第七章
彼女は思わず声を張り上げた。
「清瞳は笛が吹けます! 母が“清瞳には音楽の才能がある”って言って、ずっと教えてくれていたんです!」
その言葉を聞いて、ようやく李相の険しい視線がゆるんだ。
「そうか。詩を朗誦できて、笛も吹ける。……それも立派な取り柄だ。」
清瞳が七夫人を廊下へと連れ出したとき、背後から李相の冷ややかな声が聞こえてきた。
「玉堂、清瞳をしっかり指導してやれ。まだ若く、世の中のことを何も分かっていない。だが、お前には分かるはずだ……」
七夫人は静かにうなずいた。
唐園へ戻ると、緊張がほどけたのか、清瞳の頬を涙がつっと流れ落ちた。
現代でも古代でも、これほど深い恐怖を覚えたことは一度もなかった。異世界に転生して別人として生き始めた頃でさえ、こんなにも鮮烈な恐怖に襲われたことはない。
――もし笛のことを言わなかったら、李相は本当に私の手を折らせていたのだろうか。
胸の奥が冷たくなる。このまま受け身でいれば、いずれ本当に壊されてしまう――そう思うほどに。
清瞳は震える指を握りしめ、何度も心の中で自分に言い聞かせた。
この状況を変える方法を、必ず見つけなければならない、と。
安慶王府の北東――闇に沈む森の奥に、宋風堂はひっそりと佇んでいた。
三階建ての楼閣に灯る橙色の光だけが揺れている。だがその静けさとは裏腹に、この場所は“禁断の地”として恐れられていた。一度、ある侍女が森の道を近道しようとし、跳ねるウサギを追って宋風堂の敷地へ足を踏み入れたことがある。
――そして、戻ってこなかった。
それ以来、この森には誰一人近づこうとしない。
今そこで、安慶王子・劉浩は筆を走らせていた。
鳳城の人々の間で、彼はまるで二つの顔を持つかのように語られる。ある時は歌姫を呼び、湯水のように金を使う放蕩王子。またある時は、平然と人を斬る魔王。どれが本当で、どれが誇張なのかは誰にも分からない。
ただひとつ確かなのは、今、彼が驚くほど鎮静した表情で絵筆を動かしているということだった。
侍女の思花は、そばで墨をすりながら、主君の横顔を盗み見た。
その目は紙の向こうにある何かを見つめているようだった。
筆に導かれるまま、紙には一人の娘の姿が現れてゆく。風に揺れる絹のスカート。帯から下がる翡翠の飾り。狭い肩、長い首、雲のようにまとめられた髪に挿された蘭の簪――それは顧家の娘、清雅で名高い顧天林の姿だった。
ひとまず満足げに絵を見渡し、劉浩は目元の仕上げにとりかかる。
だが、彼が瞳を描こうとした瞬間、脳裏に浮かんだのは顧天林ではなかった。
澄んだ光を宿しながら、いたずらっぽく、生意気な……あの“ガキ”の目だ。
一度目を閉じ、顧天林の柔らかな視線を思い出そうとしたが、まばたきの間にその表情は掻き消えた。
描き終えて絵を見返したとき、劉浩の指が止まる。
――どうして、あいつの目を描いてしまった?
思花がそっと絵を覗き込み、心の中で息を飲んだ。
「なんて美しい……けれど、この目は柔和さに欠けて、野性に満ちている――なぜ……?」
劉浩は絵を眺めて、紙を握り潰そうとしたが……
絵の瞳が、まるでこちらを見返しているようで、指が動かなかった。
数拍の沈黙ののち、低く命じる。
「額装しろ。」
思花は驚きながらも、静かに頭を下げた。
やがて劉浩は机の上を指で軽く叩き、表情を切り替える。
「……桃花宴で、侍女や下働きを連れてきた家を調べたか。」
外の部屋で膝をつき続けていた劉英が、低く報告した。
「寧国の貴族七家、宮廷役人の妻妾十四名、連れてきた侍女と召使いは五十七名。鳳城の若旦那二十三名も参りましたが、誰も侍女は同行しておりません。五十七名を全員確認しましたが、例の少女は見つからず……
また、護国公主は侍女八名。山荘の侍女百四十六名も調べましたが、中にいませんでした。」
劉浩の眉間が深く寄る。
――一日に二度も自分を騙し、最後には木に縛りつけ、銀貨まで奪って逃げた小娘を。
安慶王子がそんな醜態を晒したと知られれば、生きていけない。握っている拳に青い血管が浮き上がった。
劉英は恐る恐る問う。
「主君……彼女は、近くの猟師の娘かもしれません。」
その言葉に、劉浩は勢いよく目を見開いた。
「――調べろ。」
劉英は一礼してシュッとして姿が消えた。
七夫人と清瞳のお小遣いは、二人合わせて月に銀十両。唐園の出費を考えると、ほぼギリギリだった。
でも、李宰相が清瞳の才能に気づいた途端、お小遣いは一気に二十両にアップ。
七夫人は劉浩から奪った銀貨金貨には、王家の刻印が無いのを確かめると、張婆にこっそり両替させた。四百両以上もあって、これだけあれば、唐園の四人は何年でも暮らしていける。
どんな時代でも、結局“金は裏切らない”。清瞳は屋敷を出てお金を稼ぐ方法を探す決意がますます強くなった。
七夫人は心配そうに清瞳を見つめた。
「清瞳、あなた来月で十三歳になったばかりなのよ? ほとんど外に出たこともないのに……母ちゃん、心配で仕方ないわ。」
清瞳は落ち着いた声で返す。
「鳳城の文化や風習はちゃんと聞いてるし、本だって読んでるの。寧国のことも知らないわけじゃない。
それにさ……私の頭って、本当に十三歳の子ども並み?」
七夫人はまだ納得できない様子。
そこで清瞳は竹林へ案内した。
彼女は太い竹を前に立つと、勢いよく踏み込み――
ズバンッ。竹が音を立てて真っ二つに割れた。さらに拳と蹴りを連打し、竹の葉を次々に散らす。
七夫人はポカンと口を開けたまま固まる。
「昔ね、眠れなくて庭に出たら、武術をしてるおじいさんに会ったの。彼から習ったの。『誰にも言うな』って言われたけどね。――この前だって、安慶王家の若い王子を一撃で気絶させたし」
清瞳が得意げに言うと、七夫人は口を押さえて目を丸くしながらも、どこか嬉しそうだった。
「清瞳、それなら大丈夫ね。もし何かあっても、あなただけでも宰相府を出て逃げちゃえばいいんだから」
清瞳は七夫人をぎゅっと抱き寄せた。
「逃げる時は一緒だよ。私、一人で逃げたりしない」
異世界で一人だった清瞳にとって、七夫人、小玉、張婆は家族と変わらなかった。
小玉は十四歳になった時、七夫人は百両持たせ、自由になって良い相手を探すように言ったが、小玉は涙をこぼしながら首を振った。
「私、一人ぼっちなんです!奥様がくださった銀のおかげで、母をちゃんと埋葬できました。
今になって、どこへ行けと言うんですか……?」
「ここではあなたを幸せにできないのよ」
七夫人の言葉にも、小玉は必死に訴える。
「奥様もお嬢様も……私を家族みたいに扱ってくださいます。どうか、ここにいさせてください。お嬢様もまだ幼いじゃないですか」
すると清瞳が小玉を抱きしめたた。「じゃあ、今日から小玉は私の妹。家族なんだから、どこに行っても絶対に置いていかないよ」
その日から、小玉にも笛を教えるようになった。清瞳が屋敷を出ても、小玉が代わりに竹林で笛を吹けるように。
清瞳は毎朝、竹林で笛の練習をするのが日課になった。
朝の竹林は空気が澄んで、鳥の声も心地よく、心を静まって練習するには都合のよい場所だった。
ある朝、清瞳が笛を吹いていると、塀の向こうから笙の音が聞こえてきた。
笙は笛と段々重なって、合奏するようになって、清瞳が演奏を終えるまで付く会っていた。それから毎日、清瞳が笛を吹くと笙が応えるようになった。笙に導かれて清瞳の腕はどんどん上達した。
七夫人は微笑む。
「琴も笙も笛も、つながるものなのよ。清瞳の琴の腕前は私より上。笛もすぐ上手になったわ。きっと、お父様も喜ばれるね」
……しかし、清瞳はその言葉に、笛の練習への意欲を失っていった。
今の彼女に必要なのは、外の世界を知り、この場所から抜け出す方法を探すこと。清瞳はひっそりと、屋敷の外の探索を決意した。
宰相官邸は、高さ八メートルの塀でぐるりと囲まれている。青いレンガが隙間なく積まれていて、清瞳は竹林の方からゆっくり塀へ歩きながら、心の中でブツブツ文句を言った。
「……なんでこんなに完璧に作っちゃうのよ。どこかに“一か所くらい”甘いところがあってもいいでしょうに」
塀に沿って歩き回っても、穴どころかヒビすら無い。
がっくり肩を落としかけたとき、塀の近くに積まれた大きな石に気づいた。庭の修繕に使った余りだろう。苔も生えていて、かなり前から放置されている感じだ。
清瞳は袖をまくり、石に手をかけた。大きいのは百キロを超えている。
「ふんっ……!」
息を吸って全力で持ち上げると――石がわずかに動いた。
「……やった!」
清瞳はにやりと笑った。
翌日。
斉夫人が竹林で見張りをしてくれている間に、清瞳と小玉は昨日運んだ太い棒を抱えてやってきた。
小玉は石を見上げ、青ざめる。
「お嬢様……これ、動かそうと思ったら大男が何人も必要ですよ? 私たちだけで本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。てこの原理を使うからね」
清瞳は胸を張る。
「アルキメデスって人が言ったの。『支点さえあれば地球だって動かせる』って」
「してん……? 地球って何ですか?」
清瞳はくすっと笑った。
「覚えなくていいよ。私の言うとおりにしてくれればいい!」
棒を石の下に差し込み、硬い石を支点にしてセットすると、清瞳が押し、小玉が前へ転がす。
重い石が、ゆっくり、けれど確実に塀へ向かった。
「すごい……動きました!」
嬉しそうに手を叩く小玉に、清瞳は慌てて「しーっ!」と人差し指を立てた。
二人はこっそり他の石も運び、積み始めた。
数日後。
七夫人がやって来たときには、ただ竹と蔓が茂っているだけに見え、どこにも“出口”らしきものはなかった。
清瞳が七夫人を奥に案内すると――そこには高低様々な石が、階段のように積み上げられていた。
「……これ、清瞳が作った階段……!」
七夫人は驚いた。
二人は石段を登り、塀の上から外を覗いた。外は小さな通りと、その向こうには細い川。
誰もいないのを確認し、二人はこっそり笑いながら降りた。
「まさかこんな仕掛けがあったなんて、全然分からなかったわ!」七夫人が感心する。
「小玉と二人で、蔓を隠すのにめっちゃ苦労したんだよ」
清瞳は得意げに笑った。
屋敷に戻ると、七夫人は記憶を頼りに、宰相官邸の位置と鳳城の全体図をスケッチし始めた。
清瞳は今まで読んだ本の知識と合わせて、ようやく鳳城全体の姿を頭の中に描くことができた。
南都・鳳城は山と川に囲まれた要塞都市だ。
北には玉象山。その山中に王宮が築かれている。
東には玉緑山。そのふもとに護国公主の石翠荘園と王宮庭園。さらに向こうには果てない黒山原生林。
南は杜寧河を越えると三十の鎮があり、さらにその先に陳国。
西には平原が広がり、国境を越えれば斉国に至る。
鳳城の東の先には果てしない月海が広がる。
鳳城は三つの城門しかなく、背後は山、正面は水。攻めにくい地形だからこそ、ここが寧国の最後の砦となっている。
さらに街は四つの区に分かれ、
北西:官庁
北東:貴族・王族街
南西:庶民街
南東:商業地帯
南東は特に賑やかで、茶屋、酒場、宿屋、高級旅館、遊郭、輸出商店……何でもそろっている。
南門を出れば、川に遊覧船がひしめき合う。
――鳳城はかなり大きな町だった。
七夫人は、彼女の顔、首と両手の露出した肌を茶色に塗り、眉毛を太くするのを手伝った。清瞳は声を低く落とし、男性のように大股で歩いて見せた。清瞳は満足し、七夫人も安心したように微笑んだ。「あなたをよく知らない人なら、きっと女性だとは気づかないでしょう」
小玉は竹林の外で見張りをして、何かあれば笛で合図することになっていた。
清瞳は塀をひょいっとよじ登り、慣れた手つきで粗い麻縄の梯子を取り出して下へ降ろした。




