第十一章 ―帝への道、肥前の虎―
一 榊原、再び京へ
永禄四年、初秋。
京への道は、前回より涼しかった。
榊原雅之は摂津の港に上陸し、山崎を越えて京へ入った。今回は荷が多い。
十万貫を運ぶには、それなりの人手が必要だった。七島から同行した運搬要員と護衛が十名。全員が商人に扮し、荷を分散して運んでいた。
「目立ちすぎてはだめだ。しかし粗末すぎても怪しまれる」
出発前に時貞が言った言葉を、榊原は反芻した。
適切な目立たなさ。それが今の鳳凰寺家の在り方だ。
近衛家への訪問は、前回より滑らかだった。
門番が榊原の顔を覚えていた。すぐに奥へ通された。
前久は書斎で待っていた。
前回と同じ部屋だが、今日は前久の顔が違った。
警戒が薄れている。完全に消えてはいないが——前回のような、針を向けるような緊張がない。
「また来てくれた」と前久は言った。
「お約束通りに参りました」と榊原は答えた。
「荷は」
「外に控えております。十万貫にございます」
前久の顔に、何かが走った。
驚きとも、安堵とも、確信とも違う——複雑な感情だった。
「……前回の五千貫は」と前久は言った。「御所の修繕の一部と、帝の御生活の一部に充てた。目に見える形で使った」
「それは」と榊原は言った。「当主が最も喜ぶ使い方でございます」
「当主からの書状も読んだ」と前久は続けた。「使途については一切申しません、とあった。本当に何も言わないのだな」
「はい」
前久は少し黙った。
「——俺はこれまで、色々な大名から銭や物を受け取ってきた。全員が必ず何かを求めてきた。官位、院宣、口利き——形は違っても、必ず対価を求めてきた」
「はい」
「お前たちは違う。それが——俺には少し怖い」
榊原は前久を見た。
前久の目は真剣だった。皮肉を言っているのではない。本当に、怖いと感じているのだ。
「怖い、とは」
「対価を求めない者は、いつか突然、巨大なものを求めてくる」と前久は言った。「その時に断れない立場になっている——それが怖い」
榊原は静かに頷いた。
「前久様の御懸念は正しい。当主もそのことを承知しています」
「承知している?」
「だからこそ、今の段階では何も求めない、と言っています。信頼は時間をかけて作るものだ、と。前久様が鳳凰寺家を信じられるようになってから、初めて協力をお願いする——それが当主の考えです」
「時間をかける余裕が、お前たちにあるのか」
「当主はこう申しています。百年の計を立てている者に、数年の余裕がないはずがない、と」
前久はしばらく黙った。
それから——小さく笑った。
「百年の計か」と前久は呟いた。「十三歳が言う言葉ではないな」
「はい」と榊原は答えた。「当主は、十三歳には見えません」
前久は窓の外を見た。
京の秋空が、高く澄んでいた。
「榊原殿」と前久は言った。「一つ、俺からも伝えてくれ」
「はい」
「——近いうちに、直接会いたい。時貞殿と、俺が」
榊原は深く頭を下げた。
「必ず、お伝えします」
二 二条晴良の知らせ
二条家への訪問は、その翌日だった。
晴良は榊原を、前回より奥の部屋に通した。
人払いをした上での、改まった場だった。
「榊原殿」と晴良は開口一番に言った。「帝がお会いになると仰せになった」
榊原の背筋が伸びた。
「——それは、誠でございますか」
「朕が直接見たい、とのお言葉だった」と晴良は続けた。「私は二十年以上、帝にお仕えしてきた。帝がこれほど早く、それも自らお会いになると仰せになったのは——初めてのことだ」
「それは……」
「お前たちの書状と、豊後の村の話が、帝のお心を動かした」と晴良は静かに言った。「帝は人を見る目がある御方だ。書状の言葉の真偽を、直接確かめたいとお思いになったのだろう」
榊原は深く息を吸った。
「日程は」
「それはこれから調整する。ただし——いくつか条件がある」
「はい、何なりと」
「まず、拝謁は極めて内密に行う。公式の謁見ではない。他の公家、大名、いずれにも知らせない。帝と時貞殿、そして私と榊原殿のみの場とする」
「承知しました」
「次に——時貞殿は、帝の御前に相応しい礼を心得ていなければならない。宮中の礼法を、事前に十分に学んでいただく必要がある」
「当主は学ぶことを厭いません。必ず準備します」
「最後に」と晴良は言った。「帝は時貞殿に、ただ一つのことだけをお尋ねになるかもしれない」
「何でしょう」
晴良は少し間を置いた。
「——日本を、どうするつもりか。それだけだ」
榊原は頷いた。
「当主に、そのまま伝えます」
十万貫の受け渡しが済んだ後、晴良は榊原を引き留めた。
「一つ、私から個人的に聞いていいか」
「はい」
「お前は長く時貞殿に仕えているのか」
「いいえ」と榊原は正直に答えた。「まだ日が浅い方です」
「それでも——あの書状の言葉を、心から信じているように見える」
「はい」
「なぜだ」
榊原は少し考えた。
「当主は、豊後の村が疫病だと知った時、一瞬も躊躇しませんでした。損得を計算する間もなく、鳳凰寺の医師を送ると言った。あの速さは——計算ではありません」
「……」
「自分はその瞬間を見ていました。だから信じています」
晴良は静かに頷いた。
「わかった。帝への御拝謁の日程が決まれば、すぐに連絡する」
「ありがとうございます」
榊原が立ち上がりかけた時、晴良が付け加えた。
「榊原殿。帝はお優しい御方だ。しかし——甘い御方ではない。時貞殿に伝えてくれ。言葉を飾る必要はない。ただ——正直に話すように、と」
「はい」
「帝は、正直な者を嫌われない」
三 七島への帰還
榊原が七島に戻ったのは、出発から半月後だった。
時貞は報告を全て聞き終えてから、しばらく黙っていた。
成瀬が横で控えている。
「帝が、会いたいと仰せになったか…」と時貞はゆっくりと繰り返した。
「はい」と榊原は答えた。「二条様が日程を調整してくださいます」
「前久殿も、直接会いたいと」
「はい」
時貞は立ち上がり、窓の外を向いた。
秋の海が、青く澄んでいた。
「成瀬」
「はい」
「宮中の礼法を、今から徹底的に学ぶ。晴良殿の言葉通り——飾らず、正直に、しかし礼を尽くして帝にお会いする。それが俺の務めだ」
「礼法の師を手配します。七島に、有職故実に通じた者がおります」
「すぐ頼む」
「御意」
時貞は再び榊原を見た。
「榊原。前久殿と晴良殿に、よく伝えてくれた。ありがとう」
榊原は首を振った。
「当主の言葉を、そのままお伝えしただけです」
「いいや」と時貞は言った。「言葉は、伝える者によって重みが変わる。お前が正直に伝えたから、二人の心に届いた」
榊原は深く頭を下げた。
四 肥前の虎
同じ頃、九州・肥前。
龍造寺家の居城、村中城。
龍造寺隆信は、広間の上座に座っていた。
四十がらみ。大柄で、横にも広い。「肥前の熊」とも呼ばれるほど、その体軀には凄みがある。眉が太く、目が小さく、しかしその目の奥に鋭い光がある。
隆信は粗野に見えて、実は細かい。
家臣たちはそれを知っていた。
大雑把に見えて、損得の計算は誰より早い。猪突猛進に見えて、突っ込む前に地形を読んでいる。
今、隆信の目の前に、風間新八郎が座っていた。
「鳳凰寺の者か」と隆信は言った。声が大きい。
「はい。風間と申します」
「お前が来るということは——当主は来ないのか」
「今日は最初の御挨拶として、私めが参りました。当主との会談は、改めて設定させていただければ」
「回りくどい」と隆信は言った。「俺は直接的な話が好きだ。単刀直入に言う。鳳凰寺家は何者で、俺に何を求めている」
風間は静かに答えた。
「鳳凰寺七島の当主、鳳凰寺時貞様と申します。伊豆沖の島を本拠とする勢力です。九州の諸大名と、等しく誠実な関係を築きたいと考えています」
「等しく、というのが胡散臭い」と隆信は言った。「どこかに肩入れしながら、そうでないふりをしているだけだろう」
「試していただければ、わかります」
「どうやって試す」
「鳳凰寺家は大友にも、島津にも、龍造寺にも、同じ条件で薬と物資を売っています。どこかを特別扱いしていません。それはすでに御確認いただけるはずです」
隆信は少し黙った。
確かに博多の商人に確認を取った。大友の家臣も、島津の商人も、同じ値で同じ物を買っている。差をつけていない。
「南蛮船を退けた話は本当か」と隆信は言った。
「はい。豊後水道で警告の砲撃を行いました」
「どんな船だ」
「帆のない鉄の船です。速さは矢より速く、砲の射程は南蛮の大砲の数倍です」
隆信の目が細くなった。
「見せられるか」
「それには当主の判断が必要です」
「当主を連れてこい」と隆信は言った。「話はそれからだ」
風間が七島に戻り、報告した。
「隆信殿は——率直な方でした。回りくどい話を嫌い、直接的な確認を求めます。艦を見せることを要求しています」
「見せる価値はあるか」と時貞は問うた。
「はい」と風間は即答した。「隆信殿は損得に聡い方です。鳳凰寺の力を実際に見れば、確実に動きます。むしろ見せない方が、却って疑念を深めます」
時貞は成瀬と目を合わせた。
成瀬が静かに頷いた。
「わかった。俺が直接会う。艦も見せる。ただし——核心的な部分は明かさない。見せるのは、外から見える力だけだ」
「御意」
「隆信殿は何を求めていると思うか」と時貞は風間に問うた。
風間は少し考えた。
「……力です。あの方が求めているのは、力を持つ者との繋がりです。大友、島津と渡り合うために、自分より強い何かを背後に置きたい。そのための相手を探しています」
「後ろ盾か」
「はい。ただし——隆信殿は誰かの下に入ることを嫌います。対等な関係でなければ、動かない」
「対等な同盟、ということか」
「そう思います」
時貞は頷いた。
「面白い。行くぞ」
五 時貞と隆信
十日後、博多沖。
「鳳凰」が錨を下ろした。
龍造寺隆信が、小舟で近づいてきた。
供回りは五名だけだ。それが隆信の流儀だった。大勢を連れて行かない。自分の目で確かめる。
「鳳凰」の甲板に上がった隆信は、まず艦を見た。
上から下まで、じっくりと見た。
鉄の船体。帆がない。見たことのない形の砲。整然と並んだ乗員。
隆信は黙っていた。
時貞が甲板に現れた。
白い軍服の、十三歳ほどの少年…。
隆信は時貞を見て、少しだけ眉を上げた。本当に子供だ、という顔だった。
「鳳凰寺時貞です」と時貞は言った。「お越しくださり、ありがとうございます」
「龍造寺隆信だ」と隆信は言った。「お前が当主か」
「はい」
隆信はしばらく時貞を見た。
「子供だな」
「身体は」と時貞は答えた。
隆信が少し笑った。「道雪の爺さんと同じことを言いよる」
「道雪殿にも言われました」
「あの爺さんとは知り合いか」
「はい。友人と呼んでいただける関係かと」
隆信は少し考えた顔をした。道雪と繋がっているということの意味を、素早く計算しているのだろう。
「甲板を見ていいか」
「どうぞ」
隆信は甲板を歩いた。
砲を手で触れ、重さを確かめた。船体の壁を叩き、鉄の厚みを確かめた。計器類を見て、首を傾げた。意味がわからないものが多すぎる。
「これは何だ」と計器を指して聞いた。
「遠くを見るためのものです」と時貞は答えた。「夜でも、霧の中でも、周囲の様子がわかります」
隆信の目が光った。
「霧の中でも?」
「はい」
「……化け物みたいな船だな」
「そうかもしれません」
隆信は甲板の中央に立ち、腕を組んだ。
「時貞殿」
「はい」
「単刀直入に聞く。俺に何を売りたい」
時貞は静かに答えた。
「何も売りません」
隆信が眉を顰めた。「何も売らないのに、なぜここまでした」
「隆信殿に、鳳凰寺家のことを正しく知っていただきたかったからです。力を見せるだけでは足りない。直接お会いして、話をしたかった」
「だから俺に何を求める」
「今は何も」と時貞は言った。
隆信は少し間を置いた。
「道雪の爺さんと同じことを言いよる」と隆信は繰り返した。今度は笑いではなく、考えながら言っていた。
「道雪殿も、同じことを聞かれましたか」
「ああ。あの爺さんが鳳凰寺はいい勢力だと言っていた。俺は最初、あの爺さんが耄碌したかと思った」
「今は」
「今は——まだわからん」と隆信は正直に言った。「ただ」
隆信は時貞を、じっと見た。
「この船と、この薬を持っている勢力が、九州に本気で関わってくるなら——邪険にする理由はない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ何も決めていない」と隆信は言った。「ただ——一つだけ聞く。お前は九州をどうしたいんだ」
時貞は少し考えた。
「最終的には——俺の治める土地にしたいと思っています」
艦橋に、静寂が落ちた。
隆信の目が細くなった。
「正直だな」
「隆信殿が正直な方だから」
「龍造寺を滅ぼすということか」
「滅ぼすつもりはありません」と時貞は静かに言った。「ただ、日本が一つにまとまる日が来る。その時、龍造寺家がどういう形で残るか——それは隆信殿の選び方次第です」
「俺が逆らえば滅ぼすと」
「俺は無駄な破壊をしません。隆信殿が民のために力を使える方なら——その力を、日本全体のために使っていただきたい。そう思っています」
隆信は長い間、時貞を見た。
海風が吹いた。
「——面白い子供だ」と隆信はついに言った。「わかった。今日は帰る。だが——また話をしよう」
「いつでも」
「次は俺の城に来い」と隆信は言った。「俺の土地で話をする」
「承知しました」
隆信は小舟に戻りかけて、ふと振り返った。
「時貞殿」
「はい」
「道雪の爺さんは——お前に何と言った」
時貞は少し考えて、答えた。
「使ってくれ、と言ってくれました」
隆信は黙った。
それから、小さく呟いた。
「……あの爺さんが、そう言ったか」
隆信は海を見た。
何かを考えているようだった。
それから何も言わずに、小舟に乗り込んだ。
小舟が離れていくのを、時貞は甲板から見送った。
成瀬が横に来た。
「どうでしたか」
「読みにくい」と時貞は言った。「道雪殿とは全く違う。道雪殿は深い。隆信殿は速い。判断が速く、計算が速い。だが——」
「だが?」
「損得だけで動く人ではない」と時貞は言った。「最後に道雪殿の話をした時の顔が——違った」
「どういう意味ですか」
「隆信殿は道雪殿を、本当に尊敬している。あの爺さんがそう言ったか——と呟いた時の顔が、普通の顔じゃなかった」
成瀬が頷いた。
「道雪殿との繋がりが、隆信殿への橋になっている」
「そういうことだ」と時貞は言った。「道雪殿が動いてくれたことが、九州全体に波紋を広げている」
時貞は海を見た。
小舟が、博多の方角へ消えていった。
「成瀬。帝への拝謁の準備を進めてくれ。礼法の稽古を始める」
「はい」
「それと——隆信殿の城への訪問を準備してくれ。今度は俺が、向こうの土俵に乗る」
「御意」
秋の海が、光を弾いていた。
北では白石が、南では道雪が、京では榊原が——それぞれの場所で、鳳凰寺家の根を伸ばし続けていた。
そして今、帝との拝謁という、最も重要な扉が目の前に開こうとしていた。
十三歳の少年は、静かに、その扉に向かって歩いていた。
歴史が、また一歩、動いた。




