第七章 ―朝廷への布石―
一 時貞の疑問
永禄四年、初夏。
七島に戻った時貞は、博多での経験を咀嚼しながら、一つの問いに突き当たっていた。
夜、天元の端末に向かいながら、琢磨は独り言のように呟いた。
「天元。俺は一つ、確認していなかったことがある」
「何でしょう」
「朝廷だ」
端末の光が静かに揺れた。
「この時代、朝廷はどういう状態にある。帝は誰で、公家たちはどう動いているか——俺はゲームの中ではあまり気にしていなかった。だが現実の戦国時代において、朝廷という存在を無視することは——」
「できません」と天元が続けた。「朝廷は日本の正統性の源泉です。どの大名も、最終的には朝廷の権威を必要とします。信長も、後の秀吉も、家康も——天下人は必ず朝廷と向き合います」
「そうだ」
時貞は立ち上がり、窓の外の夜の海を見た。
「将来、鳳凰寺家が日本統一を成し遂げる時——朝廷との関係が整っていなければ、正統性が生まれない。力だけでは天下は取れない。歴史がそれを証明している」
「ご指示を」
「朝廷の現状を全て調べろ。帝、公家の動向、財政状態、五摂家それぞれの今の立場——全部だ。そして——」
時貞は少し間を置いた。
「鳳凰寺家に協力してくれる公家を探し出す。将来の布石として」
二 朝廷調査
翌日から、諜報部が動いた。
風間新八郎は博多から京へ向かった。別働隊の諜報員が近畿各地に散り、情報を集め始めた。
三週間後、報告が鳳凰寺城に届いた。
浜村清が参謀室で、幹部たちの前に報告書を広げた。
「まず、現在の帝についてです」
浜村は資料に目を落とした。
「現在の帝は正親町天皇——御年四十四歳。永禄三年に即位されたばかりです。つまり——桶狭間と同じ年に即位された帝です」
時貞は静かに頷いた。
正親町天皇。後の世で、信長、秀吉と渡り合うことになる帝だ。聡明で、したたかで、乱世の中で朝廷を生き延びさせた人物——歴史書でその名を何度も見た。
「帝の現状は」
「一言で申し上げれば——極度の困窮です」浜村の声が沈んだ。「即位の礼の費用すら満足に調達できず、即位式が長らく行えない状態が続いていました。朝廷の財政は完全に破綻しています」
「どれほど深刻だ」
「公家たちが内裏の中で、野菜を自ら栽培して食いつないでいるという報告があります。補修されない御所の建物は雨漏りがひどく、帝の御座所でさえ雨の日には傘が必要だという話も」
室内が静まり返った。
時貞は目を閉じた。
(そこまでか)
戦国時代の朝廷の貧窮は、歴史書で知識としては知っていた。だが改めて言葉にして聞くと、その深刻さが胸に沁みた。
「公家の動向は」
「各家がそれぞれ有力大名に頼って、辛うじて生計を立てています。知識と官位を売る——それが今の公家たちの実態です。ただし」と浜村は続けた。「彼らが持つ情報網と人脈は、今も侮れません。朝廷には日本全国の大名との繋がりがある。情報の集積地として、その価値は相当なものです」
「では五摂家の現状を」と時貞は言った。
浜村が資料を改めた。
「五摂家——近衛、九条、二条、一条、鷹司。それぞれの現状をご報告します」
「近衛家」
「五摂家の筆頭。現当主は近衛前久——御年二十四歳。若く、行動的で、野心を持っています。この方は後に信長や上杉謙信とも独自の外交を展開する、五摂家の中では最も政治的に動ける人物です」
時貞は前久の名を頭に刻んだ。
二十四歳。自分より十二歳歳上だが、この時代では充分に若い。そして——動ける、という評価。
「近衛前久は今、何をしている」
「朝廷の窮乏を打開しようと、精力的に動いています。大名への書状を自ら送り、献金を求めるなど、従来の公家らしからぬ積極性があります。ただし現状では資金が全く足りておらず、焦りがあるようです」
「焦りがある——それは」
「こちらにとって、接触しやすい状況です」と浜村は言った。
時貞は静かに頷いた。
「九条家」
「現当主は九条稙通。御年五十四歳。老練で慎重、朝廷の慣例と格式を最重視する保守的な人物です。新しい勢力との接触には消極的で——鳳凰寺家への協力を求めるには、最も難しい相手かと思われます」
「今は動かさなくていい」と時貞は言った。「九条は保留だ」
「二条家」
「現当主は二条晴良。御年三十五歳。朝廷内での調整役として信任が厚く、帝の信頼も篤い。慎重かつ実務能力が高い。財政難には頭を悩ませており、安定した支援があれば動く可能性があります」
「帝の信頼が厚い——それは重要だな」と時貞は言った。「二条家を通じれば、帝への影響力を持てる可能性がある」
「その通りです」
「一条家」
「現当主は一条内基——御年十八歳。時貞様より六歳上です。現在は後見人が実務を担っており、当主としての政治力はまだありません。将来的な関係構築の相手として、今から接触を始めることには意味があるかもしれません」
時貞はわずかに笑った。
「一番年齢が近いな」
「鷹司家」
「現当主は鷹司忠冬。御年五十一歳。実務的で現実主義者。財政的な支援を提供してくれる勢力には、格式を問わず協力する柔軟性があると分析されます。ただし複数の大名と既に独自のパイプを持っており、情報の扱いには注意が必要です」
浜村が報告を締めくくった。
「総括すると——鳳凰寺家への協力者として最も可能性が高いのは、近衛前久と二条晴良の二名と判断されます。近衛前久は行動力と政治意欲があり、二条晴良は帝への影響力を持つ。この二家を軸に関係を構築することを推奨します」
時貞は資料を閉じた。
「わかった」
三 偽造渡来銭
「次の話をする」と時貞は言った。
幹部たちが姿勢を正した。
「現在日本で流通している銭は、大半が中国からの渡来銭だ。永楽通宝を中心に、洪武通宝、宣徳通宝など。だが——」
時貞は天元の端末を操作した。
モニターに、銭の画像が映し出された。
「この時代の日本は深刻な銭不足に悩んでいる。渡来銭の輸入量が需要に追いつかず、粗悪な私鋳銭が大量に流通して、経済が混乱している。朝廷も大名も、銭が足りない」
「それを」と成瀬が言った。「鳳凰寺家が——」
「鋳造する」
静寂が落ちた。
「二十一世紀の金属加工技術と、島の工廠を使えば、渡来銭と全く区別のつかない銭を大量に作れる。品質は本物以上にできる。むしろ粗悪な私鋳銭が流通している現状では、高品質な銭を大量供給することで経済の安定に貢献する面もある」
「しかし」と木島が言った。「それは——」
「偽造だ」と時貞は静かに言った。「その言葉は避けない。だが考えてくれ。この時代に通貨の正規発行者は存在しない。中国が鋳造した銭を、日本が勝手に使っているに過ぎない。その銭と同品質のものを鳳凰寺が作ることが——どれほどの実害を生むか」
誰も反論しなかった。
「目的は三つだ」と時貞は続けた。「一つ目は朝廷への支援。二つ目は協力してくれる公家への対価。三つ目は鳳凰寺家自身の資金調達だ。銭は将来の九州外交、琉球接触、各種開発——全ての基盤になる」
「規模は」と浜村が聞いた。
「まず朝廷への贈与として百万貫を用意する」
浜村の顔色が変わった。「ひゃ——百万貫ですか」
「朝廷の財政は完全に干上がっている。中途半端な額では効果がない。百万貫という規模であれば——帝と朝廷に、鳳凰寺家の本気を示せる」
「百万貫の物理的な重量は」と天元が静かに言った。「永楽通宝換算で約三千トンになります。輸送には相当な準備が必要です」
「一度に全額送る必要はない」と時貞は言った。「まず協力してくれる公家への先渡し分として十万貫。その後、朝廷への贈与を段階的に行う。継続的に協力してくれる公家には、年三万貫の継続支援と、鳳凰寺家が持つあらゆる情報の提供を約束する」
成瀬が腕を組んだ。「情報の提供、というのは」
「公家たちは今、大名たちの情報を集めて価値を生み出している。だが彼らが持っている情報は、所詮その大名が見せたい情報だけだ。鳳凰寺の諜報部が持っている情報の質とは、比較にならない」
「なるほど」と浜村が頷いた。「大名の本当の財力、兵力、内部の対立——そういった情報を公家に提供することで、朝廷の情報価値を高める。そして朝廷を通じて、逆に諸大名の情報が鳳凰寺に流れてくる」
「双方向の情報交換だ」と時貞は言った。「カネだけでなく、情報という価値を与える。それが長期的な関係を作る」
「天元、銭の鋳造計画を」
「了解です」と天元が応じた。「島の第二工廠を転用します。永楽通宝の金属組成は銅七十、鉛二十、錫十の合金です。この組成は七島周辺からの調達で賄えます。月産能力は設備増強後で約五万貫。百万貫の確保には約二十ヶ月が必要です」
「始めてくれ。ただし——」と時貞は言った。「品質は本物以上を維持しろ。粗悪品を流通させることは、絶対にしない」
「はい。品質管理を最優先とします」
「そして絶対に外部に漏らすな。これは鳳凰寺家の最高機密だ」
「了解しました」
四 使者の選定
「京への使者を誰にするか」と時貞は問うた。
風間が手を挙げた。「私が参ります」
「お前はすでに顔が割れ始めている。博多での動きが、諜報の世界では知られつつある」
「では」
「別の者を使う」と時貞は言った。「京の公家の世界に溶け込める——知識と教養と、落ち着いた物腰を持つ者が必要だ」
浜村が一人の名を挙げた。
「——榊原雅之はいかがでしょう。三十五歳、元々公家の家臣の家の出で、有職故実に通じています。七島に来る前は京に長く暮らしていた。公家の礼法も心得ています」
「呼んでくれ」
翌日、参謀室に榊原雅之が現れた。
細面の、物静かな男だ。立ち居振る舞いに品があり、確かに武人というより文人の雰囲気がある。
時貞は榊原を見た。
「榊原。京へ行ってもらう」
「はい」と榊原は静かに答えた。
「近衛前久殿と二条晴良殿——この二人に接触してほしい。ただし最初から全てを明かす必要はない。まず鳳凰寺家という勢力が存在すること、朝廷の窮状を深く憂いていること、そして誠実な協力関係を築きたいと思っていることを伝える」
「具体的な条件は」
「最初の接触では出さない。相手の反応を見てからだ。ただし——こちらが本気であることを示すために、最初の面会の際に五千貫を持参する。見舞い金という形で」
「五千貫を、最初から」と榊原が少し驚いた顔をした。
「本気を示す最も簡単な方法は、カネだ」と時貞は言った。「言葉は安い。この時代、言葉だけで動く者はいない」
「……承知しました」
「それと」と時貞は付け加えた。「帝の現状を、できる範囲で直接確認してきてくれ。御所の状態、帝のご様子——目で見てきた情報が欲しい」
「はい」
「榊原」と時貞は言った。「京は今、あらゆる勢力の情報が集まる場所だ。護衛は付けるが慎重に動いてくれ。無理はするな。危ないと思ったらすぐ引け」
榊原は深く頭を下げた。
「必ずや」
五 時貞の独白
深夜、時貞は一人書見台に向かっていた。
灯りの下に、小さなノートがある。
琢磨は静かに書いた。
朝廷について——
この時代の天皇と朝廷は、権威はあるが力がない。財政は破綻し、御所は雨漏りがする。帝は傘を差して暮らしている。
それは悲劇だ。だが同時に——こちらにとって、接触の余地がある。
俺は朝廷を利用したいのか?
時貞は筆を止めた。
正直に向き合う。
(利用する部分はある。否定しない。だが——)
朝廷には、日本という国の正統性の核がある。どんなに力を持っても、その正統性を無視した者は最終的に倒れてきた。歴史が証明している。
(俺が目指すのは、日本の国力を高めて、外からの脅威に対抗することだ。そのためには、日本という国の求心力が必要だ。そして日本の求心力の源泉は——朝廷にある)
だから朝廷を支援する。
それは打算でもあるが——同時に、本心でもある。
帝が雨漏りする御所で暮らしているという話を聞いた時、時貞は純粋に、胸が痛んだ。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「百万貫の準備が整ったら——朝廷への贈与は、条件なしで行う。協力の有無に関わらず、だ」
天元が少し間を置いた。「確認します。協力の有無に関わらず、朝廷に百万貫を贈与する、ということですか」
「そうだ。朝廷への支援は、取引ではなく義務だと思っている。俺が将来日本を統一するなら、朝廷を支えることは当然のことだ」
「……了解しました」
「ただし、協力してくれる公家への支援は、それとは別の話だ。情報と政治的な協力への対価として、継続的に支払う」
「はい」
時貞は窓を開けた。
夏の夜の海風が入ってきた。
(正親町天皇)
後の世で、その名は歴史の脚注に小さく記される。信長に庇護を求め、秀吉に利用され——しかし朝廷という火を消えないように守り続けた帝。
(今度は——俺が支える)
時貞はそう思った。
それは計算ではなく、ただの決意だった。
六 榊原、京へ
梅雨の晴れ間、榊原雅之が京へ向けて出発した。
見送る者は少なかった。目立たない出発が必要だった。
七島の小港から漁船に乗り、摂津の小さな港に上陸。そこから陸路で京へ向かう。
護衛といっしょに、五千貫分の永楽通宝が厳重に梱包され運ばれていた。
そして時貞からの書状が一通。
書状には、こう記されていた。
近衛前久殿へ
鳳凰寺七島、当主・鳳凰寺時貞より。
はじめてお名前を知った時から、ずっと敬意を持っておりました。
朝廷の現状を、遠く七島の地において深く憂えております。帝が雨漏りする御所で過ごされているという話は、日本に生きる者として、胸が痛みます。
我々に、朝廷をお支えする機会を与えてください。
見返りは求めません。ただ——いつか、お話しする機会をいただければ、それで十分です。
取り急ぎ、ほんの気持ちばかりですが、使者に持たせました。
鳳凰寺時貞 敬白
榊原は書状を懐に入れ、京の方角を見た。
初夏の空が、高く青かった。
その頃、七島では工廠の一角に、新しい設備が静かに稼働を始めていた。
炉の中で、銅と鉛と錫が溶け合う。
型に流し込まれ、冷え固まり——
永楽通宝が、一枚、また一枚と生まれていった。
品質は本物以上だった。
天元が一枚ずつ検品し、規格外を弾いた。
七島の工廠で生まれた銭は、やがて日本の歴史を動かす資金になる。
それはまだ、誰も知らなかった。




