憧れのハワイ
ep.7 憧れのハワイ
人気俳優となった林田凛の仕事は、さらに多忙を極めるようになった。
これまでも撮影で家を空けることはあったけれど、その頻度と期間が、目に見えて増えていった。
「ごめんね、希さん。今度のドラマのロケで、しばらく大阪に行くことになったんだ」
電話越しに聞こえる彼の声は、少し疲れているようだった。
「そう……。どのくらい?」
希が尋ねると、彼は少し言い淀んだ。
「今回は、1ヶ月くらいになるかもしれない……」
1ヶ月。それは、これまでで一番長い期間だった。
陽向は、まだ3歳になったばかり。パパである林田凛がいない生活は、少し寂しがるだろう。希自身も、彼のいない毎日に、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになるのを覚えた。
もちろん、彼の仕事が大切だということは理解している。彼の夢であり、生きがいなのだから。それでも、一緒に過ごす時間が減っていくことに、言いようのない不安を感じてしまうのも事実だった。
大阪へ出発する日、陽向は、まだよくわかっていないながらも、少し寂しそうな顔で林田凛に抱きついていた。
「リン、いかないで」
その小さな声が、希の胸に突き刺さる。
「すぐ帰ってくるからな」と、林田凛は優しく陽向を抱きしめ返し、そして、少し寂しそうな笑顔で希に言った。
「行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい。無理しないでね」
ドアが閉まり、静かになった部屋で、希は、陽向の手を握りしめた。二人の、少し心細い日々が、また始まる。
大阪へ行ってからというもの、林田凛がお弁当屋に顔を出すことはなくなった。
以前は、忙しい合間を縫って、必ず週に二度来てくれていたのに。
希は、彼の身を案じながらも、それが彼の今の日常なのだろうと、自分に言い聞かせていた。ドラマの撮影は、想像以上に過酷なのかもしれない。
パートのおばちゃんたちも、彼の姿を見かけなくなったことに気づいている。
「あれ?凛ちゃん、最近見ないわね」 「忙しいんじゃないの?人気俳優さんだもん」
そんな会話を、希はただ、曖昧な笑顔でやり過ごすしかなかった。
彼のいないお弁当屋は、どこか寂しく感じられた。いつものように「いらっしゃいませ」と声をかけても、あの優しい笑顔が返ってくることはない。
時折、スマートフォンに彼のメッセージが届く。「撮影、順調だよ」「陽向くん、元気にしてる?」。短い言葉だけれど、それが、遠く離れた彼との、細いけれど大切な繋がりだった。
それでも、顔を見て話したい、声を聞きたいという気持ちが募る。特に、陽向が「リンは?」と寂しそうに尋ねるたびに、希の胸は締め付けられた。
(早く、帰ってきてほしいな……)
希は、今日もまた、空になったお弁当の容器を洗いながら、遠い大阪の空を見上げた。
大阪でのロケが終わっても、林田凛の忙しさは変わらなかった。
次のドラマの準備、雑誌の取材、バラエティ番組への出演……彼のスケジュールは、分刻みと言ってもいいほどだった。
希と陽向が住む家に戻ってこられるのは、月に数日程度。それも、短い滞在で、すぐにまた次の仕事へと飛び立っていく。
会える時間は、以前に比べて格段に減ってしまった。電話やメッセージでのやり取りは続けているものの、顔を見て話す機会は、本当に貴重になった。
陽向は、「リン、いつくるの?」と、しょっちゅう尋ねるようになった。希は、「もうすぐだよ」と答えるけれど、その「もうすぐ」がいつなのか、自分にもわからなかった。
希自身も、彼の不在に、寂しさを募らせていた。一緒に過ごす時間の中で育んできた温かい日々が、遠い幻のようになっていくような気がした。
すれ違いの生活が続く中で、二人の間には、目に見えないけれど、少しずつ距離が生まれているのかもしれないと感じることもあった。忙しい彼に、自分の寂しさをぶつけるのは違うと思うけれど、心の中には、言いようのない不安が広がっていく。
それでも、希は、彼を信じようとしていた。彼の夢を応援したい。けれど、母親として、陽向の父親代わりを求める気持ちも、また、確かに存在していた。
もどかしい日々が、静かに過ぎていった。
そんなすれ違いの日々が続いていた、ある日のことだった。
夜遅く、スマートフォンが鳴った。画面には「凛」の文字。
「もしもし」
疲れた声が聞こえてくるだろうと思っていた希の耳に届いたのは、どこか明るく、弾んだ声だった。
「希さん、あのね、急なんだけど、少し休暇が取れそうなんだ」
「え?本当?」
思わず、希の声も明るくなった。久しぶりに聞く、嬉しそうな彼の声に、胸が高鳴る。
「うん。来週から、1週間くらいだけど。よかったら、どこか行かない?」
彼の言葉に、希の心は一気に華やいだ。久しぶりに、3人でゆっくりと過ごせる時間ができる。陽向も、きっと大喜びするだろう。
「本当?嬉しい!どこに行こうか?」
「陽向くんが行きたいところ、あるかな?それとも、希さんが行きたいところでも」
彼の優しい言葉に、希の胸は温かくなった。すれ違いの日々の中で、少しだけ不安になっていた心が、彼のこの一言で、ぱっと明るくなった気がした。
久しぶりの家族の時間。どんな楽しい思い出を作ろうか。希は、 電話を握りしめながら、わくわくする気持ちを抑えきれなかった。
コバルトブルーの海と、どこまでも続く白い砂浜が、目の前に広がっている。椰子の木がそよそよと風に揺れ、南国特有の甘い香りが、 刺激を満たしていた。
「わあー!すごいね、ママ!」
陽向は、目をキラキラと輝かせ、裸足で砂浜を駆け出した。その後を、嬉しそうな笑顔の林田凛が追いかける。
希は、そんな二人を、日差しを遮る帽子を目深にかぶりながら、穏やかな気持ちで見つめていた。
「本当に、着いたんだなあ……」
長いフライトだったけれど、目の前のこの景色を見れば、疲れなんて吹き飛んでしまう。
「希さん、こっちにおいでよ!海、すごく綺麗だよ!」
少し離れた波打ち際で、林田凛が手を振っている。陽向も、「ママも一緒に遊ぼう!」と、小さな手を伸ばしている。
希は、ゆっくりと立ち上がり、二人の方へ歩き出した。足元に広がる温かい砂の感触が、心地いい。
「うん、行く!」
久しぶりの3人での旅行。言葉なんてなくても、ただ一緒にこの景色を見ているだけで、心が満たされていくようだった。
今日から始まるハワイでの時間。思いっきり楽しもう。希は、そう心の中で呟き、陽向と林田凛の笑顔に向かって、歩みを速めた。
常夏の島、ハワイの開放的な雰囲気は、林田凛にとって、日本での忙しい日々や、常に人目を気にする生活から解放される、貴重な時間だった。
日本では、どこへ行ってもすぐに気づかれ、プライベートな時間をゆっくりと過ごすことは難しかった。けれど、ここハワイでは、異国ということもあり、彼のことを知る人はほとんどいない。
その解放感からか、彼はまるで少年のように、思い切り羽を伸ばして遊んでいた。
陽向を肩車して砂浜を走り回ったり、一緒に浮き輪でプカプカと海に浮かんだり。子供用のバケツとシャベルを手に、砂のお城作りに夢中になる姿もあった。
希は、そんな彼の無邪気な笑顔を、微笑ましく見守っていた。普段は、どこか 週刊誌に気を配っている彼が、ここでは、ただ一人の父親として、陽向と心ゆくまで触れ合っている。
「リン、見て!おっきい貝殻見つけた!」
陽向が、宝物のように貝殻を差し出すと、林田凛は目を輝かせて、「すごいね!」と褒めてあげる。そのやり取りは、どこにでもいる、普通の父親と息子の風景だった。
夜は、ホテルのプールサイドで、3人でアイスクリームを食べながら、今日あったことを話した。林田凛は、陽向の面白い言動に、 बड़े声で笑い、希も、そんな彼の笑顔を見ていると、心が温かくなった。
ハワイの太陽の下、彼は、人気俳優という仮面を脱ぎ捨て、ただの優しい父親、そして、希の愛する男性として、かけがえのない時間を過ごしていた。希は、そんな彼の姿を、心にしっかりと焼き付けようとしていた。
ハワイの開放的な雰囲気の中、夜は3人で同じベッドに横になることが多かった。
陽向は、真ん中でスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。その両脇で、希と林田凛は、静かに寄り添い、一日の疲れを癒やしていた。
日本では、林田凛の仕事の都合や、世間の目を気にして、なかなかゆっくりと二人きりで眠るということができなかった。けれど、ここハワイでは、誰に遠慮することもなく、自然な形で、お互いの温もりを感じながら眠ることができる。
陽向の小さな寝息を聞きながら、希は、隣にいる林田凛の優しい横顔を見つめた。彼の存在が、今はもう、当たり前のものになっている。
「疲れたね」と、小さな声で希が言うと、林田凛は、眠そうな目を少し開けて、優しく微笑んだ。
「うん。でも、こうして二人と一緒だと、疲れも吹き飛ぶよ」
そう言って、彼はそっと希の手を握り返した。その温かさが、希の心にじんわりと広がっていく。
言葉はなくても、お互いの存在を感じているだけで、安心感に包まれる。
陽向の寝顔を挟んで、二人は静かに目を閉じた。遠い異国の地で、3つの温かい鼓動が、穏やかな夜を共有していた。
ハワイでの時間は、あっという間に過ぎた。
青い空の下、どこまでも広がる海と砂浜を満喫し、美味しい南国の料理を味わい、陽向の無邪気な笑顔に、二人の心も満たされた。林田凛は、普段の忙しさを忘れ、父親として、恋人としての時間を、たっぷりと希と陽向と分かち合った。
最終日、空港に向かう車の中で、陽向は少し寂しそうな顔をしていた。「また、リンと海で遊びたいな」
「うん、きっとまた来ようね」と、林田凛は優しく陽向を抱きしめた。
日本に戻ると、いつもの慌ただしい日常が待っている。林田凛は、すぐに仕事に戻り、希も、パートと育児に追われる日々を送る。
けれど、ハワイでの温かい思い出は、二人の心を繋ぎ、日々の活力となるだろう。あの解放的な空間で、遠慮なく愛を育み、家族としての絆を深めることができたかけがえのない時間。
空港の喧騒の中、希は、隣を歩く林田凛の手をそっと握った。言葉はなくても、お互いの気持ちは通じ合っている。
「ただいま」
日本の湿った空気を吸い込みながら、希は心の中で呟いた。ハワイでの思い出を胸に、また、3人で新しい日々を歩んでいこう。