第八章
清瞳は梯子に伝って塀の外の小道に降りた。もし劉浩の身体能力が自分にもあれば、梯子なんて使わず軽く飛び越えられるのだろう。あの軽やかな身のこなしを思い出すと、ちょっと羨ましくなる。
(敵じゃなかったら、弟子入りしたいくらいなんだけどね……)
塀の上で小玉は梯子を引き上げて隠した。
清瞳はまず商業地区へ行ってみようと考えた。お金を稼ぐにはこの土地を知る必要がある。にぎやかなところだったら情報はたくさんあるはずだ。
南東の方向を確かめ、歩き出そうとしたそのとき、ふと川の方へ目が向く。
今日笙を吹く人が来ているかなと思いつつ、清瞳は笛を取り出し、いつもの“笙奏者”と合わせる曲を吹いてみた。すぐ川の方から笙の音が返ってきた。清瞳は笛をしまい、そちらへ向かった。
川へ近づくにつれ、柳の下に若い男の姿が見えてきた。
紫の長衣をまとい、指先には美しい玉笙がある。
(この人が……毎日、私の笛に合わせて吹いてくれていた笙奏者?
どうしてそんなことを? ただの趣味? それとも……)
清瞳が立ち止まったその瞬間、男はふっと気配を察したように振り返った。
視線の先には、笙をじっと見つめる“美少年”――もちろん、変装中の清瞳。
男は思わず柔らかな笑みを浮かべた。
「やあ、坊や。笛が好きなのかい?」
その声は、笙の音色のように穏やかで、耳にすっと沁み込む。
二十歳前後だろうか。
剣のようにすっと上がった眉、深い陰影を帯びた目許、控えめな微笑。
――またしても、“イイ男”である。
(……鳳城って、こういう人の宝庫なの?)
しかも怪しい気配はまるでない。
数日間、自分の笛にあわせて笙を重ねてくれていた人――そう思うと、清瞳の警戒心は自然とほどけ、むしろ好感が胸に灯った。
清瞳は声を低くして丁寧に言葉を返す。
「川沿いを散歩していたら、とても美しい笙の音が聞こえてきたので……つい立ち寄ってしまいました。ご迷惑でしたら、すみません」
男はゆるく笑い、首を振った。
「いやいや、まったく迷惑じゃないよ」
清瞳は懐から自分の笛を取り出し、にっこりと微笑む。
「私、笛を吹くのが好きなんです。……もしよければ、二重奏をしていただけませんか?」
その一言に、男の目がぱっと明るさを増した。
「君、笛が吹けるのかい? それは嬉しい!」
やがて二人は川辺に並んで座り、笛と笙を構えた。音が重なっていくほどに、互いの距離も自然と近づいていく。曲が終わると、男はどこか名残惜しそうに、しかし嬉しげに清瞳へ向き直った。
「気が合うね。よかったら……千風亭で一杯どうだろう?」
千風亭――名前からして、茶屋か食事処だろう。
そこはちょうど清瞳が行きたかった場所で、土地勘のない街を誰かと一緒に歩けるのも心強い。
清瞳は軽く会釈し、柔らかい笑みを向けた。
「私は李山と言います。……若旦那のお名前は?」
曲の余韻が残るせいか、二人の距離は自然と近づいていた。
若旦那はにっと笑う。
「今日はいい友に出会えたよ。私は陳。子立と呼んでもいいし……“兄貴”でもいいぞ?」
清瞳は思いきって「兄貴」と呼んでみる。その響きが妙にしっくりきて、ふたりは一気に打ち解けた。
歩きながら話していると、清瞳はすぐに気付く。
この兄貴、鳳城のことを驚くほど詳しい。
(……え、これ、まさに“生きた地図”! ラッキーすぎない?)
胸に秘めた脱出計画が心強くなり、清瞳はこっそりと笑みを噛み殺した。
川沿いを東へ進むと、茶屋が立ち並ぶ土手が見えてくる。
鳳城の街に踏み込むのは初めてで、清瞳の目は右へ左へと大忙しだ。
そんな様子を見て、子立が苦笑まじりに声を掛ける。
「山兄、この調子だと日没までに着かないぞ」
清瞳はハッと我に返った。
「兄貴、千風亭までって……どのくらいなんですか?」
「馬なら四十五分。歩くと二時間ほどだ」
(……広っ!? 馬ほしい……)
そう思った瞬間、タイミングよく「ヒヒーン!」といういななき。
顔を上げると、馬の大きな頭が目の前にあった。
子立が笑って言う。
「召使いに馬を連れてこさせておいた。山兄、乗れるか?」
清瞳は真剣な顔で問い返す。
「……誰かに引いてもらった馬に乗ったことがあったら、乗れるってことになります?」
あまりにも純粋な質問に、子立は一瞬見とれてしまった。
清瞳の瞳は澄んでいて、まっすぐ自分を見ている。
(なんて綺麗な目だ……)
子立は軽やかに馬に跨がり、手を差し伸べた。
「さあ、山兄。こっちへ」
清瞳は迷わずその手を取り、馬の背へ引き上げられた。
「しっかりつかまってて!」
子立が笑った次の瞬間――
馬が立ち上がり、そのまま全力疾走。
清瞳は悲鳴を飲み込み、手綱を握りしめ、子立の腕にしがみつく。
頭上から、落ち着いた声が降ってきた。
「大丈夫だよ。兄貴がついてる。落としはしない」
(いやいやいや、十分こわいから!?)
心で叫びつつ、声は震える。
「兄貴っ……もうちょっと……ゆっくり……!」
子立は内心、(きっと裕福な家の若様だな)と勝手に思い込んでいた。
東門を抜ける頃には馬も速度を落とし、穏やかな街並みが広がってくる。
鳳城の東街は二十〜三十メートルの広い通りで、馬車も輿もゆったりと行き交っている。
青石煉瓦の舗装は継ぎ目まで整っていて、清瞳は思わず見入った。
通りの両側には二階、三階建ての店がずらりと並び、
一階は商店、上階は茶屋や食事処らしい。
華やかな服をまとった客たちが行き交い、まさに“活気ある都”だ。
やがて子立は南の細道へと馬を進める。
木陰に中庭がいくつも連なり、落ち着いた佇まい。
そして一軒の前で止まり、清瞳は看板に目を奪われた。
「千風亭」
ついに着いた。
子立は馬を降り、清瞳を手で支えた。
そのとたん、清瞳はお尻に鋭い痛みを覚え、思わず擦ってしまう。
子立が半笑いで言った。
「兄貴、スピード出しすぎだな」
「兄貴のせいですよ……!」
清瞳が言うと、子立は大笑いして謝った。
「すまない、山兄! 完全に私のせいだ!」
清瞳は苦笑しつつ頷く。
「許します。でも……また今度、乗り方を教えてくださいね?」
「もちろん」
子立は嬉しそうに頷いた。
千風亭に入ると、給仕の目が輝いた。
この店に来る客は身分の高い人が多い。背の高い男は品があり、隣の少年は明らかに育ちが良さそうだ。
給仕は丁寧に頭を下げた。「若旦那様、ぜひ二階へどうぞ」
階下には黒檀のティーテーブル、壁には山水画や書が飾られ、静かで上品な空気が漂っている。
二階に上がると、格子戸で仕切られた席と個室が並んでいた。子立は迷わず個室を選び、清瞳を待ってから柔らかく言った。
「山兄とゆっくり話すなら……ここが一番静かだ」
清瞳は小さくうなずき、窓際に腰を下ろして外の景色を眺めていた。
背後では子立が給仕と話している。
「千風亭には看板料理が三つあって、自家製の酒もあると聞いてね。今日が初めてなんだが……期待を裏切らないといいんだけど」
給仕はにこやかに頭を下げた。
「若旦那様、初めてでございますか。当店自慢の品々をご堪能くださいませ」
やがて料理が並んだ瞬間、清瞳は思わず心で叫ぶ。
豆腐、青菜、ナス――全部ベジタリアン。
ベジ料理は素材勝負だから、むしろ誤魔化しがきかない。
清瞳はまず豆腐を一口。
その横で、子立がさっそく感想を漏らす。
「おお……これはうまい。きめ細かくて柔らかい。豆腐の香りがちゃんと残っていて、後味が爽やかだ」
清瞳は青菜、ナスも順に試した。
たしかに悪くはない。悪くはないのだが――
「兄貴、これって本当に美味しいの?」
「山兄、味覚がちょっと人と違うのか? 他の店の豆腐はほとんど味がしないぞ。安慶王府の王子が『豆腐を味わいたければ千風亭へ行け』と言うくらいだ」
「安慶王府」の名が出た瞬間、清瞳は危うくお茶を吹き出すところだった。
咳き込みつつ、平静を装う。
「兄貴、劉浩と知り合いなんですか?」
「いや、何度か顔を合わせただけだ。山兄は?」
「えーと……桃花宴で見ただけです」
――危なかった。
話題をそらすように、清瞳は料理へ視線を戻した。
「千風亭って、こってりした料理に慣れてる貴族に、あえてさっぱり系を出してるんですね。……正直、私はそこまで美味しいとは思わないけど」
子立は黙って酒を口に運んでいたが、ふと清瞳をじっと見つめた。
その瞳は、以前仕留めた豹の目を思わせた――澄んでいて、強くて、まっすぐで。
(……肌が白かったら、女性でも敵わない美しさかもしれない)
そんなことを考えながら、子立はもう一杯酒を飲んだ。
清瞳が感想を言い終えたころ、思索に沈んでいた子立は我に返る。
すると清瞳はにっこり笑って言った。
「兄貴、今度機会があれば、私が料理してあげますよ。きっと舌を噛むほど美味しいから!」
子立は苦笑した。
「……千風亭の看板三品を、ここまで堂々と貶す人は鳳城で君が初めてだよ」
「えっ、本当に!? 鳳城ってこんなに栄えてるのに、食べ物が微妙ってある?」
子立は不思議そうに尋ねる。
「山兄、鳳城の生まれじゃないのか?」
「……屋敷を出るのは二度目だし、外で食事するのも今日が初めて。
家の料理のほうがずっと美味しいし……食事中は礼儀が厳しくて、あまり食べられなくて」
千風亭の料理が悪いわけではない。
ただ期待していたぶん、落差が大きかったのだ。
子立は穏やかに言う。
「千風亭は精進料理で有名だ。味も評判も悪くない。……きっと山兄の家の料理人が優秀すぎるんだろう」
清瞳は少し考え、ぱっと顔を明るくした。
「兄貴、今度いろんな有名店にも連れて行ってください! この街の“本当に美味しいもの”、全部食べてみたいんです!」
その熱意に、子立は思わず微笑んでしまう。
清瞳が上目づかいで見つめてくると、すぐに白旗を上げた。
「山兄……そんな目で見られたら断れないよ!」
清瞳は照れて視線を落とす。
子立は優しく笑いながら言った。
「こんな弟がいたら、きっと何でも欲しいものを与えたくなる。『兄貴、兄貴』って呼ばれるの、本当に嬉しいよ」
清瞳は胸の奥が、くすぐったく温かくなるのを感じた。
食事が終わり、会計の時が来た。
給仕がにこやかに告げる。「銀貨十三両でございます」
清瞳は箸を落としそうになった。「じゅ、十三両!? ベジタリアン三品で!?」
子立は面白そうに口元を緩める。「高くないさ、山兄」慣れた手つきで銀貨を取り出し、ぽんと給仕へ渡す。
店を出るとき、清瞳は思わず振り返った。
――一食ぶんで、唐園四人分の“月の食費”に相当する金額。
それなのに、あれを「高くない」と言える感覚とは……。
(……ここで店を開けば、私も大儲けできるかも)
清瞳は真剣にそんなことを考え始めていた。
店を出ると、子立は立ち止まり、ほんの少し首を傾げた。
「……自家製の酒、少し強いみたいだ。酔いが回ってきたよ。山兄、酔い覚ましに少し歩かないか?」
「うん、いいよ」
子立は馬の手綱を取り、二人は千風亭の脇を南へゆっくり歩き始めた。
街のざわめきが少しずつ遠のいていき、静かな路地へ差しかかったその瞬間――
シャッ!
空気を裂く鋭い音。
仮面をつけた男たちが影のように飛び出し、鈍く光る刃を振り下ろしてきた。
何の前触れもなく、二人へ殺気が向けられる。
清瞳の心臓が跳ね上がった。
(……えっ、なに!? いきなり!?)
子立は反射的に清瞳の腕を引き寄せた。
刃の軌跡が風を切り、二人の頬をかすめる。
空気が一瞬で張りつめた。
子立は清瞳を庇うように抱き寄せ、いつの間にか手にしていた剣を構えると、目の前の男へ斬りかかった。
清瞳は目を見張った。
長年空手で鍛えてきた彼女でも、この剣術の応酬には思わず息をのむ。
ただ、子立が自分の手をしっかり握っている――
その温もりだけが、恐怖の中の支えだった。
刃が閃く。
清瞳は身をひるがえし、左右へと避けながら、攻撃の隙を探る。
そして、子立の手を支点に跳び上がり、鋭い飛び蹴りを放った。
仮面の男は呻き声を上げて倒れ込む。
「……やるじゃないか」
子立は驚き混じりの目で清瞳を見たが、次の瞬間には再び剣を振るい、残る敵を押しのけた。
そのまま清瞳の腕をつかんで叫ぶ。
「乗れ!」
二人は馬へ飛び乗ろうとした――
が、その瞬間。
子立が突然、苦痛に声を漏らし、そのまま地面へ崩れ落ちた。
清瞳は慌てて馬を降り、彼の傍に駆け寄る。
「兄貴、どうしたの!?」
子立は青ざめた顔で息を詰まらせながら答えた。
「……鞍に……毒針が仕込まれてた……」




