟く。父の姿はなく、後部座席には革製の鞄を携え撫でられたせいで少し乱れた髪をした自分がいた。車がゆっくりと走り出すと前とは違う角を曲がり、知らない道を進んでいく。青く澄んだ空、天に届きそうなほど背を伸ばした木々からは桜が眩しい太陽の光を反射し、輝いている。それらを見上げながら自分と同じ制服を着た子供や正装をした大人が手を繋いだり笑い合ったりしながら歩いている人たちを横目に進んでいるとやがて白い壁に囲まれ、花や人で豪華に彩られた格式のある校舎が見え、窓越しにもその圧迫感が伝わってくる。それと反比例するように、心臓が激しく鼓動し呼吸が浅くなる。これから始まる生活の今後と両親からの期待の鎖で絞め上げられ今にも叫びだしてしまいそうだった。自分の心だけが、まだあの暗い部屋に取り残されていることを強く実感した。

 車が停まる。エンジンを切り扉が開かれると、今までとは違う空気がふんわりと全身を包んだ。母は満面の笑みを浮かべて車を降り、まるで自分が大きな舞台に立つかのように背筋を伸ばした。

「弦、胸を張って歩きなさい。これからあなたはこの学校で一番になるの。お父さんとお母さんをがっかりさせないでね」

 その言葉に、はいと小さく答えて歩き出す。新しい靴がずれる感覚と知らない地面、家から離れたところにあるためか知っている顔は一人もいない。吐き気がするほど晴れ渡ったこの空間に自分しかいないような気がしてどうにも居心地が悪く、生きていることを無理やり自覚させられているような気がしてならなかった。

 会場である体育館の中に入ると、外で見たよりも多くの生徒と保護者で溢れかえっていた。みんなが笑顔で話し、黄色い声が四方八方から響き渡る。

「お母さんがここに座るから、弦ちゃんは隣に座りなさい。それと、誰とも会話しちゃ駄目よ。お勉強に友達は必要ないから、くれぐれも友達を作って遊ぼうなんて考えないように」

 鋭い視線で釘を刺される。どうせそう言われるだろうと薄々心の中では気づいていたため、もとよりそんな気はなかった。勉強に支障が出るから友人なんていらない、それがこの家庭の自分に対するルールだった。

 周囲を見渡せば既にグループが組まれているところや熱心に話をしている生徒たち、仲良く親と会話をしたり隣同士で自己紹介をしたりしている中、自分だけがただひとりぼっちでパイプ椅子に座り壇上を見つめ続けていた。

「ねぇねぇ君、どこから来たの? ここらへんじゃ見たことない顔だね!」

 突然、自分の隣から声を掛けられる。活発そうな男の子だが、あまり食べていない自分より小さい。天井のライトと窓から差し込む黄色い目が特徴的な少年が、好奇心を抑えきれないというように飛びかかってきそうな勢いでこちらの返答を待つ。

「あぁ、えっと……」

 一言だけでも返さなければと声を発すると、傷だらけの手で口をふさがれる。驚きのあまり体が大きく跳ねると、母の高い声が目の前の少年に向かって投げかけられる。

「ごめんねぇ。この子、今体調が悪くて。うつしてしまったら悪いからまた今度お話してくれる?」

 母の声色は到底優しいものではなかった。傍から見れば穏やかなお母さん程度にしか見えないのかもしれない。しかし自分にだけははっきりと分かった。その少年に対する嫌悪感と苛立ち、そして自分に対する約束を守れなかったことの怒りと失望。穏やかに聞こえる母の言葉には、自分にしか気づけないどす黒い感情が渦巻いていた。

「そうなんだ! 春は風邪ひきやすいって僕のママも言ってたから、君も気を付けてね!」

 そんなことに気づくわけもなく明るい言葉だけを残すと、少年はどこかへ走り去っていく。待って、助けてと叫んで手を伸ばしたかった。しかしそんなことは叶うわけもなく、小さく伸ばされた行き場のない手が膝の上に崩れ落ちる。肩を抱く母の手から様々な感情が伝わってくる。帰ったら何を言われるのか、何をされるのか。それを考えただけで頭が割れそうなほど酷い頭痛に襲われる。

 壇上を見れば教師たちが数名歩いたのち、その中で最も歳を重ねているであろう老人が中央の演台前に立つと騒がしかった声が次々と静まり返っていく。やがて外で鳴く鳥の声だけが聞こえるようになると、どこからか司会の声がマイクを通してスピーカーから響くと長い長い無の時間が始まった。

 校長先生の訓示、来賓の挨拶、新入生代表の言葉。どれも耳に入ってくるのに、頭には何一つ残らない。何度も壁に掛けられた大きな時計を見ては、あとどれぐらいで終わるのかと呆れる。

 その時ふと、考え事をしてしまう。これから自分はこの学校で何をするのだろう。どんな学校生活を送って、何を成すのか。ただ教科書を読み、問題を解き、良い成績を取って、またあの暗い部屋で文字を書きひたすら両親のご機嫌取りマシンになるのだろうか。自分にとっては簡単かもしれない。でも、弟は? 自分がもしできなかった時にいちばんに被害を受けるのは彼かもしれない。そうなれば今以上に苦しい仕打ちを受け、精神的にも耐えられなくなるかもしれない。もし、そうなってしまえば彼は。

『これより入学式を閉会いたします。明日は本登校となりますので、新入生の皆さま、保護者の皆さま、気を付けてお帰りください』

 無機質な司会の声に沈み切っていた思考が浮上する。目だけで周りを見ればあくびをしながら帰る子供達や、未だ交流を続ける大人の姿ですっかり賑わっていた。その中に、開会前に話しかけてきた男の子がほかのグループで楽しそうにはしゃいでいるのを見て思わず息を呑む。ここはただ勉強をして両親の機嫌を取る場所なんかではなく、誰かと交流して笑い合う場なのだ。誰かの監視下に置かれながら一人で過ごすのではなく、やりたいときにやりたいことをする時間なのだと男の子の表情を見て自然とそう感じた。

「……いいな」

 おもわずそう呟いていた。はっとして口を押えるも、どうやら人々の喧噪で聞こえなかったらしく母がそれに気づいているようすはない。安堵の溜め息をつきながら胸をなでおろすと手を引かれながら車に向かって歩いていく。この歳にもなって手を繋いでいるのはどうかと言われれば、別に繋ぎたくて繋いでいるわけではないと真っ向から否定したい。母が、勝手に逃げないようにと昔からの癖だった。幼いころは仕方ないかと思っていたものの、大きくなるにつれだんだんと違和感が芽生えていた。本当に自分が逃げないようにとやっているのだろうか。あんなことをしておいて、今更あてもなくどこかに走り出して逃げ出すように見えるのか。どこまでも理解できない母の行動に嫌と言いたくても逆らえば殴られるのは、と考えるとどうにも言い出せない。

 考え事をしていると車の助手席に座らせられ、エンジンがかかると我先にというように速度を上げて走っていくのは母の機嫌が悪いときの癖だった。

「弦、お母さんの言うことが聞けないの?」

 怒っているとき特有の低い声でハンドルを握り車を進めながらそう問いかける。

「えっと……ごめんなさい。本当に間違えただけで……」

「間違えた? 何をどうしたら間違えるのかしら。お母さん言ったわよね、誰とも会話しちゃいけませんって」

「はい……」

「それともなに、お母さんを困らせたいの? こんなにあなたのために頑張っているのに、あなたもお父さんみたいにお母さんを傷つけるの?」

「違う、そうじゃなくて————」

「そうじゃないならなんなのよ!」

 急ブレーキをかけながら路肩に停車する。軽い体が前に飛ばされそうになるのをシートベルトが防ぐと突然頭に強い刺激が走る。恐る恐る目を開けると母が髪を引っ張りながら顔を近づけてきた。鬼のような形相と急な痛みに脳が混乱し、呼吸が浅くなる。

「どうせコソコソ誰かと遊んでいたんでしょう! お母さんが頑張ってお料理も作ってお勉強もさせてあげてるのにどうして裏切るようなことをするの!?」

 髪を掴まれたまま何度も頭を揺さぶられ、そのたびに視界が揺れると上下すらわからないほどいびつに歪んでいく。内臓が委縮し、呼吸が苦しくなり心臓が小動物のように早鐘を鳴らす。

「ねぇ、何とか言ってよ。それともまた司なの? あなたは、あなたを大切に育てているお母さんたちよりあの出来損ないの相手をするの!?」

 鉄が擦れ合うような耳障りの悪い甲高い音が耳元で鳴る。聞きたくない言葉が体中に突き刺さり、意識を失いそうなほど頭痛が襲う。逃げたい、怖い。助けて。声にならない声を心の中でつぶやき続けていると、散々怒鳴って落ち着いたのか拒絶するように突き放せば途端に泣きだす。

「ごめんね、弦ちゃん。駄目なお母さんでごめんね。本当はあんなこと言いたくなかったの、ごめんね、ごめんね」

 あふれる涙をハンカチで拭いながら吐きだし、今度は優しく抱きしめてくる。その腕の中で、体を強張らせたまま微動だにできなかった。怒りの余韻が残る指先が背中をさするたび、皮膚の下を冷たい虫が這うような不快感が走る。謝罪の言葉も震える声も、全てが呪いとなり己の心臓を強く絞めあげる。

 わかったから、と小さな返事をすると母はようやく抱きしめる力を緩め、仲直りと言いながら左の頬にキスをすると血が上って熱くなった顔を冷ますように手で仰ぎながら笑う。その笑いすらも今はどうしようもなく気持ち悪くて、じゅくじゅくとした胃液がせりあがってくる感覚に襲われていると母がそのままサイドブレーキを外し、車を走らせると何事もなかったかのように話し出す。

「明日から名門校の生徒なんだから、今まで以上にお勉強を頑張らなきゃ駄目よ。参考書は買ってあるから帰ったらすぐに勉強しなさい。学校の教科書は使えないから鞄に入れて教室に置いておきなさいね。それとこれ、習い事のスケジュール表を組んでおいたから机の上に貼っておくこと」

 そういうと片手間に折りたたまれた紙を渡してくる。塾、英会話、そろばん……まだ中学生にもなったばかりとは思えないほど厳しい日程に驚きつつも、今に始まったことではないかと諦めて目を滑らせる。丸一日時間があっても足りないぐらいにはみっちりと詰め込まれ、もはや反抗する気も起きない。

 ふと窓の外を見る。映像のように流れていく景色は昔の写真のように色褪せ、生きている意思を一切感じさせない。無機質で冷ややかな視線を向けられているような重みに恐ろしさすら感じながら俯く。

 ここから逃げ出して遠くへ逃げてしまいたい。しかし、逃げたところでどこに向かうのだろう。きっとその先なんの面白みもない残りの数十年を何かに囚われて生きていくしかないのだ。だって今がそんな人生で、そんな人間なのだから。胃がキリキリと悲鳴を上げる。その悲鳴すら押し殺すように優しくさすると、自分が生きている人間なのだと改めて実感する。早く帰って弟の様子を見たい。現実から逃げるようにそれだけを考えて母の呪いの言葉を受け流す。気前のいい中身のない返事だけを繰り返し、なんとか2人だけの時間を乗り越えるといつもの家という名の檻に帰ってくる。

「ほら、早く部屋に戻りなさい。今のうちに高校のお勉強もしておかなきゃね」

 母が背中を押し、檻の中に足を踏み入れる。鎖と口枷で縛られた痩せ細ったライオンのように言われるがまま靴を脱いで冷たい床に足を踏み込む。

 重たい体を引きずるように自室へ向かい扉を閉めれば、詰まっていた息が勢いよく吐きだされる。全身の力が抜け、その場に倒れ込むと指一本すら動かせないほど内側から疲労がインクのように広がっていく。このまま眠ってしまいたいと考えながら何とか勉強に取り掛からねばと体を起こし、制服を脱いでタンスに入っていたシャツに袖を通す。人肌で温かく、冷や汗で冷たくなった制服をぎゅっと掴みながら床を見つめていると扉の先から足音が聞こえた。母や父の重苦しいものではなく、ヒヨコがぽてぽてと追いかけてくるような小さな足音。やがてそれすら静かになると、ゆっくりとドアノブが下がる。

「……っあ、おにぃおかえり」

 中にいるのが自分と分かった途端、不安そうな表情がぱあっと明るくなる。好きなお菓子でも渡された子供のように足を浮かせながら部屋に入るとそっと扉を閉め、また大きなため息を吐く。

「入学式、どうだった? すごく頭の良い中学校だって母さんたちが言ってたから、やっぱり周りもおにぃみたいな天才ばっかりだったり?」

「やめてよ茶化すの、緊張するじゃん……。それに僕は天才じゃないし、きっと司とかみんなの方が頭良いよ」

 それを聞いた弟が腰に両こぶしを当てながらもの言いたげな表情になると、あのね、と言葉を紡ぐ。

「確かにおにぃより頭の良い人はいるかもしれない。でも俺はたいして良いわけでもないし、そんなの父さんと母さんの態度みたらわかるだろ。それに……」

 そこまでいうと先程まで自信満々に話していた姿勢から一変して表情が曇りだす。手をぶらりと下げ、影の差す顔を俯かせながら唇を噛むと、また明るい笑顔に戻る。

「なんでもない! おにぃも無理しないでね。俺はおにぃがいるだけで誇らしいんだから、あんまり気負うなよ!」

 部屋のライトで照らされた人工的な明るさを持つ笑顔を向けると、こちらの返事を待たずに部屋から出ていく。あの空元気の裏にはどんな言葉が隠れていたのだろうか。気になると同時に、触れてはいけない何かを感じる。弟も少なからずこの関係を気にしているのだろうか。そもそも、弟はおにぃと呼んでいる自分のことをどうして恨んだり妬んだりしないのかがはなはだ疑問だった。

 普通なら多少は嫌悪感や攻撃的な様子ひとつ見せてもいいはずなのに、いったい弟の中に何が隠れているのか。それだけが気がかりで仕方がない。実の兄弟なら幾度とあるであろう喧嘩や言い合いなんてしたこともない。する時間すらないと言った方が正しい気もするが、お互いそんな感情を向けたことすらないことに今更ながら気が付くとさらに違和感が脳を支配する。

 しばらくぼーっとしていると、一階のキッチンから料理を作る音が聞こえてくる。それを皮切りに思考を止め、持っていた制服を洗濯に出し身だしなみを整えながら机に向かうと、大量の参考書が積み上げられていた。どれも中学三年生から高校生レベルで、一見しただけではさっぱりわからない。まだ小学校を卒業したばかりだからなどという言い訳が通用するわけもないので大人しく椅子に座りノートを広げながら基礎から始めていく。今まで学んでいたものとは違う難しさに頭を抱えながらも、信じてくれる人を守るために必死に文字を綴る。勉強している姿勢と成績さえ見せれば、きっと弟も自分もずっと無事でいられる。少しでも機嫌を取るために作り上げなければ。自分がどうなっても、せめて弟だけは守れるように。

 新調したシャーペンに圧がかかり、時折芯が折れる。そのたびに自分の心も少しずつ欠けていくような気がしていたが、そんなものに構っている暇なんてない。弟のために、多少自分が削れても彼が無事でいられるなら。



2


 兄は物静かな人でした。何をされても何を言われても、黙って受け入れてお決まりの言葉と表情でその場をしのいでこっそり泣く。そうしてずっと一人で過ごしていました。

 兄がこの家に来たのは、自分が小学一年生の時です。小学校受験に落ち、反抗的で成績もあまり良くない自分は早々に両親から見放された結果、両親ともどもの学歴コンプレックスを埋めるために孤児院にいた最も頭の良い子供を引き受けました。その子供が奇跡的に自分たちとあまりにもそっくりだったため、両親は本当の子供のように可愛がり、前の両親からまともな成長をさせてもらえず記憶が曖昧な時期を狙って嘘ばかりを刷り込ませました。

 私たちがあなたを産んだのよ。あなたは私たちの本当の子供なの。弟は勉強ができないからあなたが代わりにお父さんとお母さんを喜ばせてね。そんな言葉を、わざわざ自分にも聞こえるように話していました。最初は自我が曖昧だった兄も、そんな言葉をかけられ続けてしばらくすると本当の子供みたいに振る舞うようになりました。嫉妬や嫌悪感はありません。ただ、兄の今後を考えるとただただ心配で仕方がなかったのです。

 自分はといえば、勉強もできないくせに親に逆らうなと言われ、暴力を振られる日々でした。素手で殴られたり、棒で叩かれたり、時には刃物で傷つけられたりと普通の環境ではないと幼いながらに気づいてしまいました。人間として成長するための大切な最初の段階を潰され、そこからまともな人間という形すらわからず足の踏み場すらないほど荒らされた道を必死に這ってきました。そんなときに兄が来て、完全に自分は捨てられたのだと考えました。でもそれはただの思い込みにすぎなかったのです。

 優秀な兄が一瞬でもそれに逆らったとき、暴力を振るわれるのは自分でした。最初は納得がいきませんでしたが、自分がどれだけ劣っていて無能だと日々知らされていくうちに兄が被害を受けないならと我慢するようになっていきました。苦しむのが自分だけでいいなら、いつか兄と2人で家を出て逃げよう。そう考えていました。

 兄が自分に意識を向けたことは、自分が小学三年生の頃です。偶然風呂場で遭遇し、今まで隠していた体の痣を見られてしまいました。あの時の兄の絶望した表情といったら……その時になって初めて本当の兄だと信じ込んでいるんだと確信しました。幼いながら、それがどれだけ残酷で悲しいことなのかを身に染みて実感し、傷だらけの体で泣きながら抱きつきました。困ったように腕を回し返してくれたあの時の温かさはきっと忘れません。それからいつか、

「司、今大丈夫かな?」

 扉がノックされ、声がかかる。反射的に開いていたノートを閉じると机の中にしまいながら、無意識に足音を殺しながら扉に近寄りゆっくりと開ける。暗闇に包まれた廊下で異質な雰囲気を放ちながら立っていたのは兄である弦だった。両手にはラップに包まれた手のひらサイズのおにぎりを二つと水のペットボトルを持ち、眉を寄せながら心配そうな声色をしていた。

「どうしたのおにぃ、勉強は?」

「僕は大丈夫、それより司が心配でさ。今日もご飯食べてないでしょ? おにぎり持ってきたから食べてよ」

「……いや、いいよ。バレたらおにぃが怒られるし。別にお腹も空いてないから」

 一瞬の間を置き、この瞬間を待っていましたと言わんばかりにいっそう大きな音を立てて腹が鳴る。あまりの恥ずかしさに腹を押さえながら目を見れば、苦笑しながらこちらを見ていた。思わず目をそらせば、無理はだめだよと言いながら部屋に入ると、ベッドに腰かけながら一息つく。

「ほら、お腹空いたでしょ。遠慮しないで食べていいから」

 それを拒否することなどできるはずもなく隣に座ると、まだ温かいおにぎりを手渡しながら優しく微笑む。それにつられて笑えばどこか安心したように頭を撫でてくる。

「やめてよ、もう子供じゃないし……」

「司はまだまだ子供だよ。可愛い僕の自慢の弟」

 目を見開きながら顔を見つめると、その瞳に嘘をついている雰囲気はなかった。途端にこっぱずかしさを覚えながらも包みを解いて一口食べるとちょうどいい塩加減の米が口の中に広がり、栄養が体内を駆け巡る感覚にどこか安心する。お腹がすいていたというのもあり、勢いよく食べ進めていると喉に詰まり慌てて渡された水を飲んで落ち着けば、少しはマシになった空腹感に安堵しながらふと兄の方を見る。

「ねぇ、司。最近はお父さんとお母さんに何かされてる?」

「ん、あー……まぁ、それなりに。でもそんな気にすることじゃないし」

「そっか、でも無理はしないでね……」

 それを聞いて寂しそうにありがとうとこぼしながら見つめ返してくる。もの言いたげな表情に小首をかしげると、それを受け取ったようにぽつぽつと話し出す。

「あのね、これは相談なんだけどさ……明日遊ばない? ほら、前もそんなこと言って結局遊べなかったし」

「んー……俺はいいけど、でもおにぃは習い事が……」

「そんなのちょっとなら休んでも大丈夫だよ。 それに、今は習い事なんかより司と一緒にいたいから」

「……そっか。わかったよ、じゃあ明日遊びに行こ?」

「うん、賛成!」

 そういうと元気にガッツポーズを決め、心の灯火が光を増すように晴れ渡る。そんなに喜ばれたら引くに引けないなと考えつつ、自分が兄と遊びたいというのもまた事実だったためその日はしばらく話してからこっそりと自室戻っていった。幸いバレることはなく、いつも通りのだだっ広く寂しい部屋に1人取り残される。心が空っぽになる感じと同時に、あの事が聞かれるのではないかと勝手にヒヤヒヤしている自分がいる。そんなはずないとわかってはいても、”もしかしたら”が抜けることは一瞬たりともなかった。

 もし兄がこのことを知ったら、どんな反応をするだろう。両親を選んで愛されればご飯と確実な愛情を貰えるが、一歩間違えれば暴力は免れない。しかし自分はどうだ。弟を選んだところで待っているのはジリジリと近づいてくる死のみ。人はいつか死ぬ、そのいつかが今来るのではないかと日々怯えながら過ごすことになる。そうなれば、きっと兄は両親を選ぶだろう。兄は優しくて、自分も兄のことが大好きだ。自分なんかの心配をしてくれて、時折今日みたいに隠れてご飯やお菓子を持ってきてくれる。まともな食事が学校の給食のみの自分にとってはこの上ない幸せだった。

 でもきっと違う。弟だからという関係性だけで優しく接してくれているだけであって、何かがあればすぐに両親側につくだろう。そうなれば、この家での居場所はなくなる。そう考えるとまた胃が刺されるような痛みに襲われる。今日のところは眠ろうと冷たい布団に入り、まぶたを閉じると兄の優しい笑顔が浮かんでくる。”一緒に遊びたい”、”司が大事だから”。その言葉だけが思考を行ったり来たりする。今自分がここまで生きていられるのはきっと兄のおかげだろう。もしそれが無くなれば。考えるだけで目頭が熱くなる。こんなんじゃダメだと頭を振り、なんとか自分を保つ。

 今は小学生だが、これから兄の中学受験や高校受験が終わって自由に動けるようになった頃、ちゃんと伝えて2人で逃げよう。酷なことだとは理解しているがお互い見て見ぬふりでやり過ごせる時期を超えれば、兄もわかってくれるはず。もしこれで嫌われたとしても……いや、嫌われたらきっと兄はその程度の人間だったんだと確証を得られる。怖くないかと言われれば死ぬほど怖い。でもこれ乗り越えた先に何が待っているのかという好奇心が恐怖心より勝っていた。

 その時まで、できるだけ傍にいよう。媚びを売るなんて嫌な言葉ではなく、しっかり兄弟として向き合おう。そうすれば兄もわかってくれるはず。

 薄らと意識が遠のいていく。水面と水中を行き来して溺れるような感覚にどこか気持ち悪さを覚えながらも、抵抗することなくすんなりと意識を沈めていった。

────────────────────

「おにぃ、早くしないと日が暮れちゃうよ!」

「待ってよ司、僕体力がなくて……」

「そんなの通用しない! いい、おにぃ? この公園での鬼ごっこは死ぬか生きるかだよ。体力がなくても足が遅くても、負けは負け。おにぃが誘ったんだからこっちのルールも守ってもらうよ!」

「そ、そんなぁ……」

 そういうと兄は膝に両手をつきながら激しく息を切らしていました。元々体が弱い兄だったので仕方ないことだと思ってはいましたが、どうにも途中から可哀想になって手加減する事にしました。でも兄は思ったより弱くて、どんな遊びをしてもどんなに手加減しても自分の圧勝でした。というのも、兄は人と遊んだ経験なんてこれっぽっちも無かったからです。

 隠れんぼでは優柔不断で決められず、時間切れ直前になってシーソーの裏に隠れるなんてことをしてたので、思わず大笑いしてしまいました。鬼ごっこや缶蹴りは足が遅すぎて早歩きでも勝てました。縄跳びも縄の使い方を知らず3回しか飛べませんでしたが、頑張って教えた結果5回まで飛べるようになりました。あまりの嬉しさにハイタッチをしました。でも、唯一負けたのがだるまさんがころんだでした。兄は冷静な性格なので落ち着いて素早く動き、気づけば肩を叩かれてビックリしました。自分はといえば早く行こうと先走っちゃう性格のせいで何度も負けてしまいました。それだけが悔しくて、近いうち絶対にリベンジしてやると言ったら頑張ってねと応援されました。勝てるようにいっぱい練習しなきゃと思いました。

 気づけば2人とも土と汗だらけになって笑っていました。時間を見ればちょうどよく塾が終わる時間だったので、走って転んだことにして帰ろうといい兄はランドセルを、自分は古い手提げバッグを持って帰り道を仲良く歩きました。初めて兄弟のようなことをしたかもしれないと思うと、心臓が高なって走り出してしまいたい気分でした。

 家に着き、玄関を開けると母が大きな足音を立てて出迎えました。手に、何かを持っていた気がします。自分達ふたりの前に立って何かを言ったあと、父も来ました。それから、

 日記を書く手を止める。唇と手から溢れて止まらない血がノートに滲み、文字を曖昧にしていく。ジリジリと熱を持って内側から皮膚を叩くような殴られた跡、強く踏みつけられ未だその感覚だけが鮮明に残った脚、なにか鋭利なもので何度も切りつけられて血が流れて痒みを持つ全身の切り傷と口の中に広がる鉄の味。帰ってからの記憶が曖昧で、日記の続きが書けずに何度も書いては消してを繰り返す。そのうち紙がクシャクシャになり、鉛筆の跡も消えきらない程になると大人しくノートを閉じて机の中に入れる。絶えず口や体から流れる血を服で拭いこっそり持っていた絆創膏で手当てをするとひとまず落ち着く。

 まだ痛む頭を押えながら立ち上がると激しいめまいに襲われる。机にもたれて落ち着くまで体勢を立て直すと、そっと部屋を出る。両親が寝静まった夜の家の中は不自然なほど広くて不気味だった。

 兄の部屋の前まで来ると、小さく声をかける。ガタッとひとつ物音がしただけでそれ以外の反応はなく、もしかしたら兄も何かされたのではないかと心配になり扉を開けると、ベッドの上で丸くなる兄の姿があった。一見これといった怪我はないことに安堵しながら近づくと、まるで化け物でも見るかのような目でこちらを凝視する。無理もないかと思いながら唇の血を袖で拭きながらもう一度小さく声をかける。

「おにぃ、大丈夫? 何もされてない?」

「ごめん、ごめんね司……全部僕が悪かったから、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 聞いてもいないのに何度も謝る兄を、見て見ぬふりなどできなかった。きっと何か酷いことをされたんだと思うとこちらの胸まで痛くなる。宥めようと近づいて肩に手を置くと小さな悲鳴を鳴らしてさらに謝罪の言葉を連ねる。

「大丈夫、おにぃは悪くないよ。悪いのは連れ出した俺だから、おにぃは気にしないでよ」

 なんとか話をしようと顔を覗き込むと、信じられないものでも目にしたように瞳孔を狭めながらぶつぶつと何かを呟き続ける。

「僕が悪い、僕が悪いから……ごめんね司、ごめん……」

「だからなにがごめんなんだよ。俺は何も気にしてないから、落ち着いて話そうよ」

 何度なだめても落ち着く気配はない。混乱しているのだろうか、ショックで自分のことを幻覚かなにかだと思い込んで怖がっているのか、それしか考えられないほど怯えていた。これ以上声をかけても無駄だと悟り諦めて肩に優しく手を添える。

「おにぃ、ごめんね」

 それだけを残して離れ、部屋を出る。相変わらず怯えた表情で何を考えているかも、自分の言葉が伝わっているかもわからない。ただそれだけを言うためにここに来たのは間違いだっただろうか。もっと落ち着いたころに話すべきだったか。そんなことを考えながら振り返って一瞥すると、目が合う。それすらどこか悲しくて距離すら感じるものがあった。扉を閉め、自分の部屋に戻る。途端に涙があふれ、今まで両親から受けたどんな暴力よりも、言葉よりも心に刺さった。自分のせいで、何も悪くない兄が巻き込まれたのだと。そう思うと自分を責めずにはいられなかった。少し考えればわかったはずなのに、どうしてこんな無理に連れ出してしまったのだろう。もっとなにか別の方法があったはずなのによりにもよってこんなことになってしまったのか。涙と血が混ざって服に染み込んでいく。もう少し落ち着いてから話そう。それからちゃんと謝って次は2人で勉強でもして、両親に怒られないようにして。

 考えれば考えるほど涙がとまらなくなる。両親への恐怖なんかではなく、自分のせいで兄も被害を被ったのだと思うと悔しくて仕方がなかった。届かない謝罪を小さく繰り返しながら冷たい床に倒れる。氷の上で眠っているような感覚と、あまり掃除がされていない埃っぽい部屋の空気で肺が満たされていく。明日には死んでいるのだろうか。もしかしたらこの勢いのまま殺されているかもしれない。それが怖くて怖くて、もしそうなってしまっても兄だけは逃がさなければと考える。こんな時まで兄のことを考えるなんて、こんなことが知られてしまったらきっとまた謝られてしまう。もう聞き飽きたよ、とでも言ってやろうか。それとも、そう言うなら逃げようと手を引っ張って遠くに行こうか。どっちでも楽しそうだな、なんて考えながら目を閉じる。硬い床すら自分を拒否するように体の節々が痛み始める。もしまた目が覚めたら、兄の姿を一瞬でも見られますように。それが知れただけで次の日の生きる糧となるから。2人で逃げればきっとなんとかなる。曖昧かもしれないが、今はそう信じるしかなかった。眠気が毛布のように全身を包みだす。体力のひとつも残っていない体で受け入れると引きずり込まれるように脳までもが黒に染まっていった。

────────────────────

「おにぃ、起きろよ。今日入学式なんだろ? 遅刻したら父さんと母さんに怒られるぞ」

 大きく膨らんだ布団の塊をゆすっても反応がない。窒息でもしているのではないかと無理やり剥がすと、汗まみれになりながらうなされている兄の姿があった。

「まじで大丈夫かよ……おーい」

 肩をゆすっても空気の混じった唸りをあげるだけで目を開ける気配はない。早く起こさなければまた両親に何かされるのは目に見えていた。それだけはごめんだと思いながらなんとか起こそうと先程より強めにゆする。嫌がるように体をねじりそっぽを向くと、なんだか否定されたような気がして無性に悲しくなった。

「こんの……おにぃ、起きろって!」

 顔を近づけて声をかける。それを皮切りにはっと目が見開かれると、酷く息切れをしながら定まらない視線をうろうろと泳がせながらこちらを認識する。

「おはよう、おにぃ。今日入学式だろ? 早く準備しないと母さんたちに怒られるよ」

 目が覚めたことに安心して優しく声をかけるも、こちらを凝視するだけで反応がない。もしかしてと思い再度声をかけるもそれが伝わっている様子はなく嫌な予感がする。どう確認するべきかと頭を悩ませていれば、ゆっくりと震える口が開かれる。

「入学式って……なんの? それにえっと、君は……」

 それを聞いて確認する手間が省けたと考える反面、やはりこうなるかと諦めに近いもやもやで息が苦しくなる。

「……あー、また混乱してんだ。えっとねぇ」

 ベッドに腰かけながらなるべく刺激しないように優しく話をする。自分が誰で、あなたが何者か。名前、関係、時間、今の状況。まるで初対面の人に自己紹介をするように。ひとつひとつ丁寧に説明していく。兄の記憶が混濁するようになったのは今に始まったことではない。いつだったか、両親に黙って2人で遊んだ日。こっそり帰ろうと言い訳を考えながら帰路につき、その後の出来事。自分にとってはいつもより少し痛いな程度だった両親からの暴力という名の教育も、兄にとっては刺激の強いことだったのだろう。それもそうか。実の弟と信じてやまない人間が泣き叫びながら一方的に傷つけられて、収まったと思ったら突然血まみれの自分が近づいてきたら怖がるのも無理はない。唯一、その時の兄は何もされなかったことだけが救いだった。だからこそなのだろう。今でもあの時のことを思い出すと手が震え呼吸が苦しくなる。何とか早まる心臓を押さえながら最低限の説明をすると、そろそろ両親が来るからと兄のもとを後にする。まだ理解しきっていない兄を放っておくのは少々気がかりだが、バレたらまた面倒くさいことになるのでいたしかたがなかった。

 部屋に戻り、閉め切られたカーテンを少しだけ開ける。住宅街は桜の木と花びらに囲まれ、新学期や入学だと喜んで走り回っている子供や同い年ほどの子たちでごった返していた。大人も嬉しそうな笑みを浮かべながら見送ったり一緒に歩いたりと、普通の家庭が目の前に広がっている。

「……いいなぁ」

 カーテンを閉め、どこか黴臭く薄暗い部屋に戻る。両親につけられた八つ当たりの傷が治りきるまで外に出ることは許されなかった。学校に行く時だけ長袖と長ズボンを着せられ隠しているが、どうにも最近虫の居所が悪いようで顔にまで打撲痕がついていた。

 しばらく使っていない自室の勉強机に座り、引き出しを開けると一冊の古びたノートを取り出す。最初のページは丁寧に書かれているも、めくっていくにつれ文字に力が入っている気がしない。言葉もつたなくなっていたり、何かが染み込んだような皺が残っていたりと次第に紙がぼろぼろになっていく。あるページに差し掛かった時、脳が危険信号を出し手が止まる。逆らうように無理やり動かし所々破れた紙をめくると、血が滲んだページが見開かれる。字が震え、最後の部分は何が書いてあるかすらわからない。何を書いたかすらも、思い出せない。小さく息を吸いながらノートを閉じて机にしまう。それと同時に玄関の開く音が聞こえる。ひとり思いにふけっている間に準備を終えたらしい。せめて手を振るだけでもと足音を殺して階段を途中まで下りる。ちょうど兄が靴を履き終わって出ていこうとしているところだった。母の姿がないことを確認し、小さく手を振る。気づかれないかと悲しむ準備をしていたものの、ふと目が合うと小さく振り返す姿が見えた。それがまた嬉しくて思わずいってらっしゃいと声をかけそうになるのを必死に抑える。その時ばかりは玄関が閉まる無機質な音すら気にならないほど嬉しさに包まれていた。

 自分の部屋に戻りベッドに寝転がる。何も与えられていないがらんとした部屋でやることなんて何一つない。あるとすれば歌でも歌うぐらいだろうか。冷蔵庫の物を勝手に食べれば怒られるため、こっそり持ち出したお菓子と水だけで腹を満たす。そんな生活を数年、もう慣れたものだった。自分が我慢するだけで兄が美味しいご飯を食べられるなら、十分な生活が送れるなら。

 腹の空きを感じないよう無理やり眠気を引き起こす。こうすれば何も感じなくていい。殴られても蹴られても、腹が減っても頭が痛くても、忘れられるならいくらだって眠ろう。もうこれ以上、目が醒めなければいいのに。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。


TRPGを長年続けていて、いつしか自分のキャラたちの過去や物語を考えたいという思いの元、数年前から見たいものを見る一心で書き続けていた自己満足の小説を、初めて人目の触れる場に出しました。小説家人生初の長編小説なので、ミスなど多いかもしれませんがどうか温かい目で見守ってください。


両親から期待されなくなった【不知火(しらぬい) (つかさ)】と、弟の代わりに過度に期待されてしまった【不知火(しらぬい) (ゆづる)】という、絵にかいたような不幸兄弟の心情追憶です。


成長していくにつれ、彼らの関係にどんな壁が立ちふさがるのか。ぜひ、お楽しみに。

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