優しいキス
ep.5 優しいキス
今日も、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
いつものように声を上げた希の目に飛び込んできたのは、やはり、林田凛の姿だった。
確かに、今日の彼は、いつもと少し雰囲気が違っていた。どこか落ち着かない様子で、少しだけ周囲を気にしているようにも見える。
「今日は、唐揚げ弁当を一つ、お願いします」
いつものように注文を受けた希は、「はい、少々お待ちください」と応じ、手際よく弁当の準備に取り掛かった。
唐揚げを揚げ、ご飯をよそい、おかずを詰める。その間、林田凛はカウンターの前で、少し所在なさげに立っていた。
いつもなら、壁のメニューを眺めていることが多い彼が、今日は、時折、希の方に視線を向けてくる。
弁当ができるまでのほんの短い時間。
林田凛は、意を決したように、少しだけ声を潜めて話しかけてきた。
「あの……少し、お話しても、大丈夫ですか?」
「少しなら……」
希は、戸惑いながらも、小さく頷いた。
林田凛は、少し緊張した面持ちで、しかし、真剣な眼差しで希を見つめた。
「あの……もし、よろしければ、連絡先を教えていただけませんか?」
その言葉に、希の心臓は、再び大きく跳ね上がった。決して、悪い印象ではない。むしろ、まるで恋をしている時のように、胸がドキドキと高鳴る。
「え……」
「もちろん、ご迷惑でしたら、無理強いはしません。ただ、もし、お時間があれば、お話してみたいと思ったんです」
彼の言葉は、とても丁寧で、誠実だった。
希は、少しだけ考えた。彼は、有名な俳優さんだ。多忙な毎日を送っているはず。そんな彼が、なぜ、自分に……。
「あの……私、火曜日のお昼なら、少しだけ時間が空いているのですが……それでも、いいんですか?」
希は、少し不安げに尋ねた。
「俳優さんなのに……」
そう呟いた言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
そうして始まった、希にとっての特別な火曜日。
育児とパートに追われる慌ただしい毎日の中で、火曜日のお昼の時間は、まるで別世界のように、ゆっくりと流れた。
初めて会った火曜日、指定されたのは、お弁当屋から少し離れた、静かなカフェだった。緊張しながら店に入ると、窓際の席に、少し照れたように微笑む林田凛がいた。
「お待たせしてすみません」
彼の優しい声に、希の張り詰めていた気持ちが、少しだけ解れる。
それから、毎週火曜日のお昼、二人は短い時間ではあるけれど、会って話をするようになった。林田凛は、テレビで見せるキラキラとした姿とは違い、とても穏やかで、物腰の柔らかい青年だった。仕事のこと、好きな映画や音楽のこと、他愛ない日常のこと。話しているうちに、希は彼の飾らない人柄に、 धीरे धीरे 心惹かれていった。
陽向の話もよくした。林田凛は、陽向の写真を見るたびに、「可愛いですね」と優しい笑顔を見せてくれた。いつか、陽向にも会ってみたいと言ってくれたこともあった。
火曜日の短い時間は、希にとって、日々の疲れを忘れさせてくれる、かけがえのない時間となっていった。会うたびに、胸のドキドキは増していく。まるで、干上がっていた心に、ゆっくりと水が染み込んでいくように。
(まさか、私が、あの俳優さんと……)
夢のような、でも、確かに現実に起こっている出来事に、希はまだ少し戸惑いを覚えていた。
火曜日のお昼の時間は、希にとってかけがえのないものになっていたけれど、林田凛は人気俳優だ。当然、彼のスケジュールは常に多忙を極めていた。
ドラマの撮影が立て込んだり、地方へのロケが入ったりすると、火曜日のランチの約束は、急にキャンセルになることも少なくなかった。
「ごめんね、希さん。どうしても抜けられなくなっちゃって」
電話越しに聞こえる彼の声は、いつも申し訳なさそうで、希もそれを理解していた。彼の仕事は、彼の人生そのものなのだから。
会えない日が続くと、希は少し寂しい気持ちになったけれど、それでも、たまに会える火曜日の時間を、大切に想うようになった。忙しい合間を縫って、自分のために時間を作ってくれる彼の気持ちが、何よりも嬉しかった。
連絡は、途絶えることはなかった。短いメールやメッセージのやり取りではあったけれど、彼の優しい言葉や、時折送られてくる撮影の合間の写真が、希の心を温かくした。
(彼は、本当に忙しいんだ)
そう思うと、なかなか会えないことへの寂しさよりも、彼の頑張りを応援したいという気持ちの方が強くなった。
いつ会えるかわからないけれど、また会える日を、心待ちにしている。それが、今の希の、穏やかな願いだった。
そんな、会えない時間も経て、ある火曜日のお昼のことだった。
いつものカフェで向かい合って座り、他愛ない話をしている時、林田凛は、少しだけ真剣な表情になった。
「希さん」
彼の声のトーンが、いつもと違うことに、希はドキッとした。
「あの……もし、よろしければ、僕と、正式にお付き合いしていただけませんか?」
彼の言葉は、ストレートで、けれど、とても誠実だった。
カフェの柔らかな光の中で、彼の瞳が、少し緊張したように揺れている。
希は、驚きと、そして、胸いっぱいの喜びに、言葉を失った。まさか、彼から、そんな言葉をかけてもらえるなんて、夢にも思っていなかったから。
心臓が、トクン、トクンと、大きく脈打っているのがわかる。顔が熱くなるのを感じた。
「私……と……?」
ようやく、絞り出すように、そう問い返した。
林田凛は、優しく微笑んだ。「はい。希さんと、もっと一緒にいたいと思っています」
彼のその言葉に、希の胸の奥に、温かいものがじんわりと広がっていくのを感じた。戸惑いや不安がないわけではないけれど、それ以上に、彼の隣にいられることへの喜びが、溢れてきた。
ゆっくりと、けれど、はっきりと、希は頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
その言葉を聞いた林田凛の顔に、ぱっと、安堵と喜びの笑顔が広がった。
育児とパートの合間に始まった、ささやかな火曜日の出会いは、こうして、新たな始まりを迎えたのだった。
「今度土日に子供と公園行きませんか?」
彼の顔が、ぱあっと明るくなった。
「本当ですか!ぜひ、行きましょう。陽向くんも喜びますよね、きっと」
彼は、嬉しそうに身を乗り出した。
「土曜日と日曜日、どちらがご都合よろしいですか?僕は、今のところ、どちらも大丈夫です」
希は、少し考えて答えた。
「そうですね……土曜日の方が、ゆっくりできるかもしれません。陽向も、午前中からたっぷり遊べると思います」
「わかりました。じゃあ、土曜日にしましょう!何時頃がいいですか?どこか、陽向くんが好きそうな公園はありますか?」
彼の声は、子供のようにワクワクしている。
「ありがとうございます」希は、微笑んだ。「じゃあ、午前中の早い時間に、近くの遊具がたくさんある公園はどうでしょう?陽向、滑り台が大好きなんです」
「いいですね!じゃあ、土曜日の午前10時に、その公園の入り口で待ち合わせ、ということで」
「はい、お願いします」
希の心は、温かい期待で満たされていた。大好きな人と、愛しい息子と、一緒に過ごす初めての週末。どんな楽しい一日になるだろうか。
「楽しみだなあ」と、林田凛は、本当に嬉しそうに呟いた。
週末の公園は、たくさんの家族連れで賑わっていた。陽の光が降り注ぐ中、陽向は新しい遊具を見つけては、目を輝かせて駆け出していく。
その少し後ろを、林田凛が優しい笑顔で見守っている。時折、陽向に合わせて屈みこみ、目線を同じ高さにして話しかけたり、一緒に滑り台を滑ったりしている。
希は、少し離れたベンチに腰掛け、その様子を穏やかな気持ちで見つめていた。
陽向は、初めて会った時から、なぜか林田凛に懐いていた。 陽向も、「リン!」と彼の名前を呼んで、楽しそうに遊んでいる。林田凛も、子供好きなのか、陽向の相手を根気よくしてくれている。
二人が笑い合う姿を見ていると、希の胸にじんわりとした温かいものが広がっていく。
透がいなくなってから、陽向と二人だけの毎日だった。もちろん、それはそれで大切な時間だったけれど、こうして、もう一人、温かい眼差しを向けてくれる人がいるというのは、どこか心強いものだ。
陽向の無邪気な笑顔と、林田凛の優しい眼差しが重なる瞬間を見るたびに、希は、ささやかな幸せを感じていた。
(ああ、こうして、二人で笑い合えるって、本当にいいな)
風が、公園の木々を揺らし、子供たちの歓声が響いてくる。その音色は、希の心に、静かに染み渡っていくようだった。
公園での楽しい一日をきっかけに、林田凛と希、そして陽向の3人で過ごす時間が増えていった。彼の仕事の合間を縫って、週末には公園に行ったり、動物園を訪れたり、時には希の家で一緒にご飯を食べたり。
陽向は、すっかり林田凛に懐き、「リン!」と呼んで、いつもべったりだ。林田凛も、陽向の無邪気な笑顔が好きなようで、いつも優しく接してくれた。
希にとって、この半年は、まるで夢のようだった。まさか、自分が、あの時の見知らぬ俳優さんと、こんな風に家族のような時間を過ごせるようになるなんて。
林田凛は、多忙な毎日の中でも、いつも希と陽向のことを気遣ってくれた。疲れているはずなのに、陽向のために一生懸命遊んでくれたり、希の仕事の都合に合わせて時間を作ってくれたり。
彼の優しさに触れるたびに、希の心は温かくなり、失いかけていた笑顔を取り戻していった。
陽向が寝静まった後、二人でゆっくりと話す時間も、希にとって大切なものだった。彼の仕事の話、子供の頃の夢、未来のこと……。飾らない言葉で語り合ううちに、二人の距離はますます近づいていった。
公園で3人でシャボン玉を飛ばした日のこと。動物園で陽向が初めてライオンを見て興奮した顔。家で一緒に作った少し焦げ付いたホットケーキ。そんな、何気ない日常の風景が、希の心に、温かい光を灯してくれた。
(こんな日が、ずっと続けばいいのに)
希は、時折、そう願うようになっていた。失われた時間を取り戻すように、ゆっくりと、でも確かに、幸せが彼女の心に根を下ろし始めていた。
穏やかな日々が続く中で、希の心には、ある思いが募り始めていた。
林田凛は、いつも自分の都合に合わせて時間を作ってくれる。忙しい合間を縫って、陽向と自分のために、たくさんの笑顔と温かい時間を与えてくれる。
けれど、彼の仕事は本当に大変だ。連日の撮影や取材で、疲れているはずなのに、いつも笑顔で接してくれる。
(このままだと、彼にばかり負担をかけてしまうかもしれない)
希は、そう思うようになった。自分からも、何か彼の喜ぶことをしたい。彼との関係を、もっと対等なものにしたい。
そんな思いを抱えていた、ある週末のこと。いつものように公園で陽向と林田凛が遊んでいるのを見ながら、希は意を決めた。
遊び疲れてベンチに座った林田凛に、希は少しだけ声を潜めて言った。
「あの……凛さん」
「はい、どうしました?」彼は、優しい笑顔で振り返った。
「いつも、ありがとうございます。あの……今度、もしよかったら、私の家に夕食を食べに来ませんか?たいしたものは作れないんですけど……」
希は、少し緊張しながら、そう誘った。自分の気持ちを伝えるのは、少し勇気がいることだった。
週末、希は少し前から計画していたことを実行に移した。陽向を実家に預け、久しぶりに自分のために時間を使うことにしたのだ。
選んだのは、以前、友人にもらった、あまり得意ではないけれど少しだけ興味のあったワインだった。冷蔵庫で冷やしておいたその瓶を取り出し、不慣れな手つきでコルクを抜く。ポン、という小さな音と共に、かすかにフルーティーな香りが広がった。
グラスに少量だけ注ぎ、ゆっくりと口に含む。ほんのりとした甘さと、かすかな酸味が舌の上で広がる。普段はあまり飲まないけれど、今日の気分には、なんだか合う気がした。
部屋には、静かな音楽を流した。窓の外は、夕焼けが空をオレンジ色に染め始めている。一人でゆっくりと過ごす、久しぶりの静かな時間。
(凛さんは、今頃、何をしているかな……)
ふと、彼のことが頭に浮かんだ。忙しい毎日を送っているだろうか。元気だろうか。
希は、もう一口ワインを口に運んだ。少しだけ酔いが回ってきたのか、心なしか、いつもより感傷的な気分になっている。
陽向のいない静かな部屋で、希はグラスを傾けながら、これまでのこと、そしてこれからのことを、ぼんやりと考えていた。
約束の時間ちょうどに、インターホンが鳴った。少しドキドキしながらドアを開けると、優しい笑顔の林田凛が立っていた。
「こんばんは」
「こんばんは。どうぞ、上がってください」
部屋に招き入れ、希は早速、用意していたワインを勧めた。
「これ、あんまり飲めないんですけど……もしよかったら」
林田凛は、「ありがとうございます」と微笑み、グラスを受け取った。
二人は、ゆっくりとワインを飲みながら、他愛ない話をした。仕事のこと、最近あった面白いこと。陽向の話も少し出た。
グラスを重ねるうちに、希は少しずつ酔いが回ってきた。頬がほんのり赤くなり、いつもより饒舌になっているのを感じる。
林田凛は、そんな希の様子を、優しい眼差しで見守っていた。時折、クスッと笑いながら、相槌を打ってくれる。
ワインの香りと、心地よい酔いと、そして彼の穏やかな存在が、希の心をじんわりと温めていく。
「あのね、凛さん……」
少しだけ気が大きくなった希は、普段はなかなか言えない、自分の気持ちをぽつりぽつりと語り始めた。透のこと、陽向のこと、そして、彼と出会ってからの自分の変化……。
林田凛は、言葉を遮ることなく、ただ静かに、真剣に耳を傾けてくれた。
希の話を聞き終えると、林田凛は、優しく微笑んだ。そして、そっと手を伸ばし、希の頬に触れた。
「希さん……」
彼の声は、とても優しく、温かかった。そのまま、ゆっくりと顔を近づけ、柔らかく希の唇に触れた。
それは、穏やかで、優しいキスだった。ワインの香りと、彼の温もりが、希を包み込む。
キスが終わると、二人はしばらく、見つめ合った。言葉はいらなかった。ただ、お互いの気持ちが、静かに伝わってくるようだった。
夜は更け、二人は自然な流れで、一緒に過ごした。隣にいる彼の温かさを感じながら、希は久しぶりに、安らかな眠りについた。