第二章 後半 ―島の噂―
同じ頃、伊豆半島。
小田原城下から東へ向かう街道沿いの宿場で、旅の商人たちが囲炉裏を囲んでいた。
「おい、聞いたか。沖合の島の話」
一人が声を潜めた。
「島……鳳凰寺の島か?」
「そうよ。どうも普通の島じゃないらしい。漁師が近づいたら、見たこともない船に追い払われたとか」
「船?どんな船だ」
「帆もなく、風にも逆らいながら、恐ろしい速さで走る鉄の船だってよ。そんなもん、あるわけねぇだろうと思うんだがな……」
別の商人が顔を歪めた。「妖しいな。南蛮の呪術か何かか」
「それだけじゃねぇ。島から光の柱が上がるのを見た漁師もいるらしい。夜中に、空へ向かって真っ直ぐ」
「サーチライトか」と一人が呟いたが、誰もその言葉を知らなかった。
小田原城、北条氏康の元にも、その噂は届いていた。
「鳳凰寺家……」
氏康は家臣から報告を聞きながら、腕を組んだ。
「伊豆沖にある七島か。これまで気にも留めなかったが……」
「はい。漁師や商人の間で、不思議な話が広まっております。鉄の船、夜に光る柱、島に近づいた者が丁寧に——しかし有無を言わさず追い返された、と」
「丁寧に、か」
氏康は窓の外を向いた。相模湾の向こう、水平線のその先に、鳳凰寺七島があるはずだった。
「使者を送るか?」
「いかがなさいますか」
氏康はしばらく考えた。
「……いや、待て。相手の正体が見えない。正体不明の者に軽率に接触するのは得策ではない。もう少し様子を見る」
「御意」
家臣が下がる。
氏康は一人、海の方角を見続けた。
北条家は今、関東を掌握しつつある。武田、上杉、今川と幾重にも絡む複雑な関係の中で、氏康は老練な政治力で乗り切ってきた。
だが——沖合の島に生まれた、正体不明の勢力。
(何者だ)
風が吹いた。
相模湾の風は、潮の香りを含んでいた。そしてその風の向こう、島の方角から——かすかに、異質な何かが漂ってくるような気がした。
その頃、鳳凰寺城の望楼から、時貞は本州の方角を眺めていた。
成瀬が隣に立っている。
「殿。伊豆や相模の者たちが、我々の噂を広め始めています」
「知っている」
「どう対処しますか。完全に姿を隠しますか?それとも——」
「何もしない…」と時貞は言った。
「噂は流れる。それは止めようがない。だが俺たちから何かを明かす必要もない。彼らに不思議だと思わせておけばいい。恐怖ではなく——謎として」
「謎、ですか」
「怖い相手には攻めたくなる者もいる。だが謎の相手には、まず慎重になる。北条氏康は賢い男だ。正体不明のものに軽率に手を出さない。しばらくは向こうから動かない」
成瀬が静かに微笑んだ。「……殿は、氏康殿の思考まで読まれるのですか」
「歴史を知っているからな」
琢磨は夜空を見上げた。
秋の星が鮮烈に輝いている。大気汚染のない、この時代の空だ。
「成瀬。俺たちには時間がある。信長が天下を争い、秀吉が後を継ぎ、家康が締める——その間、俺たちは別の盤面で動き続ける。彼らが中央で消耗する間に、鳳凰寺は版図を広げる。気づいた時には——」
「手が届かなくなっている」と成瀬が続けた。
「そういうことだ」
波の音が、遠くから聞こえていた。
太平洋を渡る風が、鳳凰寺七島の旗をはためかせた。
時貞の目に、静かな炎が宿っていた。
歴史は、まだ誰も知らない方向へ、動き始めていた。




