第五十四章 ―梟雄の内側―
一 備前の男
永禄九年(1566年)、夏になる少し前。
備前国。
岡山城の一室。
宇喜多直家は、一人で窓の外を見ていた。
三十四歳だった。
中程度の背丈。
目立たない顔だった。
派手な甲冑を好まなかった。
豪快に笑うことも、声を張り上げることも、めったにしなかった。
しかし——その目だけが違った。
静かで、深く、底が見えない目だった。
「直家様」と側近の岡剛介が入ってきた。
「何だ」と直家は言った。窓から目を離さずに。
「鳳凰寺についての調査報告が、また集まりました」
「持ってきてくれ」
剛介が書類の束を置いた。
直家はそれを手に取った。
読み始めた。
九州での島津征伐。
三ヶ月で薩摩を手中にした経緯。
帝との関係。錦の御旗。従四位下・右近衛少将の官位。
四国制圧の詳細。鳳凰寺の死者無し。
そして——毛利が鳳凰寺に臣従した事実。
直家は読みながら、何も言わなかった。
表情も変えなかった。
しかし——頭の中では、全ての情報を整理していた。
「……力があるのに、丁寧に動く」と直家はついに言った。
「はい?」と剛介が聞き返した。
「鳳凰寺のことだ」と直家は言った。「毛利を降した後、不当な扱いをしていない。島津を征伐した後、薩摩の民への開発を始めている。四国を制圧した後、医療班が敵の負傷兵を手当てしている」
「……はい。そのような報告です」
「なぜだと思う」と直家は問うた。
剛介は少し考えてから言った。
「慈悲深い方なのでは——」
「違う」と直家は即座に言った。
剛介が黙った。
「慈悲で動いているのではない。計算で動いている」と直家は言った。「力でねじ伏せた民は、力が衰えた瞬間に反発する。しかし——丁寧に扱われた民は、力が衰えても従う。鳳凰寺はそれを知っている。だから丁寧に動く」
「……そう見えますか」
「俺がそう動くからだ」と直家は言った。
二 五歳の記憶
直家は書類を机に置いた。
窓の外の備前の風景を見た。
田んぼが広がっていた。
農民が働いていた。
穏やかな景色だった。
しかし直家には——その景色の奥に、別の光景が見えていた。
五歳だった。
夜が来た。
祖父の居城、砥石城が、炎に包まれていた。
島村盛実の軍が、一夜にして攻め込んできた。
祖父・能家が自害した。
父・興家は幼い直家を抱えて、城を脱出した。
「走れ、直家。振り返るな」
父の声が、耳の奥にまだあった。
しかし直家は振り返ったのだ。
一度だけ。
炎に包まれた砥石城が、夜の中で燃えていた。
祖父が生涯をかけて守った城が。
一夜で、消えていった。
「正々堂々と戦っても、裏切り一つで全てを失う」
直家はその日から、そう知った。
五歳の時に。
骨の髄まで。
備前の福岡に逃げ込んだ後、生活は悲惨だった。
商人の軒先を借りて、身を縮めていた。
かつては有力な国人領主の嫡子として生まれた男が、身分を隠して、日々の食べ物に困る生活をしていた。
父が死んだ。
母が浦上宗景の側室になることで、ようやく直家は浦上家に出仕するチャンスを得た。
母の犠牲の上に、直家の今があった。
(二度と、あの思いはしない)
それが、直家の全ての原動力だった。
二度と、家族を路頭に迷わせない。
二度と、名もなく貧しく生きることはしない。
二度と、力なき者として蔑まれない。
そのために——直家は、手段を選ばなかった。
毒殺でも。
暗殺でも。
裏切りでも。
それが「生存本能」だった。
梟雄と呼ばれることは、直家には関係なかった。
生き残ること。家族を守ること。
それだけが、全てだった。
三 梟雄の手腕
浦上家に出仕してから、直家は一つ一つ、着実に動いた。
まず——信頼を得た。
汚れ役を引き受けた。
主君・浦上宗景にとって邪魔な者を、次々と始末した。
「直家がいなければ領国が維持できない」という状況を、少しずつ作り上げた。
祖父の仇・島村盛実。
舅の中山信正。
酒宴に招いた。
油断させた。
そして始末した。
祖父の怨みを晴らしながら——沼城を手に入れた。
一石二鳥だった。
直家はそういう動き方が、得意だった。
一つの行動で、複数の目的を達成する。
「正面から戦うな」
直家が常に自分に言い聞かせていた言葉だった。
「負けない戦い方をしろ」
大勝よりも、確実に負けない。
それが直家の戦術の根本だった。
なぜなら——大勝した後に死ぬより、小勝を積み重ねて生き続ける方が、最後には大きなものを手にできるからだ。
三村家親の暗殺。
鉄砲を使った遠距離暗殺。
美作の興善寺で軍議を開いていた家親を、暗闇の中から狙撃した。
日本で最初の鉄砲による暗殺と後に言われることになる一手だった。
しかし直家にとっては——それが最も確実な方法だったから、そうしただけだった。
「なぜ正面から戦わないのか」
後に聞かれることになる問いだった。
直家の答えは、いつも同じだった。
「正面から戦う必要がある理由が、俺にはわからない」
四 備前を見る目
永禄九年の今。
直家は岡山城の主となっていた。
城を大改築していた。
城下に商人を集めていた。
幼少期を過ごした商業の町・福岡での経験が、ここで活きていた。
金の動きがわかった。
流通の仕組みがわかった。
どこに銭を投じれば、倍になって返ってくるかがわかった。
「直家様」と剛介が言った。
「何だ」
「浦上様から——宴への招待が来ています」
直家は少し間を置いた。
「断れ。腹の具合が悪いと言え」
「はい」
剛介が下がった。
直家は再び、窓の外を見た。
(浦上宗景)
主君だった。
今も、表向きは主君だった。
しかし——直家には、もう宗景が自分の主君だとは思えなくなっていた。
力で言えば、既に自分の方が上だった。
経済力も。
家臣団の忠誠も。
そして——先を見る目も。
(しかし、まだ動く時ではない)
直家は自分に言い聞かせた。
(準備が整うまでは、従順な家臣を演じ続ける)
五 鳳凰寺を分析する
剛介が戻ってきた。
「宇喜多様。もう一つ、報告があります」
「何だ」
「鳳凰寺についての追加情報です」
直家が顔を上げた。
「話せ」
「鳳凰寺の当主・時貞という方は——」と剛介は言った。「島津を降した後、自ら村々を回っているとのことです。当主が、農民の村を歩いて、直接話す」
「……そうか」と直家は言った。
「農民に——なぜ道ができるのか、なぜ診療所があるのかを、自ら説明しているとのことです」
直家は少し黙った。
「護衛は」
「少人数だったようです。その際に刃に倒れたとも」
「刃に倒れた?当主が?」
「はい。回復はされましたが」
直家は少し考えた。
「護衛を少なくして民と向き合い、刃に倒れた。その後も——村回りを続けているのか」
「はい。護衛は増やして、しかし続けていると」
直家は窓の外を見た。
(刃に倒れても、止まらない)
(護衛を少なくしても、民に近づこうとする)
(それは——覚悟だ)
直家は長い乱世で、多くの武将を見てきた。
しかし——村を自分の足で歩く当主を、直家は初めて聞いた。
「その男は——何を目指している」と直家は言った。
「は?」
「鳳凰寺時貞という男が、目指しているものが何かを知りたい。調べてくれ」
「はい」
剛介が下がった。
直家は一人になった。
「力があるのに、丁寧に動く」と直家は呟いた。
「民を大切にする。帝と血縁を結ぶ。正直に書状を送る。先に宣言してから動く」
直家の全てのやり方と、真逆だった。
直家は隠した。騙した。奇襲した。
しかし鳳凰寺は——正直に言ってから動いた。
(なぜ、それで成功する)
(なぜ、民が従う)
直家には、最初、理解できなかった。
しかし——少しずつ、見えてきた。
(民は——正直な者を、信じるのだ)
(力だけで従わせた民は、力が衰えた時に離れる)
(しかし信頼で従った民は、力が衰えても離れない)
(俺は今まで、力で動いてきた)
(しかし鳳凰寺は——信頼で動いている)
直家は少し目を細めた。
(どちらが、長く続くか)
それは——明らかだった。
六 松永久秀の接触
数日後。
直家の元に、一通の書状が届いた。
差出人は書かれていなかった。
しかし——その書状の内容と言葉の選び方で、直家は誰が書いたかを理解した。
備前の梟雄と呼ばれる方へ。
ワシも梟雄と呼ばれている。だから、話が合うかもしれない。
鳳凰寺が来る前に——動く気はないか。
反鳳凰寺の旗を立てれば、南蛮の武器が手に入る。
火薬と銃と、あるいは大砲も。
ワシにはその伝手がある。
返事を待っている。
直家は書状を読んだ。
一度。
二度。
そして——机に置いた。
(松永久秀か)
直家は久秀のことを知っていた。
三好の家臣だった。
謀略の天才として知られていた。
しかし今は——信長のもとにいると聞いていた。
(なぜ久秀が、この話を持ってくる)
(久秀は信長のもとにいる。信長と鳳凰寺は、表向きは良好な関係を保っている)
(それなのに、鳳凰寺に反する動きを久秀が持ってくる。それは——)
直家はしばらく考えた。
(久秀個人の怨み、か)
(久秀は鳳凰寺に何かをされた。その怨みで動いている)
(そして——その怨みを晴らさせるために、俺を使おうとしている)
直家は少し笑った。
声のない笑いだった。
(使おうとしているのは、どちらか)
剛介が戻ってきた。
「宇喜多様。鳳凰寺時貞が目指しているものについての情報が、少し集まりました」
「話せ」
「『力ではなく、仕組みで動く国を作りたい』と——言っているとのことです。民が豊かになる国を。百年かけて作る、と」
直家は黙った。
「百年か」と直家はついに言った。
「はい」
「百年先を見ている男が——この書状を寄こした男の相手になるか」
剛介がきょとんとした。
「は?」
「なんでもない」と直家は言った。
直家は書状を手に取った。
しばらく見た。
そして——返書を書き始めた。
七 直家の計算
返書を書きながら、直家は同時に、頭の中で計算していた。
久秀の申し出を受ける。
反鳳凰寺大連合に参加する。
しかしその中で——浦上宗景を滅ぼす。
そして鳳凰寺に臣従する。
(浦上宗景は今、反鳳凰寺の空気を感じ取り、焦っている)
(鳳凰寺への恐れが、宗景を動かしている)
(宗景が動けば——連合への参加を決断するだろう)
(その時が、俺の機会だ)
直家の計算は、精密だった。
反鳳凰寺大連合が結成される。
しかしその連合は、烏合の衆だ。
浦上も山名も尼子残党も——それぞれの思惑で動く。
まとまりがない。
そこへ鳳凰寺が動く。
連合は崩れる。
その混乱の中で——直家だけが、生き残る。
浦上を滅ぼしながら。
(しかし)
直家は一つだけ、計算の中で迷うことがあった。
(鳳凰寺は——本物か)
(百年先を見ている。力があるのに丁寧に動く。民を大切にする)
(その全てが、本物ならば)
(本物の強さを持つ者に臣従することは——俺の計算と合う)
(しかし)
(もし鳳凰寺が、どこかで化けの皮を剥がすなら)
(その時は、また別の手を打つ)
直家はそこまで計算した上で——返書を書いた。
お手紙、拝見しました。
面白い話です。
もう少し、詳しく聞かせてください。
宇喜多直家。
短かった。
しかし——返書を出したこと自体が、久秀への答えだった。
(乗る、ということだ)
(ただし——俺の絵図の中で、乗る)
(久秀の手のひらの上では、動かない)
返書を出した後、直家は剛介を呼んだ。
「剛介」
「はい」
「一つ、頼みがある」
「何でしょう」
「俺が今後、どんな動きをしても——宇喜多家の家臣には、全員、秘密を守らせてくれ。誰に聞かれても、何も知らないと言わせろ。特に——」
「特に?」
「鳳凰寺の諜報に、俺の動きが伝わらないように」と直家は言った。「あの連中は優秀と聞いている。気を抜けば察知される」
「はい」
「俺の動きを知っているのは——俺とお前だけだ。それ以外の者には、必要な情報だけを伝える」
剛介は深く頷いた。
「御意にございます」
八 梟雄の本心
夜。
直家は一人で、燈火の前に座っていた。
机の上に、一通の書状があった。
妻からの手紙だった。
子供たちの様子が、書かれていた。
長男が今日、初めて馬に乗ったこと。
次女が字を覚え始めたこと。
そういう、平凡な内容だった。
直家は手紙を読んだ。
何度も読んだ。
梟雄と呼ばれる男の顔が——手紙を読む間だけ、少し変わった。
柔らかくなった。
(子供たちに——父親の謀略を、どう説明するか)
直家はその問いを、ずっと抱えていた。
毒殺。暗殺。裏切り。
それが「父親」の仕事だったと、子供たちはいつか知る。
その時、子供たちはどう思うか。
しかし直家の答えは、いつも同じだった。
(お前たちが今、安全に暮らせているのは——俺がそうしてきたからだ)
(父親は梟雄と呼ばれる。しかし——お前たちを守るためなら、何でもする)
(それが、俺の答えだ)
五歳の夜、父に抱かれて城を脱出した。
炎の中で消えていった祖父の城を、一度だけ振り返った。
あの夜から、全てが始まった。
(鳳凰寺時貞という男は——百年先を見ている)
(俺は——子供たちの顔を見ている)
(どちらが遠いかは、わからない)
(しかし——目指しているものは、似ているかもしれない)
直家はそう思った。
百年先の日本を見ている男と。
子供たちの顔を見ている男と。
どちらも——大切なものを守るために、動いている。
ただその方法が、全く違うだけだ。
「剛介」と直家は呼んだ。
「はい」
「一つだけ聞く」
「何でしょう」
「鳳凰寺時貞は——嘘をつく男か」
剛介は少し考えた。
「調べた限りでは——嘘をついたという記録が、ありません」
「長宗我部に、四国に来るつもりだと先に伝えた」
「はい」
「帝に——嘘をついたという記録は」
「ありません」
「毛利に——恭順した後、不当に扱ったという記録は」
「ありません」
直家は少し間を置いた。
「そうか」
「はい」
「——正直な男は」と直家は言った。「扱いが難しい」
「え?」と剛介が言った。
「嘘をつく男は、嘘を読めばいい」と直家は言った。「しかし——本当のことしか言わない男は、読みようがない。だから扱いが難しい」
剛介は少し考えた。
「それは——直家様が困っている、ということですか」
「少し、な」と直家は言った。
珍しい言葉だった。
宇喜多直家が「困っている」と言うことは、めったになかった。
「しかし——困っているのは、俺だけではない」と直家は続けた。「毛利も困った。信長も困っている。全員が——あの男に手を焼いている」
「そうですね」
「そういう男と、最後は同じ側に立つことになる」と直家は言った。
剛介が驚いた顔をした。
「最後は——ということは」
「今は違う側にいる。しかし——最後は同じ側になる。俺の計算では、そうなる」
剛介は理解しようとした。
しかし——完全には理解できなかった。
直家の計算の全てを、剛介には見せていなかったからだ。
九 梟雄の朝
翌朝。
直家は早く起きた。
城の廊下を歩いた。
家臣たちが頭を下げた。
直家は一人一人の顔を見た。
「今日の体調はどうだ」と一人に聞いた。
「は、はい。良好です」と家臣が答えた。驚いた顔で。
直家が個人の体調を聞くことは、珍しかった。
「子供の熱は下がったか」と別の家臣に聞いた。
「……下がりました。ありがとうございます」と家臣は言った。
直家は頷いて、歩き続けた。
これが——直家のもう一つの顔だった。
梟雄と呼ばれる男が、家臣一人一人の家庭事情を把握していた。
子供の名前を知っていた。
病気の親の状況を把握していた。
それは冷酷な計算とは、別の何かだった。
(俺は——家臣たちを大切にする)
(なぜなら、家臣たちがいなければ——宇喜多家は存在しない)
(家臣たちが動くから、宇喜多家が動く)
(家臣たちが信じてくれるから、俺は動ける)
しかし——それだけではなかった。
直家は自分でも気づいていたことがあった。
家臣たちの顔を見ると、幼い日の記憶が戻ってくることがあった。
父に連れられて逃げた夜。
商人の軒先を借りて身を縮めた日々。
その時、手を差し伸べてくれた人たちのことを。
(俺は——その恩を、別の形で返している)
(俺についてくれた者には、必ず報いる)
(それが——俺の、唯一の義理だ)
一〇 計算の果てに
執務室に戻った直家は、地図を広げた。
備前。美作。因幡。
中国地方東部の地図だった。
毛利が止まった今、この地域は空白になっている。
その空白の中で、誰かが動けば——全体が動く。
自分が動けば——全体が動く。
(この動乱の絵図を描いているのは——俺だ)
(久秀はそれを知らない)
(鳳凰寺は、もっと知らない)
(この計算を知っているのは——俺だけだ)
地図を見ながら、直家は全てを確認した。
浦上宗景は反鳳凰寺連合に参加する。
連合は鳳凰寺と戦い、負ける。
その混乱の中で、直家は浦上を討つ。
そして鳳凰寺に臣従する。
この絵図に、久秀は気づかない。
鳳凰寺も気づかない。
(しかし)
直家は一つだけ、不確定要素があることを知っていた。
(鳳凰寺時貞という男が——どこまで見えているか)
(あの男が百年先を見ているなら——俺の計算も、見えているかもしれない)
(見えていないとすれば、俺の勝ちだ)
(しかし見えているとすれば——)
直家は少し考えた。
(見えていたとしても、あの男は正直な男だ)
(証拠なしには動かない)
(ならば——証拠を作らなければいい)
直家は筆を取った。
久秀への返書に続いて、浦上宗景への書状を書いた。
忠実な家臣の書状だった。
主君への誠実な進言が、丁寧な言葉で書かれていた。
「反鳳凰寺の動きに、我々も加わるべきかもしれません」
「もし宗景様が決断されるなら、宇喜多家は全力でお支えします」
忠実な家臣の言葉だった。
しかし——その言葉の奥に、直家の計算が隠れていた。
宗景を焚き付ける言葉。
宗景が動けば、直家の絵図が動き始める。
書状を封じた。
「剛介」と直家は呼んだ。
「はい」
「浦上様に届けてくれ」
「はい」
「それと——久秀への返書も、届けてくれ」
「はい」
「今日から——この動乱が始まる」と直家は言った。静かに。
剛介は少し驚いた顔をした。
「動乱、ですか」
「そうだ」と直家は言った。「誰かが必ず動く。その動きを、俺は利用する」
「直家様は——どこへ向かうのですか」と剛介は聞いた。
直家は少し間を置いた。
「鳳凰寺の臣下になる」と直家は言った。
剛介が目を見開いた。
「え?」
「最終的には、そうなる」と直家は言った。「しかし——その前に、やることがある」
「浦上様を」
「そうだ」
剛介は黙った。
「俺は主君を殺す梟雄だと、後に言われるだろう」と直家は言った。「しかし——宗景を生かしておけば、備前に争いが続く。備前に争いが続けば、民が苦しむ。俺の家臣が苦しむ。俺の家族が苦しむ」
「……」
「鳳凰寺の臣下として、備前を安定させる。そのためには——宗景を追い出す必要がある」
「それが——直家様の答えですか」
「そうだ」と直家は言った。「梟雄の答えだ」
剛介は深く頭を下げた。
「……御意にございます」
剛介が出ていった後。
直家は再び窓の外を見た。
備前の田んぼが広がっていた。
農民が働いていた。
「鳳凰寺時貞」と直家は呟いた。
独り言のように。
「お前は百年先を見ている」
「俺は——目の前の民の顔を見ている」
「しかし、行き着く先は——同じかもしれない」
直家は少し笑った。
梟雄の、静かな笑いだった。
「いつか——お前と向き合う日が来る」
「その日を、楽しみにしている」
夏になる少し前の風が、備前の野を渡っていた。
梟雄が——動き始めた。
中国・備前動乱が、静かに、しかし確実に、幕を開けようとしていた。
(第五十五章へ続く)




