第37話:私は進もうと決めた
五月十二日金曜日。
目覚ましが鳴った瞬間、心臓が先に起きた。
音に驚いたというより、音が鳴る前から体のどこかが「今日は違う」と知っていた感じだった。
布団の中で息を整えようとしても、胸の内側が小さく震えている。
昨夜のメッセージの最後のやり取りが、目を閉じるたびに浮かぶ。
「明日のお昼休みに社員食堂で会いませんか」
「12時半に一番奥の窓際の席に座っているから」
「わかりました」
(わかりました、なんて。
返事をした瞬間に、逃げ道が消えた気がした)
でも、あれは逃げ道を消すための返事じゃない。
私は、あの瞬間確かに「行きたい」と思った。
友達でいい。
友達として会いたい。
嘘をついていたことを謝りたい。
それから、もし許されるなら、もう少しだけ話したい。
たった一つの席の指定が、妙に具体的で、現実の形を持ってしまったからこそ、胸が詰まる。
枕元のスマホを手に取って、画面をつける。
通知はない。
当たり前だ。
今日は会う。
言葉を重ねるんじゃなくて、実際に同じ空気を吸う。
それだけで、頭の中が過剰に騒がしい。
洗面台の前で顔を洗う。
水はまだ冷たい。
指先が赤くなっていく。
冷たさが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
鏡の中の自分は、いつもと同じ顔のはずなのに、目だけが落ち着かない。
眠気のせいじゃない。
期待と不安が、瞳孔の奥で綱引きをしている。
(千佳は男。
あの人は男。
私は女。
それでも会う。
この状況、冷静に考えたらかなり変だ!
いや…
これが普通なのかな?)
髪を結ぶ手が何度も止まる。
結び目を高くするか低くするかで迷う。
「何やってんの」と自分に突っ込みながら、結局いつもの位置に落ち着く。
メイクも、いつもの手順なのに今日は時間がかかる。
ベースを薄く整えながら、心のどこかで「今日、肌がきれいに見える日であってほしい」と願っている自分がいる。
そんなことを願ってどうする。
今日は評価される日じゃない。
確認する日だ。
でも、確認する日ほど、どうして見た目が気になるんだろう。
玄関で靴を履いた瞬間、ふっと足元が軽くなった。
緊張は消えていない。
けれど、動き出したことで、心の中の迷いが「進む」に切り替わった気がする。
駅までの道、風が生ぬるい。
春の終わりと初夏の匂いが混じっている。
昨日の売り場で感じた香水や乳液の匂いとは違う、外の匂い。
それが妙に救いになる。
電車に乗り込むと、朝の混雑が肩に乗る。
吊り革につかまりながら、車内の広告を眺めるふりをする。
実際は、頭の中で何度も同じシーンを再生している。
社員食堂。
一番奥の窓際。
12時半。
そこに座る男。
その男に、私はどう声をかけるのか。
「千佳さん」なのか。
「佐伯さん」なのか。
(本当の名前、昨夜は言わなかった。
でも今日、彼は“佐伯和人”かもしれない。
私は“新堂真子”だと、もう彼にばれているかもしれない)
胸の中の仮定が増えるほど、現実の輪郭がぼやける。
だから私は、いったん考えるのをやめて、目の前の駅名表示だけを見ることにした。
一駅ごとに、心を落ち着かせる。
息を吸って吐く。
吸って吐く。
それだけで、少しだけ心拍が整う。
◆◇◆
百貨店の従業員口に入ると、消毒液の匂いが鼻に刺さった。
カードキーをかざす音。
足音が反響するバックヤード。
ワックスで光る床。
いつもの景色なのに、今日は全部が少しだけ鮮明に見える。
いつも通りの朝礼に参加し、数字と予定と注意事項を聞く。
口では「はい」と返事をするのに、頭の半分は時計を見ている。
(今、9時。
まだ3時間以上ある。
長い。
こんなに長い午前中、今まであった?)
売り場に立つ。
お客様が来る。
手を動かす。
口を動かす。
笑顔を作る。
香りを提案する。
肌の悩みを聞く。
普段なら“仕事モード”に入ると時間が早い。
でも今日は、時間の流れが変だ。
早く過ぎてほしいのに、ひとつひとつの動作が丁寧に伸びる。
不思議とミスはしない。
むしろ集中しすぎて、目の前の人の声がやけにクリアに聞こえる。
10時半、琴美から短いメッセージが入った。
「今日の昼、行くの?」
私はほんの一瞬迷ってから、「行く」とだけ返す。
すぐに「がんばれ」と返ってきた。
その二文字が、変に胸にしみた。
(がんばるって、何を。
会うだけなのに。
会うだけが、どうしてこんなに怖いんだ)
売り場の奥で、在庫表を確認しながら小さく深呼吸をする。
香水の試香紙の束が、かすかに甘い匂いを放つ。
制服の袖口が少し窮屈に感じる。
体温が高い。
緊張のせいだ。
11時を過ぎた頃から、社員食堂のことしか考えられなくなった。
早めに休憩に入れるか。
12時半に間に合うか。
休憩がずれたらどうしよう。
「一番奥の窓際の席」という指定は、彼の強さだ。
逃げないための場所。
でも同時に、私にとっては“行き先が決まっている”という救いでもある。
迷わずに済む。
あとは、そこに行くだけ。
11時40分、売り場の責任者に休憩のタイミングを確認する。
「新堂さん、今日は12時からでいい?」
その言葉に、心臓が跳ねた。
(12時からなら、12時半に余裕で行ける)
私は平静を装って「はい、大丈夫です」と返した。
声が少し高くならなかったか心配になって、すぐに咳払いで誤魔化す。
◆◇◆
12時。
バックヤードに引っ込み、タイムカードのように休憩開始の手続きを済ませる。
一歩進むたびに、足裏が現実を踏む感覚が強くなる。
背筋が伸びる。
汗をかくほど暑くはないのに、手のひらが少し湿っている。
社員食堂へ向かう通路は、昼前独特の匂いがする。
揚げ物の油、味噌汁の湯気、カレーのスパイス。
その匂いが、今の私には妙に“日常”としてありがたい。
(大丈夫。
ここはいつもの職場。
私はいつもの休憩に行くだけ)
食堂の入口が見えたところで、一度だけ立ち止まる。
深呼吸。
息を吸うと、油の匂いが肺に入る。
吐くと、胸の内側の余分な熱が少し出ていく。
時計を見る。
12時22分。
まだ早い。
でも早い方がいい。
指定された席に座るのは彼だ。
私はそこへ“行く側”だ。
早く行って、変に目立ったらどうしよう。
遅れて、彼が不安になったらどうしよう。
どちらも嫌だ。
トレーを手に取り、日替わり定食の列に並ぶ。
人の会話が耳に入る。
「GW疲れたね」
「今日から通常運転だわ」
その当たり前の言葉が、今の自分だけ浮いているように感じさせる。
(私は今日、通常運転じゃない)
定食を受け取り、席を探すふりをしながら、一番奥の窓際を目で追う。
食堂の奥には大きな窓があり、午後の光が薄く差し込む。
窓際の席は、確かに少しだけ落ち着く場所だ。
いつもなら同僚と座るか、空いている席に適当に滑り込む。
今日は違う。
視線が一直線に奥へ吸い寄せられる。
12時28分。
一番奥の窓際。
そこに、男がいた。
背中が見える。
椅子に座る姿勢がまっすぐで、肩の線が落ち着いている。
膝の角度。
スマホをテーブルに伏せて置いている。
その“伏せ方”が、妙に彼らしい気がしてしまう。
(どんな伏せ方だよ、って話だけど)
私はトレーを持つ手に力が入って、指先が白くなる。
顔はまだ見えない。
横顔だけが見える位置。
その横顔が、昨日の化粧品売り場で見た「佐伯和人」に似ている気がする。
いや、似ているどころじゃない。
同じだ。
昨日、背中を追ってしまって、振り向かれて、目が合って、軽く微笑まれた。
あの人。
(この人が千佳だった男。
私の“リョウ”と毎日話していた相手)
喉が鳴る。
自分の唾の音がやけに大きく聞こえる。
胸の中が熱いのに、足先が冷たい。
一歩が重い。
でも、止まったら終わる。
私はトレーを持ったまま、ゆっくりその席へ近づいた。
彼がこちらに気づく。
視線が上がる。
ほんの一瞬、空気が張り詰める。
その一瞬で、私は確信する。
(この目だ。
文章の奥にあった目。
相手をちゃんと見ようとする目)
言葉が喉の奥で詰まる。
「千佳さん」と呼びそうになって、飲み込む。
「佐伯さん」と呼ぶべきなのか、分からない。
そもそも今の私は、彼にとって“誰”なのか。
新堂真子としての私。
それとも、リョウとしての私。
手のひらが汗で滑りそうになり、トレーを落としそうになる。
私は自分の膝に力を入れて踏ん張った。
そして、ようやく、言葉にならない息を吐く。
(会いに来てしまった)
ここまで来たら、もう戻れない。
逃げられない。
でも、不思議と――彼の前に立った瞬間だけ、胸の氷が少し溶けた。
怖いのに、安心している。
それがいちばん怖い。
窓際の光が彼の横顔の輪郭を少しだけ柔らかくする。
食堂のざわめきが遠くなる。
時間が薄く伸びる。
私は、トレーを持ったまま、席の横に立った。
声を出せないまま、ただ彼を見つめる。
彼もまた、私を見上げている。
その目に、昨夜のメッセージの続きを見た気がした。
(千佳。
リョウ。
和人。
真子。
嘘と本当の境目が、今、ここで揺れている)
時計は、12時30分を少し過ぎていた。
約束の時間通りだった。
でも私の心臓だけが、予定よりずっと早く、激しく鳴っていた。




