第六章 ―春の航海、そして邂逅―
一 出港
永禄四年、春。
鳳凰寺七島の軍港に、朝の光が差していた。
桟橋に並んだ艦艇が、穏やかな春の海に映えている。旗艦「鳳凰」を中心に、護衛艦二隻、補給艦一隻。計四隻の編隊が、今日の出港を待っていた。
桟橋に成瀬一郎が立っていた。
その隣に——鳳凰寺時貞。
白い軍服に身を包んだ十二歳の少年が、海を見ていた。春の海風が髪を揺らし、その目に静かな光が宿っている。
「殿」と成瀬が言った。「本当によろしいのですか。まだ危険が——」
「成瀬」と時貞は遮った。「道雪殿が待っている。俺が行かない理由がない」
「しかし御身の安全が」
「旗艦に乗って、護衛艦二隻を連れていく。これ以上何が必要だ」
成瀬は口を閉じた。
時貞は桟橋を歩いた。
七島の民が、岸辺に集まっていた。当主が初めて島の外へ出る——それだけで、島全体が静かな興奮に包まれていた。子供たちが手を振り、老人たちが頭を下げた。
時貞は立ち止まり、振り返った。
島を、見た。
自分が——真田琢磨が——ゲームの中で作り上げた島。だが今やそれは、本物の土地であり、本物の人々が生きる場所だ。
(必ず戻る)
時貞は心の中で言った。
そして旗艦「鳳凰」の艦橋へ向かった。
「鳳凰」は全長百五十メートル。護衛艦としての機能と、当主の座乗に相応しい設備を兼ね備えた艦だ。艦橋から見える視界は広く、春の海が四方に広がっていた。
「出港します」と艦長の三田が告げた。
「頼む」と時貞は短く答えた。
機関が唸った。
艦が動いた。
桟橋が遠ざかる。島が遠ざかる。人々の姿が小さくなる。
時貞は艦橋の窓から、島が水平線の向こうに沈むまで、その姿を見続けた。
二 豊後水道の遭遇
九州への航路は順調だった。
春の海は穏やかで、鳳凰寺艦隊は快調に南西へ進んだ。二日目の昼過ぎ、豊後水道に差し掛かったころだった。
「艦長」と見張りから通信が入った。「前方に帆船群を確認。南から北上しています」
三田艦長が双眼鏡を向けた。
「……南蛮船だ」
時貞が艦橋に出てきた。
モニターに映像が映し出された。大型のガレオン船が三隻、白い帆を張って北上している。船体に描かれた紋章——ポルトガルの紋章だ。
「何をしている船だ」と時貞が言った。
「貿易船かと思われます」と浜村が答えた。「しかし——積載量からすると、物資の量が多すぎる。兵器の可能性があります」
「誰かに売りに行くのか」
「大友宗麟への武器売却の情報が、以前からありました」
時貞は少し考えた。
「進路は変えない。このまま通過する」
「接触しますか」
「しない。今は時期ではない」
だがその時、南蛮船の一隻が進路を変えた。
「鳳凰」に向かって、近づいてくる。
「……向こうから来ます」と三田が言った。
「旗信号を出しています」と通信士が報告した。「何者かを問うているようです」
時貞は腕を組んだ。
南蛮人から見れば、「鳳凰」は前代未聞の船だ。帆がなく、巨大で、鉄の船体を持つ。興味を持つのは当然だろう。
「向こうの船の規模は」
「ガレオン船一隻。砲門は推定三十門。乗員は百五十名前後と思われます」
時貞はモニターを見た。
ポルトガルのガレオン船はこの時代、世界最強の海軍力の象徴だ。だが——
「三田。砲雷長に伝えてくれ。前方の南蛮船の舷側、右から三番目の砲門の、五十メートル手前の海面に、一発だけ撃ち込め」
艦橋に、緊張が走った。
「……当てないのですか」と三田が確認した。
「当てない。見せるだけだ」
「御意」
鳳凰の主砲が、静かに動いた。
砲声が轟いた。
砲弾が海面に着弾し、白い水柱が高々と上がった。
南蛮船の、すぐ傍らに。
ポルトガルの船上で、何が起きたか。
甲板にいた乗員たちが一斉に身を伏せた。絶叫していた。船長は青ざめた顔で双眼鏡を向けた。
鉄の巨大な船が、一発でその精度を見せつけた。
しかも——一発だけ撃って、止まっている。
「……」
船長は唾を飲んだ。
これは警告だ。近づくな、という。
そして次の瞬間、船長はさらに驚いた。
鉄の船から、旗信号が出た。
ポルトガル語で——「航路を妨げるな。各々の道を行け」
「鳳凰」の艦橋で、時貞はモニターを見ていた。
南蛮船が、ゆっくりと進路を変えた。「鳳凰」を大きく迂回して、北上を続けている。
「……賢い船長だ」と時貞は言った。
「殿」と成瀬が言った。「見事な判断でした。戦わずして——」
「これで九州中に話が広まる」と時貞は静かに言った。「南蛮の大船を、一発の砲撃で退けた鉄の艦隊がいる——という話が」
浜村が頷いた。「噂は最大の武器になります」
「そういうことだ」
時貞は前方の海を見た。
博多まで、あと半日だった。
三 博多入港
翌朝、「鳳凰」が博多の沖合に錨を下ろした。
博多の港に、異変が走った。
沖合に現れた鉄の巨艦——噂に聞いていた鳳凰寺の船だ。帆もなく、風の抵抗をものともせずに進む船だ。それが堂々と海に浮かんでいた。港の人間たちが桟橋に集まり、遠巻きに眺めた。
「殿」と風間が艦に乗り込んできた。「道雪殿の準備が整っています」
「場所は」
「郊外の寺を借りました。人目につかない場所です」
「わかった」と時貞は頷いた。「小舟で行く。護衛は最小限にする」
「しかし——」と成瀬が言いかけた。
「道雪殿は敵じゃない」と時貞は遮った。「護衛を大勢連れていけば、それこそ相手を警戒させるだ」
成瀬は沈黙した。
四 時貞と道雪
寺の庫裏。
白石灰の壁に、春の光が斜めに差し込んでいた。
立花道雪は部屋の奥に座っていた。
足は不自由だが、座した姿には微動だにしない山のような重さがある。白髪交じりの頭、深い皺、鋭い目——その全てが、長い戦の歳月を物語っていた。
障子が開いた。
時貞が入ってきた。
十二歳の少年だった。
白い軍服に身を包み、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩いてくる。子供の顔だが——その目の中に、子供のものではない何かが宿っている。
道雪はじっと、その目を見た。
時貞は道雪の正面に座った。
二人は、しばらく無言だった。
春の風が、開いた窓から入ってきた。庭の梅が白い花を落としていた。
「——遠路はるばる、ようこそ」と道雪がついに言った。
「お時間をいただき、ありがとうございます」と時貞は答えた。「道雪殿にお会いしたかった」
「俺もだ」
道雪は時貞の顔を、まじまじと見た。
「……風間殿から聞いていたが、本当に十二か?」
「はい」
「目が、十二の子供ではない」
時貞はわずかに笑った。「よく言われます」
「子供の目ではない。かといって、普通の大人の目でもない」道雪は静かに言った。「戦を知っている者の目だ。だが不思議なことに——殺気がない」
「俺は戦が嫌いです」と時貞は言った。「勝てる戦しかしない。そして可能な限り、戦わずに済む道を選ぶ」
「臆病と言う者もいるだろう」
「そう言う者は、戦にかかる本当の費用を理解していない者です」
道雪が少し目を細めた。
「費用、か。面白い言葉を使う」
「一つの戦で、何人が死にますか」と時貞は言った。「兵だけではない。兵站を支える農民、焼かれた村の住人、孤児になった子供、夫を失った妻——その全てを足せば、戦の本当の値段がわかる。俺はその値段を、できる限り安く抑えたい」
道雪は答えなかった。
ただ静かに、時貞を見ていた。
庭で鳥が鳴いた。
「——続けてくれ」と道雪は言った。
「俺は未来を知っています」と時貞は言った。
道雪が眉をわずかに動かした。
「この先、何が起きるか。どの大名が台頭し、どこで誰が死に、この乱世がどう終わるか——俺には見えている。それが本当のことかどうか、道雪殿が確かめる方法は今はないでしょう。だから俺は証拠を示す代わりに、一つだけお伝えしたい」
「何だ」
「この乱世は終わります」と時貞は静かに言った。「必ず終わる。問題は、誰がどうやって終わらせるか、です」
道雪は腕を組んだ。
「お前が終わらせると言いたいのか」
「俺が終わらせます。ただし——俺のやり方で」
「俺のやり方、とは」
時貞は少し間を置いた。
「畿内の争いには今は関わらない。中央で信長が台頭し、消耗し、その後を別の者が継ぐ——その間に俺は別の盤面を作る。九州、琉球、北の大地、そして海の向こう——そこに鳳凰寺の版図を築く。そして中央の乱世が終わった時、既に俺の足場は完成している」
「遠回りではないか」
「最短の道が最善の道とは限りません」と時貞は答えた。「力で中央を取ろうとすれば、俺の持つ優位——技術と知識——を大量に消耗する。それは避けたい。じっくりと、確実に」
道雪は長い沈黙の後、言った。
「俺に何を求める」
「今は何も」と時貞は即答した。
道雪が少し驚いた顔をした。
「今は、ただ道雪殿に俺のことを知ってもらいたかった。それだけです。大友家への義理がある——風間から聞いています。それを今すぐ断てとは言わない。当然のことです」
「……」
「ただ、この先九州の情勢が変わる時——その時に、道雪殿が俺のことを知っていてくれれば、それで十分です」
道雪は天井を見た。
春の光が、梁に当たって揺れていた。
「——お前は」と道雪はゆっくりと言った。「本当に十二か」
「身体は」と時貞は少し苦笑した。「正直に言えば、中身はもっと年を食っています」
「どういう意味だ?」
「いつか、全てお話しします。今日はまだその時ではない」
道雪は時貞を見た。
長い間、見た。
そして——笑った。
それは初めて見る、道雪の豪快な笑いだった。
「気に入った」と道雪は言った。「嘘をつかない。強がらない。だが——芯が折れない」
時貞は静かに頭を下げた。
「道雪殿。一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「九州で、民が理不尽に苦しんでいる場面があれば——俺に教えてください。俺にできることをします。医者を送る、食料を送る、方法は何でも」
道雪の目が、柔らかくなった。
「——それは、何のためだ」
「民が死ぬのは、嫌いだからです」
静寂が落ちた。
梅の花びらが、風に揺れて庭に散った。
道雪は静かに頷いた。
「わかった。覚えておく」
帰り際、時貞は立ち上がりながら道雪に言った。
「道雪殿」
「何だ」
「豊後水道で、ポルトガルの船に砲撃の警告を出しました。話が広まると思います」
道雪が目を細めた。「……聞いた。博多でも早速噂になっている。南蛮の大船を一発で退けた鉄の艦隊がいると」
「九州の大名たちへの、自己紹介代わりです」と時貞は言った。「鳳凰寺家がどういう力を持っているか——言葉より、噂の方が早く伝わる」
道雪は少しの間、時貞を見た。
「……十二歳にしては、えげつない男だな」
「ありがとうございます」と時貞は真顔で答えた。
道雪がまた笑った。
今度は声を上げて笑った。
寺の庫裏に、春の光の中で、老将の笑い声が響いた。
五 畿内と関東——乱世の群像
その頃、日本の中央では。
永禄四年の春、諸大名はそれぞれの盤面で動いていた。
織田信長——尾張、美濃へ
桶狭間から一年。信長は今川を倒した余勢を、即座に内政と外交に転換していた。
松平元康——後の徳川家康——と清州同盟を結び、東の背中を固めた。次の標的は美濃だ。斎藤道三の後を継いだ斎藤義龍、そして義龍が急死した後の龍興——信長は美濃攻略に向けて、じわじわと圧力をかけ続けていた。
信長の動きは他の大名と根本的に違った。
楽市楽座で経済を活性化し、兵農分離の萌芽となる政策を進め、鉄砲の調達と研究に人一倍の熱を注いでいた。常識を疑い、前例を壊し、新しい仕組みを作る——その速度が、周囲の追随を許さなかった。
「あの男は、危険だ」
道雪は時貞に、別れ際にそう言った。
「知っています」と時貞は答えた。「だから中央には今は近づかない」
羽柴秀吉——まだ無名の男
信長の家臣団の中に、一人の男がいた。
農民出身で、容貌が猿に似ていると揶揄される男。今はまだ、信長の草履取りから頭角を現したばかりの、無名に近い存在だ。
だがその男——木下藤吉郎は、群衆の中でも際立つ何かを持っていた。
人の心を掴む才能。場を読む本能。困難な状況をひっくり返す発想力。
この年、彼はまだ表舞台に出ていない。だがいずれ、信長亡き後の日本を動かす男になることを——時貞だけが知っていた。
(秀吉はまだ種の段階だ。しかしいつか必ず芽吹く)
時貞は七島で、その名を記録しておいた。
徳川家康——忍耐の時代
松平元康は、桶狭間の混乱の中で今川家から独立し、家康と改名していた。
清州同盟で信長と手を結んだ家康は、今は三河の内政に集中していた。一向一揆が勃発し、領内が揺れていた。鎮圧に精力を費やしながら、家康は着々と三河武士団との信頼を積み上げていった。
この男の本質は忍耐だ。
信長が暴走し、秀吉が駆け上がり、そして全てが終わった後に——最後に立っている男。時貞はその歴史の結末を知っていた。
(家康は急がない。俺と同じタイプかもしれない)
だからこそ——最終的に最も手強い相手になる。
北条氏康——関東の老雄
相模の北条氏康は、関東の覇者として盤石の地位を保っていた。
武田信玄、上杉謙信という二大勢力の間で、巧みな外交と戦略で北条家を守り続けてきた老雄だ。政治的な嗅覚は群雄の中でも随一だった。
この年、氏康の頭を悩ませていたのは上杉謙信の関東侵入だった。永禄四年、謙信が大軍を率いて関東へ南下し、北条方の城を次々と落としていた。
そして——
沖合の鳳凰寺七島の噂が、氏康の耳にも届き始めていた。
「鉄の船が、南蛮の大船を退けた」
情報を持ってきた家臣に、氏康はしばらく黙っていた。
「……あの島は、動いたか」
「博多へ向かったようだと」
氏康は窓の外を見た。相模湾の向こうに、七島があるはずだった。
「しばらく、静かに見ておけ」
氏康はそれだけ言った。
動かない。だが目は離さない——それが氏康の流儀だった。
武田信玄——西への野望
甲斐の武田信玄は、この時期、信濃の平定を着々と進めていた。
上杉謙信との川中島の戦いを繰り返しながら、西への膨張を続ける信玄の目は、いつか京に向いていた。
騎馬隊を中核とした武田の軍事力は、この時代最強の一角だ。
だが——時貞は知っていた。
信玄はいつか西へ向かう。信長と激突する寸前まで迫る。だが病が彼を止める。
(信玄は時間がない。それが彼の最大の弱点だ)
武田家については、今は関わる理由がない。時貞はそう判断していた。
今川氏真——斜陽の名門
桶狭間で父・義元を失った今川氏真は、駿河で苦境に立っていた。
家臣団の離反が続き、国力は急速に衰えていた。かつて東海随一の大大名だった今川家が、急速に存在感を失っていく。
氏真は和歌と蹴鞠を愛した。戦国の世に生まれながら、武将としての才に恵まれなかった男だ。
時貞はその名を聞いた時、複雑な気持ちになった。
(歴史の流れに飲み込まれていく人間がいる。それを俺は変えられるか——いや、変えるべきかどうかも、まだわからない)
上杉謙信——義の将
越後の上杉謙信は、永禄四年のこの時期、大軍を率いて関東へ侵入していた。
関東管領の地位を継承した謙信は、北条氏康に圧迫された関東の豪族たちの求めに応じて南下した。その軍は大きく、北条方の城が次々と落ちていった。
謙信の戦い方は、この時代でも特異だった。
領土欲よりも、義のために戦う——少なくとも本人はそう信じていた。私利私欲のない戦い、という評判が謙信の最大の武器だった。
時貞は謙信のことを、内心で最も読みにくい人物だと思っていた。
(義のために動く人間は、利害で計算できない。それが怖い)
六 春の終わりに
「鳳凰」の艦橋で、時貞は七島への帰路についていた。
博多の港が遠ざかっていく。
成瀬が横に立った。「道雪殿との会見——いかがでしたか」
「いい人だった」と時貞は素直に言った。
「それだけですか」
「信頼できる人だ——そう思った。あの人は嘘をつかない。俺に媚びない。ただ正直に向き合ってくれた」
成瀬が頷いた。
「中央の情勢はどう見ますか」と成瀬が続けた。
「信長が動いている。美濃を取るのは時間の問題だ。その後——信長は恐ろしい速度で版図を広げる。誰もが信長の動きに引きずられ、対応に追われる」
「我々は」
「引きずられない」と時貞は言った。「中央が燃えている間、俺たちは北と南を固める。九州の外交を深め、北方四島の基盤を作る。琉球への接触も始める。信長が天下を揺るがしている間——鳳凰寺家は静かに、確実に、別の天下を作る」
波が艦首を打った。
春の海が、光を弾いていた。
「成瀬」と時貞は言った。
「はい」
「道雪殿はいつか、鳳凰寺の旗の下に来てくれると思うか」
成瀬は少し考えた。
「——わかりません。あの方には、大友家への義理がある。しかし」
「しかし?」
「あの方が本当に忠義を誓っているのは」と成瀬はゆっくりと言った。「大友家ではなく、民であり、乱世を終わらせるという志ではないかと。それが我々の目指す方向と同じである以上——いつかは、と思います」
時貞は水平線を見た。
「俺もそう思う」
波の音が続いた。
七島が、遠くに見え始めていた。
帰る場所が、そこにある。
時貞は小さく息を吐いた。
春の風が、頬を撫でた。
歴史の中で、誰も知らない物語が——静かに、深く、根を張り始めていた。




