第九章 ―命の重さ―
一 臼杵への道
永禄四年、盛夏。
笹木淳子が率いる医療班の船が、豊後水道を抜けて臼杵湾に入ったのは出港から二日後の昼過ぎだった。
臼杵の港は小さかった。
漁船が数隻、岸に引き上げられている。波止場に人影はまばらで、どこか沈んだ空気が漂っていた。
「……静かすぎる」と笹木は言った。
隣に立つ看護要員の桐島が頷いた。「疫病が出ているからでしょうか。人が出歩かないのかもしれません」
「荷を降ろしたら、すぐ動く。時間がない」
医療班が桟橋に上がると、一人の男が近づいてきた。
四十がらみの、武骨な顔をした武士だ。甲冑ではなく、粗末な麻の着物を着ている。
「鳳凰寺の方々か」
「そうです。笹木淳子と申します」と笹木は答えた。
男が少し驚いた顔をした。女性が率いているとは思っていなかったのだろう。
「……立花道雪様より言づけを受けた、本田正親と申す。案内役を仰せつかりました」
「よろしくお願いします。村まではどのくらいですか」
「山道を一刻ほど。荷が多いようだが——」
「全部必要なものです」と笹木は静かに言った。「運べる手を貸してもらえますか」
本田は一瞬戸惑ったが、頷いた。
「手配します」
山道を歩きながら、笹木は本田から状況を聞いた。
「村の名は迫田村。戸数は三十ほど。今月に入って子供を中心に熱と発疹が出始め、今では大人にも広がっています。すでに子供が三人——」
本田は言葉を切った。
「三人、亡くなったのですね」と笹木が続けた。
「……はい」
「今、症状が出ている者は何人ですか」
「二十名ほどかと。ただ、日に日に増えています」
笹木は後ろを振り返った。
医師の池田と中村、看護の桐島たち、薬剤担当の原と田代——全員が重い荷を背負いながら、黙々と歩いていた。
誰も弱音を言わなかった。
(この人たちを、絶対に感染させない)
笹木は心に刻んだ。それが自分の最優先事項だ。患者を救うと同時に、班員を守る。その両立が今の自分の責任だった。
迫田村が見えてきた時、笹木は足を止めた。
小さな村だった。
茅葺きの家が十数棟、山の斜面に沿って並んでいる。田んぼが広がり、夏の緑が濃い。
だが——村の空気が重かった。
子供の泣き声が聞こえた。どこかで大人が何かを呻いている。
笹木は深く息を吸った。
「班員全員、マスクと手袋を着用してください。患者との接触前に必ず消毒する。これを徹底してください」
「はい」と全員が答えた。
本田が怪訝な顔をした。「その白い布は——」
「感染を防ぐためのものです」と笹木は答えた。「私たちが病になって倒れれば、誰も助けられなくなる。これは患者のためでもあります」
本田は頷いた。理屈はわからなかったが、言っていることの意味は理解できた。
二 村の現実
村長の家が、臨時の病舎になっていた。
笹木が中に入った瞬間、鼻を突く匂いが来た。
部屋の隅に、子供が三人横たわっていた。七歳から十歳ほどか。顔と体に赤い発疹が広がり、目が充血している。高熱で朦朧としているのか、視線が定まらない。
母親らしい女性が傍らで泣きながら手を握っている。
笹木は即座に子供の一人に近づき、診察を始めた。
体温を測る——体温計を当てると、母親が目を丸くした。細い棒を腋の下に挟むという行為が、完全に理解の外だったのだろう。
「四十度…」と笹木は呟いた。
「池田先生、発疹の状態を確認してください。中村先生は別の患者を」
「はい」
「桐島さん、補液の準備を。脱水が進んでいます。原さん、解熱剤の用量を計算してください」
班員が動いた。
村人たちが入口に集まっていた。
遠巻きに、医療班の動きを見ている。白いマスクと手袋をつけた者たちが、見慣れない道具を使いながら子供を診ている——その光景は、村人たちには奇妙に映ったはずだ。
だが誰も止めなかった。
子供が死んでいるのだ。どんな助けでも、今は拒む余裕がなかった。
笹木は診察を続けながら、村の医療事情を本田から聞いた。
「村医者は?」
「一人いましたが、先月流行が始まった直後に自分も倒れて——今は床についています」
「薬は」
「煎じ薬を使っていましたが、効いている様子がなく」
「わかりました」
笹木は池田と目を合わせた。
池田が小さく頷いた。
麻疹——天然の確認はこれからだが、症状からほぼ間違いない。
「全患者の隔離を始めます」と笹木は本田に言った。「症状が出ている者と、出ていない者を完全に分ける。これが最優先です」
「しかし家族が——」
「家族も感染する可能性があります。今は辛くても、離れることが最善です」と笹木は静かに、しかしはっきりと言った。「説明します。なぜそうする必要があるか、全員に説明します。隠しません」
本田が目を見開いた。
「……わかった。村人を集めます」
三 説明する医師
村の広場に村人たちが集まった。
三十人ほど。老人から子供まで。不安そうな顔、疑いの目、泣きはらした顔——様々な表情がそこにあった。
笹木は広場の中央に立った。
白いマスクを顎まで下げ、顔を見せた。
三十四歳の女性医師。背は高くなく、派手な顔立ちでもない。だが立ち方に、揺るぎないものがあった。
「皆さん、初めまして。鳳凰寺七島から来た医者の笹木淳子と申します」
ざわめきがあった。
「今この村に広がっている病は、はしかと呼ばれるものです。非常に感染しやすい病で、特に子供に重くかかります」
「はしか?」と老人が言った。「そんな病、聞いたことがない」
「この地ではまだ広まっていない病かもしれません。だからこそ、皆さんの身体に抵抗力がなく、重くなっています」
「治るのか」と男が叫んだ。「子供が死んでいるんだぞ!」
笹木は静かにその声を受け止めた。
「全員を救えるとは言えません」と笹木は言った。「それは嘘になるので言いません。でも——私たちが来る前より、ずっと多くの命を守れます。そのための知識と薬を持ってきました」
村人たちが静まった。
「これからお願いすることがあります。一つ、症状が出ている方は隔離します。つらいことですが、これで病が広がるのを防げます。二つ、私たちの指示に従ってください。変なことをするように見えても、全て理由があります。三つ、何でも聞いてください。隠しません」
老婆が手を挙げた。「その白い布は何ですか」
「病がうつるのを防ぐためのものです。私たちが倒れれば、皆さんを助けられなくなる」
「あの細い棒は」
「熱の高さを測るものです。熱がどれほど高いかによって、薬の量が変わります」
「なぜ手袋を」
「傷口から病が入るのを防ぐためです」
老婆は黙って考えていた。
それから頷いた。
「……わかった。信用してみましょう」
それが合図になった。
他の村人たちも、少しずつ頷き始めた。
四 三日間
最初の三日間は、戦だった。
笹木たちは昼夜を問わず動いた。
隔離の徹底。補液。解熱処置。二次感染の予防。栄養補給——一人一人の状態を記録し、対処した。
最も重篤な子供が二人いた。
一人は七歳の男の子。高熱が四日続き、肺炎の兆候が出ていた。
もう一人は十二歳の女の子。発疹が全身に広がり、目の充血が激しかった。
笹木は二人のそばから離れなかった。
二日目の夜、七歳の男の子の熱が四十一度を超えた。
母親が泣きながら笹木にすがった。「助けてください。この子だけは——」
笹木は母親の手を握り、静かに言った。
「全力を尽くします。ただし——一緒に祈っていてください」
医学的にできることを全てやった。
そして夜明け前、熱が少し下がった。
三十九度二分。
笹木は体温計を見て、息を吐いた。
長い、長い息だった。
三日目の朝、十二歳の女の子が目を開けた。
「——お腹、すいた」
その一言が、病舎に広がった。
看護の桐島が思わず声を出した。笑いではなく、泣き声に近いものだった。
笹木は頷いた。
「よかった」とだけ言った。
六日後、重篤な患者二人を含む全患者の容態が安定した。
死者は出なかった。
医療班が到着してから、一人も。
本田が笹木に近づいてきた。
「……信じられん」と本田は言った。「三人が亡くなった後も、毎日一人二人と増えていた。それが——」
「病の流行には波があります」と笹木は言った。「私たちが来た時期もありました。全員自分たちの力で助けたとは思っていません」
「いいや」と本田は首を振った。「違います。あの子たちは、先生方が来なければ死んでいた。それは確かです」
笹木は何も言わなかった。
ただ、村の方を向いた。
広場で子供たちが遊んでいた。三日前まで熱で横たわっていた子が、今は走り回っている。
笹木はマスクを外した。
夏の風が頬に当たった。
帰り際、村長の老人が笹木の前に来て、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。礼の言葉しか言えませんが——」
「十分です」と笹木は言った。
老人は顔を上げた。その目に涙があった。
「あなた方の当主は、どういうお方なんですか」
笹木は少し考えた。
「十三歳になる方です。でも——民が死ぬのが嫌いな人です」
老人はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
そしてもう一度、深く頭を下げた。
五 道雪の決意
府内・大友家の城下。
本田正親が道雪の元へ帰ってきたのは、医療班が村を去った翌日だった。
道雪は本田の報告を、一言も遮らずに聞いた。
「……六日間で、全員の容態が安定した」
「はい。重篤な子供二人も、回復しています」
「死者は出なかったか」
「医療班が到着してからは、一人も」
道雪は目を閉じた。
長い沈黙が落ちた。
「笹木という医師は、どういう人物だった」
「女性です」と本田は言った。「三十四歳ほど。静かな方ですが——芯が強い。昼も夜も休まず動き、一度も弱音を言いませんでした」
「村人の反応は」
「最初は半信半疑でしたが……最後には全員が信頼していました。帰り際、村人たちが列をなして見送っていました」
道雪は立ち上がろうとした。
足が重かった。雷に打たれた後遺症は、湿気の多い夏に特に堪える。
それでも道雪は立ち上がり、窓の外を見た。
豊後の夏が、青く広がっていた。
「本田」と道雪は言った。
「はい」
「俺はあの会見の後から、ずっと考えていた」
「……はい」
「鳳凰寺時貞が何者か。本当にあの言葉通りの人物か——それを確かめたかった」
「それで、書状を」
「そうだ。試したと言えば、試した」道雪は静かに続けた。「だが——答えが出た」
本田は黙って待った。
「俺はこの先、大友家に全てを捧げ続けることが、本当に正しいのか——その問いに、ずっと答えが出なかった」
窓の外で、鳥が鳴いた。
「宗麟様への義理は本物だ。今もある。だが宗麟様が目指す方向と、俺が信じる道が——少しずつ、ずれていく気がしていた」
「……」
「南蛮人に頼ることへの違和感。キリストの教えへの傾倒が深まるほど、九州の民より遠い何かを向いている気がしていた」
道雪は振り返り、本田を見た。
「民が死んでいる時に、すぐ動いた」
その言葉は静かだった。
「見返りを求めず。大友家への許可も待たず。ただ子供が死んでいるから、すぐ動いた——それが鳳凰寺のやり方だ」
「はい」
「俺が長年、乱世の中で忘れかけていたものだ」
道雪は再び窓の外を向いた。
「本田。一つ、動いてくれ」
「何でしょう」
「風間殿を呼んでくれ。鳳凰寺の諜報の者だ。博多にいるはずだ」
「はい。何をお伝えしますか」
道雪は少し間を置いた。
「——時貞殿に会いたい。もう一度だけ」
その言葉の重さを、本田は感じ取った。
前回の会見とは違う。
あの時の道雪は、様子見だった。
今度は違う。
この老将は——何かを決めようとしている。
「……承知しました」と本田は深く頭を下げた。
道雪は一人になってから、古い脇差を手に取った。
長年の戦で幾度も血を吸った刃。
今はもう鞘に収まったまま、部屋の隅に置いてある。
道雪はその刃を、静かに撫でた。
(俺の残りの命は、どこに使うべきか)
答えは、もう出ていた。
ただ——言葉にするまでに、時間がかかっていただけだ。
(時貞。お前が本物なら——俺の残りを、お前に預ける)
夏の光が、脇差の刃に反射した。
六 榊原、二条晴良へ
京、二条家の邸。
榊原雅之が二条晴良と向き合ったのは、近衛前久への初訪問から二週間後のことだった。
二条晴良は三十六歳。
落ち着いた顔立ちに、細かいところまで目が届く知性的な光がある。朝廷内の調整役として帝の信頼が篤い——その評判通りの、静かな重みを持つ人物だった。
「鳳凰寺家の者か」と晴良は言った。
「はい。榊原雅之と申します」
「近衛殿のところへも行ったそうだな」
榊原は少し驚いた。情報が早い。
「はい。先にご挨拶に伺いました」
「隠さなくていい」と晴良は静かに言った。「俺は責めていない。複数の家に当たるのは、当然の手順だ」
晴良は榊原をじっと見た。
「ただ——一つ聞く。近衛殿には何を話した?全て話せ」
榊原は考えた。
隠すことは逆効果だ。この人物は、嘘をついた瞬間に気づく目を持っている。
「鳳凰寺家の存在と、朝廷への支援の意向をお伝えしました。書状と五千貫を持参しました」
「五千貫」と晴良が繰り返した。「大金だな」
「当主の本気を示したかった、とのことです」
「その当主は十三歳だと聞いた」
「はい」
晴良は少し考えてから、別の質問をした。
「鳳凰寺家は、朝廷に何を求めている」
榊原は正直に答えた。
「将来的な協力関係です。具体的には——情報の共有と、朝廷を通じた政治的な影響力です。対価として、朝廷への継続的な財政支援と、二条様個人へは年三万貫の支援と、鳳凰寺が持つあらゆる情報の提供を約束しています」
晴良は表情を変えなかった。
「情報の提供、というのは」
「鳳凰寺家の諜報部は、日本全国の大名の動向を収集しています。その情報を二条様と共有します」
晴良が初めて、わずかに目を細めた。
「……それは」と晴良はゆっくりと言った。「朝廷にとって——非常に価値がある」
「当主もそのように考えております」
「今の朝廷は」と晴良は続けた。「各大名から情報を得ているが、それは各大名が見せたい情報だ。本当のことはわからない。だが——」
「独立した情報源があれば」と榊原が続けた。「本当の勢力図が見える」
晴良は榊原を見た。
「お前は賢い」
「当主の言葉を伝えているだけです」
晴良はしばらく沈黙した。
それから、おもむろに立ち上がり、部屋の奥へ消えた。
しばらくして戻ってきた時、手に一通の書状を持っていた。
「——帝にお見せする」と晴良は言った。
榊原が目を見開いた。「え——」
「お前たちの書状を、帝にお見せする、と言った」
「それは——」榊原は声を整えた。「大変光栄なことですが、それほど早く——」
「私は朝廷の実務を預かる立場だ」と晴良は静かに言った。「財政の現状を最も近くで見ている。そして——帝がどれほど朝廷の窮状を心を痛めていらっしゃるか、私は毎日目にしている」
晴良は榊原を真っ直ぐに見た。
「もし鳳凰寺家が本物なら——帝にとって、これほどの大事な話はない。本物かどうかを確かめるのに、時間をかけている余裕が今の朝廷にはない」
榊原は深く頭を下げた。
「……当主は、帝のことを心から案じております」
「それが本当かどうか——帝がご自身でお判断になる」と晴良は言った。「私はただ、その機会を作る」
榊原が邸を出た後、晴良は書状を手に持ったまま、しばらく立っていた。
庭に夏の光が落ちている。
(本物か——どうか)
晴良はその判断を、帝に委ねることにした。
自分の目は確かだと思っている。だが——これほど大きな話は、自分一人で判断すべきではない。
そして帝には、人を見る目がある。
それを晴良は知っていた。
長年傍で仕えてきた、正親町天皇の目を。
晴良は書状を懐に入れた。
明日、帝にお目にかかろう。
夏の京に、静かな風が吹いていた。
七 七島の夜
その夜、時貞は医療班の帰還報告を読んでいた。
笹木の詳細な報告書だった。
患者数、症状、処置内容、経過——全てが丁寧に記録されていた。そして最後に、一行だけ付け加えられていた。
「村の子供たちは元気です。また来てほしいと言っていました」
時貞は報告書を置いた。
窓の外に夏の夜の海が広がっていた。
(笹木先生)
心の中で呼びかけた。
ありがとう、と。
そして——
道雪からも、風間経由で短い言葉が届いていた。
「もう一度、会いたい」
たったそれだけの言葉だった。
だが時貞には、その言葉の重さがわかった。
道雪が何かを決めた。
その何かが何であるか——言葉にしなくても、わかった。
時貞は静かに立ち上がり、天元の端末に向かった。
「天元」
「はい」
「道雪殿への返書を作成してくれ」
「内容は」
時貞は少し考えた。
「——いつでも。待っています」
それだけでいい。
余計な言葉はいらない。
道雪はわかってくれる。
夜の海が、静かに揺れていた。
北では白石が、四島の大地を測り続けている。
京では榊原が、朝廷の扉を静かに叩いている。
九州では道雪が、長い迷いの末の答えを手の中に握っている。
鳳凰寺家の根が、日本の土に、静かに、しかし確実に、張り始めていた。
歴史は今夜も動いていた。




