第五十五章 ―謀略の邂逅―
一 岐阜城の松永
永禄九年(1566年)、夏になる少し前。
岐阜城の一角。
松永久秀は、書類の山の前に座っていた。
夜だった。
灯りが一つ。
その灯りの前で、久秀は書き続けていた。
伊勢の国人への書状。
伊賀の忍び衆への連絡文。
信長への報告書。
次の調略の計画書。
止まらなかった。
信長が止まらせてくれなかった。
「松永よ」と信長が昼間に言っていた。
「はい」と久秀は答えた。
「播磨の赤松の動きを、もう少し詳しく調べろ。使えそうな家臣がいれば、取り込め」
「はい」
「それと——長島の一向宗についての情報も、もっと集めろ。いつか手を打つ。その時のための準備だ」
「はい」
「それだけではない。大和の検地の件も、進めろ。俺が動けない間に、お前が動け」
「……はい」
「伊賀の者たちの訓練状況も確認しろ。あいつらが俺の思い通りに動けるかどうか、まだわからない」
「……はい」
「それと——」
久秀はその時、信長の声が遠くなる感覚を覚えた。
体が限界に近づいているのを、久秀は知っていた。
しかし——止まれなかった。
夜になって、配下の忍びが久秀の部屋を訪ねてきた。
備前からの報告を持ってきた。
「松永様」と忍びは言った。
「何だ」と久秀は言った。書類から目を離さずに。
「備前の情報が集まりました」
「置いておけ」
「はい。それと——」
忍びは久秀の顔を見た。
目が合った。
忍びが少し言いにくそうに口を開いた。
「ところで松永様」と忍びは言った。
「何だ」
「その窶れ切ったお姿は——お身体は大丈夫なのですか」
久秀が書類から顔を上げた。
「どういう意味じゃ」と久秀は言った。
静かな声だった。
しかし——凄まじい殺気が、その声の裏にあった。
忍びが少し後退した。
それでも続けた。
「いや……茶の湯をのんびりと楽しんでいた頃の面影が、微塵も——」
「あぁっ」と久秀は言った。
殺気が、さらに濃くなった。
「——髪も、なんだか薄くなったような」と忍びは言った。
「お主、ワシに斬られたいのかーっ」
久秀が立ち上がった。
忍びが飛び退いた。
「ひぃっ、出過ぎた真似を致しました」
慌てて退散する忍びだった。
一人になった久秀は、部屋に立ったまま、しばらく動かなかった。
息を吐いた。
長い息だった。
それから——鏡を見た。
自分の顔が映った。
確かに——窶れていた。
頬が落ちていた。
目の下に隈があった。
髪も、以前より薄くなっていた。
久秀は鏡から目を離した。
「毎日、信長に使い倒されておるわ」と久秀は呟いた。
一人で。
「成りたくてこんな姿になったんじゃないわ」
部屋の灯りが、揺れた。
「鳳凰寺、許すまじ」と久秀は言った。
その言葉に、執念が込もっていた。
疲れ果てた体の中で、その執念だけが、まだ燃えていた。
「この怨み、はらさでおくべきかーっ」
久秀は机に戻った。
備前からの情報を手に取った。
読み始めた。
宇喜多直家。
備前の梟雄。
毒殺・暗殺・裏切り。
しかし——その動きの精密さ。
計算の正確さ。
久秀は読みながら、口元が動いた。
「……この男は」と久秀は言った。
「使える」
二 密使の往来
久秀は翌日から動いた。
伊賀の情報網を通じて、備前方面に触手を伸ばした。
直接の接触ではなかった。
間に、何人もの仲介者を置いた。
久秀から直家への線が、絶対に見えないように。
そのための仲介者の選び方にも、久秀の精密さが出ていた。
一人目は岐阜の商人。
二人目は播磨の浪人。
三人目は備前の農民。
四人目が、直家の側近に書状を渡した。
どこを調べても、久秀には繋がらない。
その仕組みを作るのに、久秀は三日かけた。
直家への最初の書状を送った。
返書が来た。
「もう少し、詳しく聞かせてください」
たった一行だった。
久秀は書状を読んで、少し笑った。
「——乗ってきたか」と久秀は言った。
しかし、すぐに付け加えた。
「いや、違う。この男は——俺を試している」
書状の短さが、それを示していた。
「もう少し詳しく聞かせてください」——これは、久秀がどこまで話すかを見ている。
久秀がどれほどの情報を持っているか。
どれほどの覚悟があるか。
それを見ている。
「慎重な男だ」と久秀は言った。「しかし——慎重であるほど、俺には都合がいい」
慎重な男は、感情で動かない。
計算で動く。
計算で動く男は——利益を見せれば、動く。
久秀は次の書状を書いた。
具体的な条件を示した。
三 二人の邂逅
七月。
播磨と備前の境に近い、人里離れた寺。
夜だった。
直家が先に着いていた。
供は剛介一人だけだった。
寺の本堂に入った。
灯りが一つ。
その灯りの前に——人影があった。
直家は足を踏み入れた。
人影が振り返った。
直家は——一瞬、後退した。
かろうじて、足が止まった。
(誰だ)
そう思った。
その男は、久秀であるはずだった。
しかし——直家が調べていた久秀の情報と、目の前の人物の姿が、あまりにも違っていた。
窶れていた。
頬が削げ落ちていた。
目の下に、深い隈があった。
しかし——その目。
その眼光だけは、常軌を逸していた。
疲れ果てた体の中で、その目だけが、別の生き物のように光っていた。
(俺の情報と、姿形が違いすぎる)
直家は心の中で思った。
(一体、松永になにがあった?)
(鳳凰寺は——何をした?)
「宇喜多直家殿か」と松永久秀は言った。
穏やかな声だった。
姿に似合わず、穏やかな声だった。
「はい」と直家は言った。「松永久秀様ですね」
「そうだ。驚いたか」
「……少し」と直家は言った。正直に。
久秀が少し笑った。
「そうだろうな。こんな姿では、驚くのも無理はない」と久秀は言った。「信長に使い倒されての、この体だ。察してくれ」
「信長様に——それほど」と直家は言った。
「毎日だ」と久秀は言った。「全く——寝る暇もない。茶の湯を楽しむ暇もない。あの男は際限なく使う。もともと俺を送り込んだ者への怨みもあって、余計にな」
「——誰が送り込んだのですか」
久秀の目が、少し動いた。
「鳳凰寺だ」と久秀は言った。静かに。しかし——その声の底に、炎があった。
直家は久秀を見た。
(なるほど。これが松永久秀の怨みの根本か)
(鳳凰寺に嵌められた。それで信長に使い倒されている)
(その怨みが——この動きの原動力だ)
「座ってくれ」と久秀は言った。
二人が向き合って座った。
「単刀直入に話す」と久秀は言った。
「是非」
「反鳳凰寺の旗を立てれば——南蛮商人が動く」と久秀は言った。「火薬と銃が手に入る。条件次第では、大砲も」
「南蛮商人が——なぜ動くのですか」と直家は問うた。
「鳳凰寺に、怨みがある」と久秀は言った。「九州から人身売買を追い出した。それで利益を失った商人たちだ。鳳凰寺に復讐したい者は、思ったより多い」
「その商人たちは——どれほどの武器を提供できますか」
「火縄銃二百丁。火薬は十分な量。そして——大砲十門」と久秀は言った。
直家の眉が、わずかに動いた。
「大砲」と直家は繰り返した。
「鳳凰寺に対して、大砲を使えば——あの連中に初めて、死傷者が出る可能性がある」と久秀は言った。「今まで鳳凰寺と戦った者は、全員、一方的にやられてきた。しかし大砲があれば——少なくとも、対等に近い状況が作れる」
「大砲で——鳳凰寺に死傷者を出す」と直家は言った。
「そうだ。一泡吹かせることができる」
直家は少し間を置いた。
「南蛮商人の他に——戦働きのできるものはいますか」と直家は問うた。
「いる」と久秀は言った。「元軍人という…戦を生業にしていた南蛮人が、三十数名。銃と剣を持った連中がおる。金さえ積めば動く」
「その連中の——質は」
「高い。戦働きの訓練を受けた者たちだ。しかし」と久秀は言った。
「しかし?」
「日本人を人間と思っていない連中だ」と久秀は言った。静かに、しかし確かに。「金のためなら、何でもする。乱暴狼藉も、殺しも、躊躇わない」
直家は久秀を見た。
「そういう連中を——使う、ということですか」
「使えるものは何でも使う」と久秀は言った。「それが謀略だ。直家殿も、そう思っているはずだ」
直家は少し間を置いた。
(確かに、そう思っていた)
(しかし——日本人を人間と思わない連中が動いたとき、何が起きるか)
(民が傷つく)
(民が傷つくことを——俺は、どう考えるか)
直家は自分の中の何かに、気づいた。
(俺は——民を傷つけることは、望んでいない)
(家臣を守りたい。家族を守りたい。そのための謀略だ)
(民が傷つけば——それは、俺の望む結果ではない)
「南蛮の戦働きのものについては——慎重に考えたい」と直家は言った。
久秀が少し目を細めた。
「なぜだ」
「使えない、とは言っていない」と直家は言った。慎重に言葉を選んだ。「しかし——制御が利かない連中を使えば、予期しない方向に転がる可能性がある。謀略は、転がり方を計算できなければ、危ない」
久秀はしばらく直家を見た。
「……慎重な男だ」と久秀は言った。
「生き延びるためには、慎重でなければなりません」と直家は言った。
久秀が少し笑った。
「俺もそう思う。しかし——今の俺には、慎重に動く余裕が、あまり残っていない」
直家は久秀の顔を見た。
(この男は——焦っている)
(怨みに焦っている)
(焦りは——計算の敵だ)
(久秀の謀略は精密だが、今の久秀は疲弊している。その疲弊が、計算を狂わせる可能性がある)
四 密謀の深まり
二人はさらに話し込んだ。
灯りが一度、揺れた。
夜が深まっていた。
「各勢力の糾合については——どのように考えていますか」と直家は問うた。
「浦上宗景が中心になる」と久秀は言った。「浦上は毛利の臣従に焦っている。鳳凰寺の影響圏が、備前にまで迫ってくることへの恐れがある。その恐れを——煽れば、動く」
「山名は」
「因幡の山名豊数は、伝統的な権威の失墜に怒っている。その怒りを使える」
「尼子残党は」
「尼子は——毛利への怒りが残っている。その怒りが、鳳凰寺への怒りに転化しつつある。鳳凰寺が毛利を臣従させたことで、毛利を許した相手として鳳凰寺を恨んでいる者がいる」
直家は話を聞きながら、頭の中で全てを整理していた。
浦上宗景。山名。尼子残党。三浦残党。そして南蛮商人と傭兵。
それが——反鳳凰寺大連合の構成員だった。
(しかし、この連合は——まとまりがない)
(浦上はプライドが高い。山名は古い権威にしがみついている。尼子残党は感情で動く。南蛮商人は金目当て。南蛮人の戦働きは金次第でどちらにでも動く)
(これは——最初から負けが決まっている連合だ)
(しかしそれでいい。俺には、この連合が勝つ必要はない)
「直家殿は——どう動く気だ」と久秀は問うた。
「宇喜多家として、連合に参加します」と直家は言った。
「それだけか」
「それだけです」と直家は言った。
久秀は直家を見た。
その目が、少し動いた。
(この男は——何かを隠している)
久秀の計算が、そう告げていた。
しかし——証拠がなかった。
「——わかった」と久秀は言った。「宇喜多家が参加してくれれば、備前側の陣容が整う。それで十分だ」
「久秀様は——今回の動乱で、何を得ようとしていますか」と直家は問うた。
久秀は少し間を置いた。
「鳳凰寺に——一矢報いること」と久秀は言った。「それだけだ」
「一矢」と直家は繰り返した。
「そうだ。殺さなくていい。滅ぼさなくていい。ただ——一度でいいから、あの連中に傷をつけたい」
「それが——今の久秀様の、全てですか」
「今のワシには——それしかない」と久秀は言った。
その言葉に、久秀の疲弊が全て込められていた。
直家はその言葉を、静かに受け取った。
(この男は——消耗している)
(しかし、消耗しながらもまだ動いている)
(その執念は、本物だ)
(俺は——この男の執念を、利用する)
(しかし利用しながら——俺は久秀を隠れ蓑にする)
(全ての疑惑が久秀に向くように。俺への疑惑が、一切残らないように)
「わかりました」と直家は言った。「宇喜多家として、連合に参加します。そして——久秀様のお役に立てるよう、動きます」
「頼む」と久秀は言った。
「一つだけ」と直家は言った。
「何だ」
「今回の件で——俺の名が、表に出ないようにしてほしい。宇喜多は備前の小勢力です。鳳凰寺を直接刺激することは、避けたい」
久秀は少し考えた。
「わかった。表には出さない」
「ありがとうございます」
二人が立ち上がった。
握手するような文化は、この時代にはなかった。
しかし——二人は、しばらく向き合った。
久秀が言った。
「直家殿」
「はい」
「お前は——ワシより慎重だな」
「生き延びるためです」
「ワシも同じことを思って生きてきた」と久秀は言った。「しかし今の俺には——慎重さより、怨みの方が勝っている。それが弱点だとわかっていても、止められない」
直家はその言葉を聞いた。
(久秀は——自分の弱点を、自分でわかっている)
(わかっていても、止められない)
(それが——この男の今の状態だ)
「久秀様」と直家は言った。
「何だ」
「お体には——気をつけてください」
久秀は少し驚いた顔をした。
「……お前に、そんなことを言われるとは思わなかった」
「俺も——意外でした」と直家は言った。
久秀が少し笑った。
疲れた笑いだった。
「ありがとう」と久秀は言った。
二人が寺を出た。
それぞれの方向へ、消えていった。
直家が馬に乗った後、剛介が横に来た。
「どうでしたか」と剛介は問うた。
「予想通りだった。しかし——」と直家は言った。
「しかし?」
「一つだけ、予想外だった」
「何が」
直家は少し間を置いた。
「あの状態で——まだ動いていることだ」と直家は言った。「俺なら、あの状態では動けない。体が動かない前に、心が折れる。しかし久秀は——あの状態で、まだ謀略を考えて、動いている」
「……それは、どういう意味ですか」
「怨みというのは——思ったより、人を動かす」と直家は言った。静かに。
剛介は黙った。
「今回は——久秀の怨みを、借りる」と直家は言った。「しかし同時に——俺は久秀に感謝することになるかもしれない」
「なぜですか」
「鳳凰寺への道を、久秀が作ってくれるからだ」と直家は言った。
五 七島の異変察知
同じ頃。
七島の執務室。
天元が報告した。
「ヤタガラスが——備前方面で、異常な動きを捉えました」
時貞が顔を上げた。
「どういう動きだ」
「播磨の南部の港に——南蛮船が停泊しています。通常の貿易航路とは異なる場所です。そして」と天元は続けた。「その船から——大量の荷が下ろされています」
「何の荷だ」
「分析中です。しかし——箱の形状と重量から、火薬あるいは銃器の可能性があります」
時貞は少し間を置いた。
「見せてくれ」
天元が、ヤタガラスからの映像を示した。
夜の港。
松明が灯されていた。
南蛮船が停泊していた。
その船から、大きな木箱が次々と運び出されていた。
運び出している者たちの顔は見えなかった。
しかし——その動きが、秘密裏に行われていることは明らかだった。
「風間を呼んでくれ」と時貞は言った。
風間が来た。
「見てくれ」と時貞は言った。
風間が映像を見た。
「……南蛮の武器が、流れていますか」と風間は言った。
「可能性が高い」と時貞は言った。「誰が受け取っているか、調べてくれ」
「はい。ヤタガラスで——この船の動きを追えますか」と風間が天元に問うた。
「追えます」と天元は言った。「船の動きは全て記録します。また、荷が下ろされた後の陸上での移動も、可能な限り追います。しかし夜間は暗視モードで、昼間同様に追えます。」
「できる範囲でいい」と時貞は言った。「諜報も同時に動かしてくれ」
「はい」と風間は言った。
成瀬が横で言った。
「南蛮の武器が——誰かの手に渡っている」
「そうだ」と時貞は言った。
「それが——鳳凰寺を標的にしているとしたら」
「可能性が高い」と時貞は言った。「中国地方東部が不安定になっている今、反鳳凰寺の旗を立てようとする者が、武器を集めているとすれば——つじつまが合う」
「誰が、そんな大規模な武器の調達を——」と成瀬は言いかけた。
「久秀だろ」と時貞は言った。
「久秀殿が——」
「南蛮商人との繋がりを持っている者を考えれば、久秀以外に思い当たらない」と時貞は言った。「しかし——天元、証拠はあるか」
「ありません」と天元は言った。「状況証拠から久秀の可能性が高いと言えますが、確証はありません」
「動けない」と時貞は言った。
「はい」
「わかった。引き続き、監視を続けてくれ。急がない。しかし——目を離すな」
六 浦上、決断する
備前・浦上宗景の居城、天神山城。
宗景は家臣たちを前に、声を張り上げた。
「俺は決めたぞ」と宗景は言った。
家臣たちが静まり返った。
「鳳凰寺に喰われてなるものか」
「……殿」と家臣の一人が言った。
「鳳凰寺が毛利を臣従させた。次はどこだ。播磨か。備前か。このまま黙っていれば、俺たちが飲み込まれる」
「しかし——鳳凰寺の力は」
「知っている」と宗景は言った。「だからこそ、今のうちに動かなければならない。一人では無理でも——集まれば、対抗できる」
「連合の話ですか」
「そうだ」と宗景は言った。「山名も動く。尼子の残党も動く。南蛮の武器が来る。今なら——戦える」
「直家殿は」と別の家臣が言った。
「直家も参加すると言ってきた」と宗景は言った。「あれが参加するなら——備前の陣容が整う。いけるぞ」
「……御意」と家臣たちは言った。
その時。
広間の端に、直家が座っていた。
家臣の一人として。
宗景の言葉を、全て聞いていた。
宗景が高らかに「鳳凰寺など恐れることはない」と言うたびに、直家の口元が、ごくわずかに動いた。
(その言葉が——お前を滅ぼす)
声には出さなかった。
顔にも出さなかった。
ただ——薄暗く、笑っていた。
広間を出た後、直家は剛介と並んで歩いた。
「宗景様が——決断されましたね」と剛介は言った。
「そうだな」と直家は言った。
「直家様が——促されたからですか」
「俺は何もしていない」と直家は言った。「ただ、宗景様の背中を少し押しただけだ。本当の決断は、宗景様自身がされた」
「……結果として、直家様の計算通りに動きましたね」
「そうだな」と直家は言った。静かに。
二人はしばらく廊下を歩いた。
「剛介」と直家は言った。
「はい」
「今から——宇喜多家の準備を始めろ。しかし」
「しかし?」
「準備のほとんどは——鳳凰寺に臣従した後のための準備だ」
剛介は少し驚いた顔をした。
「どういうことですか」
「連合が崩れた後、俺たちが生き残るための準備だ」と直家は言った。「連合は戦って、負ける。その混乱の中で——俺は浦上を討つ。そして鳳凰寺に臣従する。その後の備前の統治の準備を、今から進めておく」
「先の先まで——準備されているのですね」と剛介は言った。
「当然だ」と直家は言った。「梟雄というのは、先を読むから梟雄なのだ。読めなければ、ただの悪党だ」
七 直家の不安
その夜。
直家は一人で部屋にいた。
妻からの手紙を読んでいた。
子供たちの様子が書かれていた。
長男が畑で転んで泥だらけになったこと。
次女が「父上はいつ帰るのか」と聞いていること。
直家は手紙を置いた。
久秀の顔を思い出した。
窶れ切った顔。
目の下の隈。
薄くなった髪。
しかしその眼光の、異様な光。
(鳳凰寺は——本物か)
直家は再び、その問いに戻っていた。
久秀を見て——正直、不安になっていた。
あれほどの謀略家が、鳳凰寺に嵌められ、信長に使い倒された。
その結果が——あの姿だった。
(鳳凰寺に臣従して、大丈夫なのか)
(あの力を持った勢力が——本当に、臣従した者を不当に扱わないと言えるのか)
直家は自分の計算を、もう一度確認した。
毛利が臣従した後、不当な扱いを受けたという情報はない。
大友も、龍造寺も、四国の諸勢力も——鳳凰寺の下で、引き続き領地を治めている。
診療所ができた。学舎ができた。道路が整備された。
民の暮らしが、良くなっているという報告がある。
(嘘をついていない)
直家はそう結論した。
(少なくとも今まで——鳳凰寺は、臣従した者を不当に扱っていない)
(毛利元就が臣従を受け入れたのは、その計算があったからだ)
(元就が間違えるはずはない)
(ならば——俺の計算も、間違っていない)
直家は息を吐いた。
(しかし——久秀の顔が頭から離れない)
(あの顔を見ると、少し不安になる)
直家は苦笑した。
生まれて初めて、「少し不安になる」という感情を、自分に認めた。
「剛介」と直家は呼んだ。
「はい」
「鳳凰寺が——臣従した者を不当に扱った例が、一つでもあるか」
「……調べた限りでは、ありません」
「そうか」
「直家様——不安ですか」と剛介は言った。
珍しい問いだった。
直家はしばらく剛介を見た。
「少し」と直家は言った。
剛介が目を丸くした。
直家が「不安」と言うのを、剛介は初めて聞いた。
「久秀殿の顔を見てから——少し、不安になった」と直家は言った。「あの顔は——鳳凰寺に何かをされた結果だ。鳳凰寺は怖い勢力だと、改めて実感した」
「しかし——計算は、変わっていませんか」
「変わっていない」と直家は言った。「俺の計算では、鳳凰寺に臣従することが、最善の道だ。その計算は、変わらない」
「では——」
「しかし計算と、感情は別だ」と直家は言った。「計算では臣従が最善だと知っていても——感情は、少し不安になっている。それは認める」
剛介は少し間を置いてから言った。
「直家様が——感情について話してくださったのは、初めてです」
「そうか」と直家は言った。「久秀に会って、何か変わったのかもしれない」
「変わったのですか」
「あの男が——全力で怨みに生きている姿を見て」と直家は言った。「俺は怨みで動いていないことを、確認した。俺は——家族のために動いている。計算のために動いている。怨みではない。その違いが、今日はっきりとわかった」
直家は手紙を再び手に取った。
次女が「父上はいつ帰るのか」と聞いていると書かれていた。
(すぐに帰る)
直家は心の中で言った。
(この動乱を終わらせて。備前を手中にして。鳳凰寺に臣従して——そして帰る)
(子供たちに——安全な備前を残す。それが俺の仕事だ)
梟雄の仕事は、まだ終わっていなかった。
しかし——その仕事の先に、子供たちの顔があった。
八 動乱の前夜
夏の風が、備前の野を渡っていた。
中国地方東部の空白が、じわじわと埋まり始めていた。
七島では。
ヤタガラスが、南蛮船の動きを追っていた。
風間の忍びが、播磨の港で情報を集めていた。
時貞が地図を見ながら、次の手を考えていた。
「急がない」と時貞は言った。「しかし——目を離さない」
岐阜では。
久秀が書類と格闘しながら、次の書状を書いていた。
怨みの炎が、疲れた体を動かし続けていた。
備前では。
浦上宗景が、反鳳凰寺連合への参加を決断した。
「見ておれ、鳳凰寺。なにするものぞ」と宗景は言った。
その言葉の横で、直家が薄暗く笑っていた。
南蛮では。
シルバ率いる元軍人上がりの連中が、金の入った袋を確かめていた。
「東洋の猿が何匹死のうが——関係ない」とシルバは言った。「金さえ貰えれば、どこへでも行く」
それぞれの思惑が、それぞれの場所で、動いていた。
中国・備前動乱が——その本格的な幕を、静かに開けようとしていた。
そして直家の計算が——一歩ずつ、現実を動かし始めていた。
(第五十六章へ続く)




