衝撃
ep.8 衝撃
彼のマンションで、二人で静かにワインを飲んでいた夜のことだった。ハワイの思い出話など、穏やかな時間が流れる中で、ふと、希は以前から気になっていたことを、何気ない風を装って尋ねてみた。
「そういえば、凛さん……あの、心臓の移植手術を受けられた日って、いつだったんですか?」
酔いのせいもあってか、普段なら躊躇してしまうような質問も、ぽろっと口をついて出てしまった。
林田凛は、ワイングラスをゆっくりと傾けながら、少しだけ考え込むような表情をした。夜景を映す彼の瞳は、どこか遠い場所を見ているようだった。
林田凛は、グラスをソーサーに戻し、静かに口を開いた。
林田凛の次の言葉は、希の心臓を凍りつかせた。
「……確か、その日が、僕の命を救ってくれたドナーの方が、亡くなった日だと聞きました」
彼は、静かに、けれど、はっきりと、そう言った。
「事故で、脳死状態だった、若い男性だと……」
希の全身から、一瞬にして血の気が引いていくのを感じた。3年前の6月15日。それは、透がバイク事故で亡くなった、あの日だった。
希の声は、震えていた。
「ごめんなさい……今日、帰ります」
理由を問いただすこともできず、ただ、立ち上がりたいという衝動に駆られた。頭の中が真っ白で、何も考えられない。
林田凛は、驚いた表情で希を見つめた。「え?どうしたんですか、急に」
けれど、希には、彼の言葉が耳に入らなかった。ただ、早くここから立ち去りたい。この、信じられない現実に、少しでも距離を置きたい。
足元がふらつきながらも、希は立ち上がり、自分のバッグを探した。
「本当に、ごめんなさい……また、連絡します」
そう言い残して、希は、ほとんど逃げるように彼の部屋を飛び出した。
夜の冷たい空気が、熱くなった希の頬を撫でる。けれど、心の震えは、なかなか収まらなかった。
3年前の6月15日。透が死んだ日。そして、林田凛が、新しい心臓を得た日。
そんな、ありえない偶然が、本当に起こりうるのだろうか。
夜が明け、ほとんど眠れなかった希は、憔悴しきった顔で実家を出た。向かう先は、何度も通った、透の実家だった。
インターホンを押す手が、わずかに震えている。ドアが開くと、透の母親が、優しいけれど、どこか疲れた表情で立っていた。
「希ちゃん……どうしたの、こんな朝早くに」
希は、深呼吸をして、意を決して口を開いた。
「あの……お母さん、少し、お話があります」
居間に通された希は、昨夜、林田凛から聞いた信じられない話を、慎重に、言葉を選びながら伝えた。心臓移植を受けたこと、そして、その提供者が、3年前の6月15日に亡くなった若い男性だったということ。
透の母親は、希の言葉を、静かに、じっと聞いていた。時折、目を伏せ、手を固く握りしめている。
全てを話し終えると、部屋には重い静寂が流れた。先に口を開いたのは、透の母親だった。
「そんな……まさか……」
その声は、震えていた。信じられない、というように、ゆっくりと首を横に振る。
「あの子……透が……誰かの、体の中で……まだ生きているなんて……」
目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
希は、何も言えなかった。ただ、透の母親の悲痛な表情を見つめていることしかできなかった。
「でも……提供者の方の名字は、わからないのよね?」
透の母親が、かすれた声で尋ねた。
「はい……凛さんは、名字までは、覚えていないと……」
その言葉を聞いた透の母親の顔色が、一瞬、変わったように見えた。彼女は、何かを思い出したように、小さく息を呑んだ。
「あのね、希ちゃん……透が亡くなった時……臓器提供の話があったの」
希は、ハッとした。そんな話は、今まで聞いたことがなかった。
「私たちは……最初は、どうしても受け入れられなくて……でも、病院の方から、若い方が心臓移植を待っていると聞いて……少しでも、透が生きた証が残るなら、と……」
涙が、透の母親の頬を伝った。
「そんな……」
希の体から、すべての血液が引いていくような感覚がした。まさか、そんなことが。初めて彼を見た時、心臓がドキッとしたのは、ただの恋ではなかったのか。透の心臓が、彼の体の中で、自分に反応した……?
頭の中が、激しく渦巻く。ありえない。そんな非科学的なこと。でも、あの時の、説明のつかない引力。陽向が初めて彼を「パパ」と呼んだ時の、不思議な懐き方。全てが、一つの線で繋がってしまった。
「じゃあ……私のこの気持ちは、一体何なの……?」
希は、自分の胸を押さえながら、呟いた。彼に惹かれたのは、彼の優しさや温かさだけじゃなかった?もしかしたら、もっと深い、もっと複雑な何かが、最初から二人の間に存在していた?
「最初から……この恋は、始まっていない……?」
愛しい人の心臓を持つ人と、恋をする。それは、一体どういうことなんだろう。彼の優しさは、彼自身のもの?それとも……?
混乱と衝撃で、希は立っているのがやっとだった。愛しい人の一部を宿す彼への感情は、もはや、純粋な恋愛感情とは言えないのかもしれない。
「どうしよう……」
涙が、とめどなく溢れてきた。愛しい人を失った悲しみと、予期せぬ真実に揺れる今の気持ち。ぐちゃぐちゃになって、希の心を締め付けていた。
「パート……やめよう」
希は、そう独り言ちた。
あの弁当屋は、彼との最初の接点だった。彼の好物が唐揚げ弁当だったから、彼は何度も店に足を運んでくれた。もし、あの場所で働いていなければ、二人が出会うことはなかったかもしれない。
けれど今、その場所は、彼との繋がりを思い出させる、痛ましい場所になってしまった。もう、笑顔で「いらっしゃいませ」と言う自信がない。
仕事中、ふと彼の顔が浮かんでくるたびに、胸が締め付けられる。あの優しい笑顔の裏に、別の心臓が鼓動していることを思うと、やりきれない気持ちになる。
このまま、何もなかったかのように働き続けることは、自分を偽ることだ。
陽向のためにも、自分の心の整理をつけるためにも、まずは、彼との接点を断つ必要がある。
希は、重い足取りで、店長に退職の意思を伝えることを決めた。
スマートフォンが、何度も何度も震えている。画面には、「凛」の文字が点滅している。電話の着信音も、何度も鳴り響く。
彼からのメールも、短いメッセージが何度も届いていた。
「希さん、どうしたんですか?」「何かありましたか?」「心配しています」
けれど、希は、それらの全てに応えることができなかった。
彼の声を聞くのが怖い。彼の言葉に、どう返事をすればいいのかわからない。
真実を知ってしまった今、どんな顔をして彼に会えばいいのだろう。何を話せばいいのだろう。
電話に出る勇気も、メールを開く勇気も、希にはなかった。ただ、スマートフォンを握りしめ、震える指先を見つめていることしかできなかった。
彼からの連絡が来るたびに、胸が締め付けられる。優しい彼の言葉が、今はまるで、遠い世界の音のように聞こえる。
ごめんなさい、凛さん。今は、まだ、あなたと向き合うことができません。
希は、そう心の中で呟き、着信を知らせる光を、ただ見つめ続けていた。
数日後、何気なく手に取った週刊誌の芸能欄が、希の目を釘付けにした。
大きく掲載されていたのは、林田凛の写真だった。新作ドラマの好調ぶりや、今後の活動について書かれた記事の中で、彼のプライベートに関する記述もあった。
「人気俳優・林田凛、謎のシングルマザーと熱愛か?」
見出しには、そんな刺激的な言葉が並んでいる。記事には、彼が度々、都内のお弁当屋に通っていることや、小さな子供と親しげにしている写真が掲載されていた。顔はぼかされていたものの、それが希と陽向であることは、容易に想像できた。
記事の内容は、憶測や噂話の域を出ていなかったけれど、それでも、二人の関係が公になることで、これから何が起こるのか、希は不安でたまらなかった。
これまで、ひっそりと、誰にも知られることなく育んできた、自分たちの小さな世界が、突然、 世間に晒されてしまうかもしれない。
陽向に、何か影響が出るかもしれない。林田凛の俳優としてのキャリアにも、傷がつくかもしれない。
記事を握りしめた希の手は、冷たく震えていた。どうすればいいのだろう。このまま、沈黙を守り続けるべきなのか。それとも、彼に連絡を取るべきなのか。
混乱と不安が、再び、希の心を覆い始めた。
週刊誌の記事が掲載されてから、希の心は、ますます深く沈んでいった。
眠れない夜が続き、食欲も湧かない。ただ、ぼんやりと天井を見つめている時間が増えた。陽向の世話はなんとかこなしているものの、以前のような笑顔で接することができなくなっているのを、希自身も感じていた。
パートを辞めたことで、生活への不安も募ってきた。貯金は少しあるけれど、いつまで持つかわからない。新しい仕事を探さなければならないけれど、今の希には、その気力さえ湧いてこなかった。
何よりも辛いのは、林田凛との関係が、宙ぶらりんの状態であることだった。彼からの連絡を無視し続けている罪悪感と、それでも、どう向き合えばいいのかわからないという葛藤。
あの優しい笑顔を見るたびに、胸の奥がチクチクと痛む。彼の心臓が、透のものだと知ってしまった今、彼の全てが、別の意味を持って迫ってくる。
陽向が、「リンは、いつ来るの?」と寂しそうに尋ねるたびに、希の心は 張り裂けそうになる。真実を話すこともできず、曖昧な言葉でごまかすことしかできない自分が、情けなかった。
心も体も、鉛のように重く、希は病んでいくのを感じていた。このままでは、大切な陽向まで、不幸にしてしまうかもしれない。そう思うと、ますます 自分を責めてしまうのだった。
「このままじゃ、だめだ」
希は、乾いた唇を噛みしめ、そう呟いた。
暗く沈んだ部屋の中で、窓から差し込む微かな光が、彼女の憔悴した横顔を照らしている。何日もまともに眠れていないせいで、目はうつろで、頬はこけていた。
このままでは、本当に心も体も壊れてしまう。そして、何よりも、大切な陽向を悲しませてしまう。あの子の笑顔を守りたい。そのためには、自分が立ち直らなければ。
彼との関係をどうするのか、まだ明確な答えは見つからない。けれど、このまま逃げ続けているわけにはいかない。いつかは、向き合わなければならない時が来るだろう。
まずは、自分の心と体を立て直すこと。そして、陽向のために、しっかりと前を向いて生きること。
希は、ゆっくりとベッドから起き上がった。重い足取りで洗面所へ向かい、鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。ひどく疲れた顔をしている。
「大丈夫……私は、大丈夫」
小さな声で自分に言い聞かせると、希は、冷たい水で顔を洗った。
洗い終わった顔を拭き、ぼんやりとリビングに戻ると、スマートフォンが静かに光っていた。画面には、またしても「凛」の文字。
開くと、短いメッセージが一件だけ表示されていた。
「希さん、どうしても、あなたに会って話したいことがあります。いつなら、少しでも時間がありますか?」
そのシンプルな言葉が、希の胸に重く響いた。彼の声が、まるで目の前で聞こえるようだ。
会いたい……。彼も、同じように苦しんでいるのだろうか。週刊誌の記事のことも、きっと知っているはずだ。
このまま逃げ続けるのは、もう限界なのかもしれない。いつかは、彼と向き合って、全てを話さなければならない。
けれど、まだ、心の準備ができていない。彼に会って、一体何を話せばいいのだろう。
指先が震えながら、希はメッセージを閉じた。返信することができなかった。
憔悴しきった日々から抜け出すため、希は少しずつ行動を起こし始めた。まずは、生活を立て直すこと。インターネットで求人情報を探し、近所のカフェのパートに応募した。以前のお弁当屋とは違う、明るく落ち着いた雰囲気の場所だった。
面接は緊張したけれど、店長は優しく、すぐに採用が決まった。新しい環境に身を置くことで、希の心にも、少しずつ変化が訪れ始めた。
新しい仕事は忙しかったけれど、適度な運動になり、少しずつ食欲も戻ってきた。何よりも、新しい同僚との他愛ない会話が、希の心をわずかに軽くしてくれた。
陽向も、ママの変化を感じ取ったのか、以前よりも笑顔を見せる時間が増えた。保育園での出来事を、楽しそうに話してくれる陽向の姿を見るのが、希にとって何よりの励みになった。
新しいパート先から帰る道、見慣れない街の風景が、どこか新鮮に感じられた。過去にとらわれず、陽向と二人で、新しい生活を築いていこう。希は、そう心に誓った。
林田凛からの連絡は、相変わらず続いていたけれど、まだ、会う勇気はなかった。ただ、彼のメッセージを読み返すことで、彼の存在が、心の片隅で、小さな光のように灯っているのを感じていた。
新しい生活を始めてから、数週間が経った。カフェの仕事にも慣れ、少しずつ笑顔を取り戻せるようになってきた希。けれど、どうしても忘れられない日が近づいていた。透の月命日だ。
その日の朝、希はいつもより少し早く起きて、花屋に向かった。透が好きだった白い花束を選び、丁寧に包んでもらう。陽向を保育園に送った後、希は一人、透の眠る場所へと足を運んだ。
墓石の前には、すでに新しい花が供えられていた。透の両親だろうか。希は、静かに花束を供え、手を合わせた。
「透……元気にしてる?」
心の中で、そう問いかけた。もう、彼の声を聞くことはできないけれど、こうして手を合わせることで、ほんの少しでも繋がっていられるような気がした。
しばらく、静かに佇んでいると、背後から優しい声が聞こえた。
「希ちゃん」
振り返ると、透の母親が、少しやつれた表情で立っていた。
「おはようございます、お母さん」
「おはよう。やっぱり、来てたのね」
二人は、並んで墓石を見つめた。風が、そっと吹き抜けていく。
「凛さんから、連絡はあった?」と、透の母親が、 希に尋ねた。
希は、少しだけ俯いた。「はい……何度か。でも、まだ、会えていません」
「そう……無理しなくていいのよ。希ちゃんの気持ちが、落ち着くまで」
優しい言葉が、胸に染みた。
「でも……いつかは、話さなきゃいけないと思っています」と、希は顔を上げた。「透のことも、凛さんのことも……」
透の母親は、静かに頷いた。「そうね。それが、一番いいのかもしれないわね」
二人は、しばらく言葉もなく、墓石を見つめていた。それぞれの心の中で、様々な思いが交錯しているようだった。
帰り際、透の母親は、希の手にそっと触れた。「希ちゃん……あなたは、あなたの幸せを考えていいのよ。透も、きっとそう願っているわ」
その言葉に、希の目から、一筋の涙がこぼれた。