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幸せな毎日

ep.6 幸せな毎日


朝、陽の光が差し込む中で目を覚ますと、隣には穏やかな寝顔の林田凛がいた。その横顔を見ていると、昨夜の出来事が、まるで夢のようにも感じられる。

でも、確かに、彼はここにいる。

希は、そっと体を起こし、彼の寝顔を愛おしそうに見つめた。新しい朝が、静かに始まろうとしていた。

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、林田凛の寝顔を照らした。ふと、彼の胸元に目が留まった希は、息を呑んだ。

彼の白い肌には、生々しい、大きな傷跡が走っていたのだ。それは、何か鋭利なもので深く切りつけられたような、痛々しい痕だった。

昨夜は、彼の服を着ていたため、全く気づかなかった。

「……え?」

希は、思わず手を伸ばし、その傷跡に触れようとした。指先が触れる寸前で、ハッとして止める。

どういうことだろう?

俳優という仕事柄、アクションシーンなどで怪我をすることもあるかもしれない。けれど、これは、そんな軽い傷ではないように見える。何か、もっと深刻なことがあったのではないか。

疑問と、言いようのない不安が、希の胸に広がっていく。昨夜の甘い時間は、まるで幻だったかのように、現実が冷たく突きつけられた気がした。

彼の過去に、一体何があったのだろう?

眠っている彼の顔を見つめながら、希は、胸の奥に湧き上がってきた大きな問いに、言葉を失っていた。

朝日の中で浮かび上がった痛ましい傷跡。希の心には、様々な憶測が渦巻いた。

何かの病気の痕だろうか?手術の跡?

けれど、その形状は、病気というよりは、やはり何か外的な要因によるもののように見える。深く、そして、長い。

もし手術の跡だとしたら、一体、何の病気だったのだろう。そして、なぜ彼は、そんなことを今まで話さなかったのだろうか。

昨夜、あんなに心を通わせたと思ったのに、彼の過去には、まだ自分が知らない大きな秘密が隠されているのかもしれない。

不安が、静かに希の心を蝕んでいく。彼のことをもっと知りたい。彼の過去に何があったのか、知りたい。そして、もし彼が何かを抱えているのなら、少しでも力になりたい。

眠る彼の横顔を見つめながら、希は、そっと心の中で呟いた。

「……ねえ、凛さん。それは、一体……」

問いかけても、答える声はない。ただ、静かに朝の光が、彼の傷跡を照らしているだけだった。

静かに見つめていると、林田凛の長い睫毛がゆっくりと持ち上がった。彼は、まだ少し眠そうな目を擦りながら、希の方を見た。

「おはようございます」

かすれた、優しい声が、朝の静かな部屋に響く。

「おはよう……ございます」

希は、少し緊張しながら、そう返した。彼の胸の傷跡のことを、どう切り出せばいいのか、迷っていた。

林田凛は、体を起こし、伸びをした。その拍子に、胸元の傷跡が、一瞬、露わになる。

彼は、それに気づいたのだろうか。何気ない素振りで、パジャマの襟元を少し合わせた。

「よく眠れましたか?」

彼は、いつものように優しい笑顔で、そう尋ねてきた。

希は、彼のその態度を見て、さらに言葉に詰まってしまった。彼は、この傷跡について、触れてほしくないのだろうか。

どうしよう……。

心の中で葛藤しながら、希は、ぎこちなく微笑み返した。

「はい……おかげさまで」

あの夜のことが、二人の間に特別な空気をもたらしたことは確かだった。けれど、日常は変わらず続いていく。

林田凛は、以前と変わらず、週に二回ほど、お弁当を買いにやってきた。いつも唐揚げ弁当を一つ。

顔を合わせれば、優しく微笑みかけ、短い言葉を交わす。けれど、あの胸の傷跡のことや、あの夜のことについて、特に触れることはなかった。

希もまた、彼のプライベートなことに、軽々しく踏み込むべきではないと感じていた。ただ、彼の姿を見るたびに、胸の奥には、ほんの少しの気がかりが残っていた。

パートのおばちゃんたちは、相変わらず二人の様子を面白がっている。

「あら、今日もいらっしゃったわね、凛ちゃん」 「希ちゃん、なんだかますます綺麗になったんじゃない?」

そんな言葉に、希はただ照れ笑いをするしかなかった。

林田凛が店を後にすると、希は、彼の去っていったドアを、ほんの少しだけ見つめるのだった。あの傷跡は、一体何を物語っているのだろうか。いつか、彼が話してくれる日が来るのだろうか。

そんなことを考えながら、今日もまた、次のお客さんの注文を聞くために、笑顔を作った。

あれから一ヶ月が過ぎた。

林田凛は、相変わらず週に二度、お弁当屋に顔を見せる。二人の間に流れる空気は、以前よりも少しだけ親密さを増したように感じる。時折、ほんの少しだけ、プライベートな話も交わされるようになった。好きな映画の話、最近読んだ本のこと。けれど、彼の胸の傷跡については、まだ触れられることはなかった。

希は、無理に聞き出すようなことはしなかった。彼が話したいと思った時に、話してくれるだろうと信じていた。

陽向は、相変わらず林田凛のことが大好きで、彼が来ると「リン!」と嬉しそうに駆け寄っていく。林田凛も、いつも優しく陽向の頭を撫でたり、簡単な遊びをしたりしてくれる。

3人で過ごす週末も、月に何度かあった。公園に行ったり、少し遠出して水族館に行ったり。陽向の笑顔を見るたびに、希は、この穏やかな時間がずっと続けばいいと願うのだった。

ただ、ふとした瞬間に、彼の胸の傷跡が、希の心に影を落とすことがあった。彼の過去に何があったのだろう。彼は、何かを抱えているのだろうか。

それでも、希は、今のこの優しい時間を大切にしたいと思っていた。彼が、いつか、心を開いて話してくれる時を、静かに待とうと。

彼は神妙な面持ちでいった。「僕一度死んでる、心臓移植で助かったんだ。」

そんな過去を背負っていたなんて。

希は、目の前の優しい彼が、一度死の淵をさまよい、そして、誰かの命によって再び生を得たのだという事実に、深く心を揺さぶられていた。

言葉が見つからない。

「……辛かったでしょう」

ようやく、絞り出すように、そう言った。

林田凛は、少しだけ首を横に振った。「辛かったのは、家族や、ドナーの方だと思います。僕は……ただ、生きたいと、それだけを思っていました」

彼の言葉は、静かだけれど、強い意志を感じさせた。

「教えてくれて、ありがとうございます」

希は、そう言って、そっと彼の手に触れた。彼の過去を知ったことで、彼がより一層、大切な存在に感じられた。

「あの……その」

希は、少し躊躇いながら、ずっと気になっていたことを口にした。

「陽向が、初めてあなたに会った時……パパって言ったんです。あれは、ただの子供の勘違いだと思っていたんですけど……何か、理由があるんでしょうか?」

林田凛は、少し驚いたように目を見開いた。そして、何かを思い出すように、遠い目をした。

「そうでしょうね。 きっと、ご家族もいらっしゃったはずです。どんな方だったのか、お会いしてお礼を言えたら……と、何度も思いました」

彼の声には、深い感謝と、ほんの少しの悲しみが滲んでいた。

希は、陽向の小さな手をそっと握りしめた。まだ幼い息子には、この複雑な繋がりを理解することはできないだろう。けれど、いつか、話してあげられる日が来るかもしれない。

「……不思議ですね」と、希はもう一度呟いた。「陽向が、初めてあなたに会った時、まるで何かを感じ取ったみたいに……」

林田凛は、静かに微笑んだ。「僕も、そう思います。もしかしたら、本当に、何か特別な繋がりがあるのかもしれません」

二人の間には、言葉はなく、ただ、静かで、けれど、温かい空気が流れていた。遠い誰かの命が、こうして、巡り巡って、自分たちの今に繋がっている。そんな不思議な縁を感じていた。

林田凛の、誰にも言えなかった過去を知った希は、改めて、今こうして隣にいてくれる彼の存在を、かけがえのないものだと感じていた。彼の背負ってきたもの、そして、それでも前を向いて生きようとしている強さに、心惹かれる思いが募った。

日々の育児とパートは、相変わらず忙しいけれど、彼のことを想う時間が、希の心をそっと支えてくれるようになった。週末に会える日を、楽しみに毎日を過ごす。陽向も、林田凛との時間を心待ちにしている。

そんなある日、実家に顔を出した希に、母親が少し遠慮がちに声をかけた。

「希……あのね、最近、なんだか楽しそうだね。もしかして……誰か、好きな人ができたの?」

母親の優しい問いかけに、希は少しドキッとした。隠しているつもりはなかったけれど、改まって話すのは、少し照れくさい。

「えっと……まあ……」

希が言葉を濁すと、母親は、心配そうな、でもどこか期待するような眼差しで、希の顔を覗き込んだ。

「どんな人なの?よかったら、話して聞かせてくれる?」

希は、少し迷ったけれど、母親に話してみようと思った。彼の過去も含めて、全てを話すにはまだ勇気がいるけれど、彼の存在を伝えるだけでも、母親はきっと喜んでくれるだろう。

ゆっくりと、希は口を開き始めた。

希は、少し照れたように微笑みながら、母親に話し始めた。

「うん。あのね、すごく優しくて、本当にいい人なの」

母親は、目を細めて、続きを促した。

「へえ、どんな風に優しいの?」

「一緒にいると、すごく落ち着くんだ。私のことや、陽向のことも、いつも大切に思ってくれるし……」

言葉を選びながら、希は、林田凛の穏やかな人柄や、陽向に優しく接してくれる様子を伝えた。

母親は、うんうんと頷きながら、熱心に耳を傾けている。

そして、少し躊躇いながら、希は彼の職業を口にした。

「あの……仕事は、俳優をしているの」

その言葉に、母親は少し驚いたように目を見開いた。

「俳優さん?テレビに出るような?」

「うん。でも、全然偉ぶったところがなくて、すごく普通の人なの」

希は、慌てて付け加えた。母親が、華やかな世界の人というイメージで、心配するのではないかと思ったからだ。

母親は、少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。

「そう……。あなたが、そんな風に思える人ができたのなら、お母さんは嬉しいわ。辛いこともたくさんあったでしょうから……」

母親の優しい言葉に、希の胸が熱くなった。

「ありがとう、お母さん」

まだ、彼の過去のことは話せなかったけれど、彼の存在を母親に伝えることができて、少しだけ心が軽くなった気がした。

彼から着信。

「あの……もし、ご迷惑でなければ、今度、ご両親にご挨拶させていただけませんか?」

電話越しに聞こえる彼の声は、少し緊張しているようだったけれど、真剣だった。

希は、驚きと、そして、彼の誠意に、胸が熱くなった。まだ、彼の過去について、両親に話すかどうか迷っていたけれど、彼の気持ちに応えたいと思った。

「ありがとう、凛さん。両親も、きっと喜んでくれると思います」

そう答えると、電話の向こうで、彼の安堵したような声が聞こえた。

そして、週末、林田凛は、少し緊張した面持ちで、希の実家を訪れた。

両親は、彼の礼儀正しい態度と、穏やかな人柄に、すぐに好印象を持ったようだった。彼は、自分の仕事のこと、そして、希と陽向のことを、真摯な言葉で語った。

夕食を囲みながら、和やかな時間が流れた。陽向も、いつものように「リン!」と彼に抱きつき、楽しそうに遊んでいる。

その光景を、希は温かい気持ちで見守っていた。

夕食後、林田凛は、改めて希の両親に向き直り、深々と頭を下げた。

「希さんと、陽向くんを、大切にしたいと思っています。もしよろしければ、僕に、お二人の未来を一緒に歩ませていただけないでしょうか」

彼の真剣な言葉に、父親は静かに頷き、母親は、目頭を少し赤くしていた。

こうして、希と林田凛の新たな関係は、家族の祝福を受け、温かく、そして、ゆっくりと、その歩みを始めたのだった。

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