第三章 ―最初の接触―
一 諜報部隊、九州へ
永禄三年、冬の入り口。
鳳凰寺七島の小さな港から、一隻の漁船が出た。
見た目は普通の漁船だ。古びた木造の船体、擦り切れた帆。乗り込んでいる男たちも、日焼けした顔に粗末な着物を纏った、どこにでもいる漁師や行商人に見える。
だが船底には薄型の通信機器が隠されていた。そして男たちの懐には、精巧に偽造された身分証明の書状と、暗号通信のための小型端末が潜んでいた。
鳳凰寺家諜報部、第一班。
班長は風間新八郎、三十二歳。細身で目立たない顔立ちをしており、どんな方言も三日で習得できる語学の才を持つ。彼の部下は四名。全員が商人、僧侶、農民、いずれにも化けられる訓練を積んでいた。
「目標は博多と府内。島津、大友、龍造寺それぞれの動向を掴んでくる」
出港前夜、風間は部下たちに最終確認をした。
「戦うな。逃げるな。溶け込め。俺たちは存在しない者として動く。いいな」
十人は無言で頷いた。
船が夜の海へ滑り出た。
博多の港は、活気に満ちていた。
大陸からの船、南蛮の商船、九州各地の漁師たち——雑多な人間が行き交い、怒声と笑声と潮の匂いが混ざり合っている。風間たちは行商人の一団として難なく溶け込んだ。
三日かけて情報を集めた。
大友家は豊後を中心に北九州を押さえ、キリスト教に傾倒した当主・大友宗麟が南蛮貿易に積極的だ。島津家は薩摩から着々と勢力を伸ばし、精強な軍を擁している。龍造寺家は肥前で急速に力をつけ始めていた。
三者は複雑に絡み合い、消耗し合っている。
「天元の分析通りだな」と風間は小さく呟いた。
そして五日目の朝、博多の外れにある小さな飯屋で——風間は、ある男と出会った。
男は一人で飯を食っていた。
年の頃は四十前後。大柄で、日焼けした顔に鋭い目をしていた。身なりは粗末だが、所作に染み付いた何かがある。商人でも農民でもない。かといって武士という雰囲気でもない。
風間が何気なく隣に腰を下ろした。
「旅の方ですか」と何気なく声をかけた。
男は風間を一瞥し、少し間を置いてから「まあな」と答えた。
「この辺りの方では?」
「いや。豊後から来た」
大友の領地だ。風間は内心で耳をそばだてながら、世間話を続けた。やがて男は、名を名乗った。
「立花道雪と申す」
風間の手が、箸を持ったまま止まった。
——立花道雪。
大友家の重臣にして、九州随一と謳われた猛将。雷に打たれて足が不自由になってからも輿に乗って戦い続け、生涯無敗とも言われた伝説的な人物。後世、「鬼道雪」と呼ばれることになる男だ。
(まさか、こんな形で……)
風間は表情を変えなかった。
「立花様とおっしゃる。名のある方でいらっしゃいますな」
道雪は興味なさそうに飯を食い続けた。「お前さんは?どこの者だ。見たことのない顔だな」
「伊豆沖の方から来た行商人です。あちこち回っておりまして」
「伊豆?」と道雪が繰り返した。目に、わずかに光が宿った。「伊豆沖七島の、あの噂の島か」
風間は少し驚いた。「噂?……でございますか」
「鉄の船が走る島があるそうじゃないか。博多の港でも話になっておる。何でも、帆もなく、矢より速く走る船だとか」
「さあ、そのような島があるかどうか……私めには」
道雪はじっと風間を見た。鋭い目だった。
長い沈黙が落ちた。
「お前さん」と道雪はゆっくりと言った。「嘘が下手だな」
風間の背筋に、冷たいものが走った。
結果として、風間は覚悟を決めた。
これ以上誤魔化しても逆効果だと判断した。そして、あらかじめ成瀬参謀長から与えられていた「接触許可対象リスト」の中に、立花道雪の名が入っていたことを思い出した。
——万が一この人物と接触した場合、限定的な開示を許可する。ただし判断は班長に委ねる。
風間は息を吐いた。
「……一つだけ、聞かせてください」
「何だ」
「立花道雪殿は、今の九州をどう見ておられますか」
道雪が箸を置いた。
「三者が争い、疲弊し、民が苦しんでいる」と道雪は静かに言った。「俺は戦が嫌いじゃない。だが、意味のない消耗は嫌いだ。強い者が天下を取り、早く乱世を終わらせるべきだと思っている」
「もし——」と風間は慎重に言葉を選んだ。「もし、この九州の外に、全く別の力を持った勢力があるとしたら」
道雪が静かに風間を見た。
「聞こう」
その夜、風間は暗号通信で鳳凰寺城に報告を送った。
モニターを見ていた時貞は、報告を読んで少し沈黙した。
「立花道雪……」
成瀬が横から画面を覗いた。「これは……偶然の邂逅とは思えませんな」
「歴史の引力みたいなものかもしれない」と時貞は呟いた。「道雪は九州で最も優れた将の一人だ。大友家の忠臣として生涯を貫くが——その忠義の根っこにあるのは、大友家への盲目的な服従じゃない。乱世を終わらせたいという願いだ」
「それは……我々の目的と」
「重なる部分がある」と時貞は言った。「今すぐ動かす必要はない。だが接点を持っておくことに意味がある」
「風間に続けさせますか」
「ああ。ただし焦るな、と伝えてくれ。道雪は賢い。こちらが急ぎすぎると、かえって警戒される。じっくりと、誠実に向き合え、と」
「御意」
琢磨はモニターから視線を上げ、夜の海を見た。
遠く九州の炎が、海の向こうで揺れているような気がした。
二 北へ——第一次偵察艦、出港
同じ頃、鳳凰寺七島の軍港。
白々と夜が明け始める中、一隻の艦が出港準備を整えていた。
全長百十メートルの巡視船型艦艇。速力は三十ノット超。レーダー、ソナー、衛星通信システムを完備した、この時代には絶対に存在しえない船だ。艦名は「天鷹」。
艦橋に立つのは、海軍中佐・白石蒼一郎。三十八歳。寡黙で几帳面、航法の正確さで艦隊随一と評される男だ。
「出港準備、完了しました」
報告を受けた白石は、静かに頷いた。
「乗員確認」
「全員乗艦。計七十二名」
「物資確認」
「六ヶ月分の食料、燃料、医療品。偵察用ドローン十二機。上陸調査装備一式」
「よし」
白石は艦橋の窓から空を見た。冬の夜明けの空は青白く、星がまだ残っている。
「出港する」
「天鷹」の機関が低く唸りを上げた。
出港に際して、時貞が艦橋に現れた。
白石が敬礼すると、時貞——琢磨——は小さく手を上げてそれに答えた。
十二歳の少年の顔に、真剣な光があった。
「白石。いくつか確認させてくれ」
「はい」
「アイヌの集落に近づく時は、必ず穏やかに接すること。絶対に武器を向けない。もし警戒されたら引く。こちらから敵意を見せることは断じてしない」
「了解しています」
「北方四島の測量と実態把握を最優先とする。白人の痕跡がないことを確認し、適切な上陸ポイントを選定してくれ」
「はい。択捉、国後、色丹、歯舞——全島の測量を行います」
「気候と海況のデータも丹念に取ってくれ。将来的に補給基地を置くとしたら、どこが最適かも判断してほしい」
白石は頷いた。「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「アイヌの人々と——どういう関係を築くつもりですか。この先の方針として」
琢磨はしばらく考えた。
「対等に、だ」
白石が少し驚いた顔をした。
「彼らはこの土地で何百年も生きてきた。俺たちが後から来て、上から押さえつけるようなことはしたくない。言葉を学べ。文化を尊重しろ。医療が必要なら提供しろ。ただし見返りを強要するな」
「……それで、彼らが敵対してきたら?」
「その時は引く。今は戦う理由がない」
白石は深く頷いた。「承知しました」
時貞は白石に背を向け、窓の外を見た。北の空が、夜明けの淡い光を帯びていた。
「頼む、白石」
「必ずや」
「天鷹」は夜明けとともに港を出た。
艦首が北を向く。蝦夷地まで、凡そ千三百キロ。この艦の速力なら、二日もかからない。
甲板に立った水兵の一人が、遠ざかる七島の灯りを眺めながら呟いた。
「北か……どんな土地なんだろうな」
「誰も行ったことのない場所だろ」と別の水兵が答えた。
「怖くないか」
「怖いに決まってる」とその水兵は笑った。「でも——面白そうじゃないか」
艦が加速した。
波を切る音が高まり、蒼い海が白く砕けていく。
冬の北太平洋へ向けて、鳳凰寺家の艦は進んでいった。
三 時貞の夜
深夜、鳳凰寺城。
時貞は一人、書見台の前に座っていた。
灯りの下に広げているのは日本地図ではない。世界地図だ。二十一世紀の、細部まで描き込まれた地図。
目は自然と、遠い西の方角へ向かった。
ヨーロッパ。
今頃、スペインとポルトガルはアフリカの海岸を刻み、インドへの航路を確立し、南米大陸を蹂躙しつつある。数十年後にはイギリスとオランダが続き、アジアへの侵食が始まる。
日本にはすでに南蛮人が来ていた。鉄砲を持ち、キリスト教を持ち、友好という顔をして、じわじわと爪を立てている。
(彼らが悪いか、と問われれば——単純にそうは言えない)
時貞は思う。
歴史的に見れば、大航海時代の西洋人たちは確かに残虐な面を持っていた。だが同時に、彼らは勇敢でもあった。知識への渇望を持ち、未知の海に挑み、技術を磨き続けた。その結果として世界を席巻した。
問題は、その力が特定の人間たちだけの利益のために使われたことだ。
(俺が目指すのは、日本が代わりに世界を支配することじゃない)
時貞はそう思う。
(だが——弱ければ蹂躙される。それが歴史の現実だ。だから強くなる。そして強さを持った上で、どう振る舞うかを選ぶ)
机の上に、小さなノートがあった。
真田琢磨が、鳳凰寺時貞として最初の夜に書き留めた言葉が並んでいる。
一、日本を統一する。ただし無益な消耗は避ける。
二、太平洋の制海権を手にする。
三、資源を確保する。エネルギーの自立なくして国家の自立なし。
四、西洋列強が世界を蹂躙する前に、日本が別の秩序を示す。
五、そのために——まず足元を固める。
最後の一行を、琢磨はもう一度読んだ。
(まず足元を固める)
焦るな。急ぐな。だが止まるな。
「天元」と彼は静かに呼んだ。
「稼働中です」
「今夜の白石たちの位置は」
「現在、相模湾を抜け、太平洋上を北北東へ進行中。順調です」
「そうか」
時貞は灯りを落とした。
暗闇の中、波の音だけが聞こえる。
十二歳の身体は正直だった。眠気が来た。だが眠りに落ちる直前、琢磨の頭の中では、九州と北海道の地図が重なり合い、そのはるか彼方——凍てついたアラスカの大地が、静かに横たわっていた。
歴史の針は、今夜も動いていた。




