第十章 ―帝の言葉、老将の誓い―
一 内裏の朝
永禄四年、晩夏。
京は朝から蒸し暑かった。
二条晴良が内裏に参内したのは、辰の刻を少し過ぎた頃だった。
御所の門をくぐると、いつもの景色が広がった。
手入れの行き届かない庭。伸びた雑草。補修されないまま傾いた築地塀。その向こうに、かつては壮麗だったであろう建物群が、今は古びた姿で立っている。
晴良はこの景色を、毎日見ていた。
見慣れているはずだった。
だが今朝は、少し違う目で見ていた。
懐に、鳳凰寺からの書状がある。
帝にお見せすると榊原に約束した。その約束を果たす朝だ。
晴良は清涼殿に向かった。
正親町天皇は、書物を読んでいらっしゃった。
御年四十五歳。
端正な顔立ちに、深い思慮を秘めた目。乱世の中で即位され、財政的な困窮と政治的な混乱の中で、それでも朝廷という火を消さずに守り続けてきた帝だ。
晴良が礼をとった。
「晴良か。朝から顔が固いな」
帝の声は穏やかだった。常に穏やかだ。それがこの方の強さの一つだと、晴良は長年仕えて思っていた。
「恐れながら、帝にご覧いただきたいものがございます」
「何だ」
「書状にございます。差出人は——鳳凰寺時貞。伊豆沖の島の者です」
帝が書物から目を上げた。
「鳳凰寺?……聞いたことがない名だな」
「最近、諸国でその名が広まり始めています。博多では医薬品の取引で評判を呼び、豊後では疫病の村に医者を無償で送ったと聞いています。また——南蛮の船を、一発の砲撃で退けた鉄の艦隊を持つとも」
帝がわずかに眉を動かした。「鉄の艦隊?」
「帆もなく、矢より速く走る鉄の船だと、各地の報告が一致しています」
帝はしばらく晴良を見た。
それから静かに言った。「書状を」
晴良は書状を両手で奉呈した。
帝は受け取り、開いた。
清涼殿に静寂が落ちた。
帝が書状を読む間、晴良は下を向いて待った。
どのくらい経っただろうか。
「——晴良」
「はい」
「この者は、朕が雨漏りする御所で暮らしていることを知っているのか」
「そのように書いてございます」
「遠く伊豆沖の島の者が?」と帝は静かに言った。「朕のことを案じている」
その声に、感情が滲んでいた。
怒りでも疑惑でもなく——驚き、と、何か温かいものが混じった声だった。
「帝」と晴良は言った。「この者は当主・鳳凰寺時貞、御年十三歳にございます」
「十三歳」
「はい。しかしこの書状の言葉は——十三歳のものではございません」
帝は書状をもう一度読んだ。
朝廷の御窮状を、遠く七島の地において深く憂えております。
帝が雨漏りする御所で過ごされているという話は、日本に生きる者として、胸が痛みます。
見返りは求めません。ただ——日本の正統性の源である朝廷が、その威光に相応しい姿であることを、心より望んでおります。
我々に、お支えする機会を与えてください。
帝は書状を膝の上に置いた。
「晴良。この者は本当に何も求めていないのか」
「当初の書状はそのように記されていますが——実際には、将来的な協力関係を望んでいると使者は正直に申しておりました」
「正直に言ったのか」
「はい。隠しませんでした」
帝は少し笑った。
微かな笑いだったが、晴良には珍しく見えた。帝が朝の参内でこのように笑われることは、滅多にない。
「隠さない者は、珍しい」と帝は言った。「朕のところへ来る者は皆、何かを隠しながら近づいてくる。欲しいものがあるのに、それを言わない」
「はい」
「この者は——欲しいものがあると言いながら、それよりも先に動いた。豊後の村の話というのは本当か」
「本田正親の報告で確認が取れています。鳳凰寺の者が到着してから、死者は一人も出なかったと」
帝はしばらく黙っていた。
清涼殿に、夏の蝉の声が遠く聞こえた。
「——十三歳か」と帝は再び言った。
「はい」
「朕が即位した時、この朝廷には何もなかった。即位の礼の費用すら出せなかった。各地の大名に頭を下げて、ようやく形だけ整えた」帝の声は静かだった。自嘲でも嘆きでもなく、ただ事実として語っていた。「その時、朕は思った。朝廷とは何か。権威があっても力がない。正統性があっても銭がない。それでも——日本の求心力として在り続けなければならない」
晴良は深く頭を下げた。
「帝——」
「会いたい」と帝は言った。
晴良が顔を上げた。
「鳳凰寺時貞に、会いたい。朕が直接、この目で見たい」
「それは——非常に異例のことでございます。島の一勢力の当主が帝に拝謁するには——」
「手続きは晴良が整えろ」と帝は静かに言った。「朕が会いたいと言っている。それだけで十分だ」
晴良は深く頭を垂れた。
「……御意にございます」
帝は再び書状を手に取った。
そして、ある一行を指でなぞった。
民が死ぬのが嫌いな人間です——
書状の本文ではなかった。
晴良が口頭で伝えた、鳳凰寺の医師の言葉だ。
帝はその言葉を、静かに繰り返した。
「民が死ぬのが嫌いな人間……」
それは政治の言葉ではなかった。
ただの、人間の言葉だった。
帝の目に、何かが宿った。
晴良にはそれが何か、言葉にできなかった。
ただ——長年仕えてきて初めて見る、帝の目だと思った。
二 道雪、再び
同じ頃、九州・博多郊外。
春の会見と同じ寺の、同じ庫裏。
立花道雪は上座に座って待っていた。
障子が開き、時貞が入ってきた。
春と同じ白い軍服。だが——何かが違った。
春の時貞には、まだどこか探っているような気配があった。
今の時貞には、それがない。
ただ静かに、落ち着いて、道雪の前に座った。
「——来てくれた」と道雪は言った。
「待っていました」と時貞は答えた。
二人は向き合った。
夏の終わりの風が、開いた窓から入ってきた。
道雪が先に口を開いた。
「豊後の村のことは、本田から全て聞いた」
「笹木先生と班員たちが動いてくれました。俺はここにいただけです」
「お前が動かなければ、笹木殿も動かなかった」と道雪は言った。「責任を他に渡すな。お前の決断だ」
時貞は静かに頷いた。
「——笹木先生の報告書に、こう書いてありました。村の子供たちが、また来てほしいと言っていた、と」
「そうだろう」と道雪は言った。「あの村の者たちは、今も話している。鳳凰寺の医者が来て、死ぬはずだった子供たちが助かった——と」
「それが広まっているのですか」
「九州中に広まっている」と道雪は静かに言った。「武力より、こちらの方が早い」
時貞は少し考えた。
「俺は評判を作りたかったわけじゃない」
「わかっている」と道雪は即座に言った。「だからこそ広まる。計算で動いた者の評判は、すぐ化けの皮が剥がれる。本気で動いた者の話は、人の心に残る」
沈黙が落ちた。
蝉の声が遠くに聞こえた。
道雪は、手の中にある脇差に目を落とした。
春の会見の後、ずっと持ち歩いていたものだ。
「時貞殿」
「はい」
「一つ、聞かせてくれ」
「何でしょう」
「お前は日本を統一すると言った。その先——西洋の白人どもに世界を好き勝手させない、とも言った」
「はい」
「それは——お前一人の代で成し遂げられるものではない」と道雪は言った。「百年の計だとも、お前は言っていた」
「そうです」
「ならば」と道雪はゆっくりと言った。「今の俺に、できることがある」
時貞は道雪を見た。
道雪の目が、真っ直ぐに時貞を向いていた。
「俺の残りの命は、そう長くはない」と道雪は静かに続けた。「足はもう満足に動かない。若い頃のように馬を駆けることもできない。だが——」
道雪は脇差を、静かに前に置いた。
「頭は動く。人を見る目はある。九州の地を知っている。大友家の内情を知っている。諸大名の性格を知っている」
時貞は動かなかった。
ただ、道雪の言葉を待った。
「大友家への義理は、まだある」と道雪は言った。「今すぐ旗を変えることはできない。それは変わらない。だが——」
道雪は目を閉じた。
長い、長い沈黙だった。
夏の風が吹いた。
そして道雪は、目を開いた。
「俺を——使ってくれ」
その言葉は静かだった。
命令でも懇願でもなかった。
ただ——長い逡巡の末の、老将の、正直な申し出だった。
「大友家の旗は下ろせない。だが鳳凰寺の敵にはならない。それも春に言った。今日はさらに一歩進める」
道雪は続けた。
「俺が持っている情報、俺の人脈、俺の判断——それをお前に差し出す。九州の中でお前の目と耳になる。大友家の内側から、鳳凰寺家に有利な方向へ、できる範囲で動く」
「道雪殿」と時貞は言った。
「大友家を裏切るわけではない」と道雪は静かに言った。「だが——宗麟様が民より南蛮の神を大切にするなら。宗麟様の判断が九州の民を苦しめるなら。その時俺は、宗麟様ではなく民の側に立つ。それが俺の義理の、本当の在り処だ」
時貞はしばらく道雪を見ていた。
十三歳の目が、老将の目を見ていた。
「——道雪殿」と時貞はついに言った。「俺には、あなたに何かを命じる資格はありません。あなたは俺より遥かに長く生き、遥かに多くを経験した。俺はただの十三歳です」
「だが中身は違う」と道雪は言った。
「それでも」と時貞は続けた。「俺があなたに言えることは一つだけです」
「何だ」
時貞は道雪に向かって、深く頭を下げた。
十三歳の少年が、九州随一の老将に向かって。
「——ありがとうございます」
道雪は少し目を細めた。
「頭を上げろ。当主が頭を下げるな」
「あなたが俺を信じてくれた。それに対して、頭を下げずにいられない」
道雪は黙った。
しばらく、窓の外を見た。
夏の空が、高く青かった。
「一つだけ、頼みがある」と道雪は言った。
「何でしょう」
「いつか——俺が大友家の旗を下ろせる日が来たら」
「はい」
「その時は、お前の旗の下で最後の戦をさせてくれ」
時貞は頷いた。
「必ず」
道雪はそれを聞いて、小さく笑った。
老将の、穏やかな笑いだった。
「——話が決まったな」
「はい」
「では次からは、使者ではなく俺から直接連絡する」
「成瀬に伝えます。道雪殿からの連絡は最優先で俺に届けるように」
「それと」と道雪は付け加えた。「笹木殿に礼を伝えてくれ。あの医者は本物だ」
「必ず伝えます」
会見が終わり、時貞が立ち上がりかけた時、道雪が言った。
「時貞殿」
「はい」
「お前は春に言った。乱世が終わった時、降伏した者を丁重に扱うと」
「はい」
「宗麟様のことも——できれば、丁重に扱ってやってくれ」
時貞は道雪の目を見た。
そこに、長年仕えてきた主への、静かな情愛があった。
「約束します」と時貞は言った。
道雪は静かに頷いた。
三 工廠、第一陣完成
七島に帰った時貞を待っていたのは、天元からの報告だった。
「第二工廠より報告。百万貫鋳造計画、第一陣完成。総数——二十万貫」
成瀬が報告書を手に持って待っていた。
「殿。品質検査も全て通過しています。本物の永楽通宝との識別は、専門家でも困難なレベルです」
時貞は工廠に向かった。
第二工廠の扉を開けると、整然と積み上げられた木箱が並んでいた。
一箱に二百貫。百箱で二万貫。それが十セット。
二十万貫。
時貞は一箱を開けた。
永楽通宝が整然と並んでいた。
一枚取り上げた。
重さ、光沢、刻印の精度——完璧だった。むしろ本物より均一で美しい。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「品質の最終確認を」
「検査済みです。重量誤差は〇・〇三パーセント以内。金属組成は永楽通宝の規格値と完全一致。刻印の深さと均一性は現存する渡来銭の上位五パーセントに相当します」
「わかった」
時貞は銭を箱に戻した。
「第一陣の使途を確認する」と時貞は成瀬に言った。
「はい。まず近衛前久殿への追加支援として十万貫。二条晴良殿への初回支援として十万貫。これで朝廷工作の第一段階が整います」
「その後は?」
「七島の内政資金と、九州外交の運転資金として確保します。博多の取引拡大、龍造寺家との会談準備——いずれも資金が必要です」
「わかった」と時貞は言った。「近衛殿と二条殿への分は、榊原に持たせる。来週、再び京へ向かわせろ」
「はい」
「それと」と時貞は付け加えた。「朝廷への百万貫贈与の準備を進める。月産五万貫のペースで蓄積を続けてくれ。全額が揃ったら——一気に送る」
成瀬が頷いた。
「殿。一つ確認があります」
「何だ」
「これだけの銭が市場に出れば——日本の経済に影響が出ます。一気に大量放出すれば、銭の価値が下がる可能性も」
時貞は頷いた。
「わかっている。だから段階的に放出する。博多の取引を通じた貿易代金、朝廷への支援、公家への支援——これらを通じて少しずつ市場に入れていく。一気に出すことはしない」
「天元にも経済影響の試算を——」
「既に行っています」と天元が答えた。「現在の日本全体の流通銭貨量は推定で五千万貫から一億貫。百万貫の段階的な追加は、全体の一パーセント以下です。品質の高い銭を供給することで、粗悪な私鋳銭を駆逐する効果もあり、経済の安定に寄与する可能性が高い」
「それで行く」と時貞は言った。
工廠の中に、夏の光が差し込んでいた。
積み上げられた木箱が、その光を受けて静かに輝いていた。
四 時貞の手紙
その夜、時貞は机に向かった。
二通の手紙を書いた。
一通目は、近衛前久へ。
前久殿へ
先日の訪問の御礼を申し上げます。
今回、使者に改めて十万貫をお届けします。
これは朝廷の御修復と、帝の御生活の改善に使っていただければ幸いです。
使途については一切申しません。前久殿のご判断にお任せします。
一つだけ申し上げます。
俺は将来、日本を統一します。
その時、朝廷は日本の中心であり続けなければならない。
力ある者が朝廷を守る——それが本来の在り方だと思っています。
自分はまだ、未熟なことも多い。
しかし、この志は変わりません。
鳳凰寺時貞 敬白
二通目は、二条晴良へ。
晴良殿へ
帝への御奏上、誠にありがとうございます。
その御厚意に、言葉では表せないほど感謝しています。
今回、十万貫をお届けします。
これは晴良殿への御礼であると同時に、朝廷の内政改善に役立てていただければとの思いからです。
帝に拝謁できる機会をいただけるとのこと。
その日に向けて、精進します。
一つお願いがあります。
帝に、俺の本当の気持ちを伝えてください。
俺は朝廷を利用したいのではない。
日本という国の核を、守りたいのだと。
鳳凰寺時貞 敬白
二通を書き終えて、時貞は筆を置いた。
灯りが揺れていた。
窓の外に夜の海が広がっている。
道雪が言葉を口にした。
帝が会いたいと言った。
朝廷への銭の準備が始まった。
(少しずつ、動いている)
焦らない。急がない。だが止まらない。
時貞はノートを開き、一行書いた。
「歴史は力だけでは動かない。人の心が動く時、歴史が動く」
書いてから、少し考えた。
(これは真田琢磨の言葉か、鳳凰寺時貞の言葉か)
もう、どちらでもよかった。
二人は今、ひとつになっていた。
夜の海が、静かに揺れていた。
日本の歴史が、誰も知らない方向へ、静かに、深く、流れ始めていた。




