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久々の渋谷

ep4 久々の渋谷


「俳優さんか……」

希は、優子の言葉をぼんやりと反芻した。確かに、テレビの中の、遠い世界の人。まさか、陽向がそんな人を間違えるなんて。

「ただの、気のせいよね……」

そう呟いたものの、胸の奥の小さな引っかかりは消えなかった。

数日後、パートのお弁当屋さんでの休憩時間。忙しい昼のピークが過ぎ、少しだけ落ち着いた時間に、希は一人、隅の椅子に腰掛けてお茶を飲んでいた。

ふと、何気なく手に取った情報誌の小さな芸能ニュースが目に留まった。そこに載っていたのは、先日カフェで見かけた若い男性の写真。

『人気急上昇中の若手俳優・林田凛、初の主演ドラマ決定!』

記事の見出しに、そう書かれていた。

何気なくその写真を見つめていると、胸の奥に、かすかな、本当に微かな既視感を覚えた。どこかで、この顔を見たことがあるような……。

でも、すぐにその考えを打ち消した。まさか。そんなはずはない。ただの、よくある顔立ちの俳優さんなのだろう。陽向が見間違えたのも、きっとそうだ。

そう思い込もうとしたけれど、なぜか、その俳優の顔が、頭の片隅から離れなかった。遠い存在の人。そう、それは間違いない。自分とは全く違う世界に生きる人。

それでも、あの日の陽向の、まっすぐな瞳と、「パパ」という呼ぶ声が、脳裏に焼き付いて離れない。

気のせいだと、そう思うしかない。そう思うべきだ。

希は、少し熱くなったマグカップを両手で握りしめ、小さく息を吐いた。忙しい毎日に、そんなことを考えている暇はないのだから。

週末の日曜日、希は少しだけ自分の時間を作ることにした。陽向を実家に預け、久しぶりに賑やかな街の空気を吸いたいと思ったのだ。選んだのは、若者のエネルギーが溢れる渋谷だった。

駅前のスクランブル交差点を抜け、人混みを歩いていると、ふと、何か騒がしい雰囲気に気づいた。人だかりができ、何台かの機材が置かれている。どうやら、何かの撮影が行われているようだ。

野次馬の一人として、希も少しだけ足を止めて様子を伺った。カメラの向こうにいるのは、見覚えのある顔だった。

先日カフェで陽向が「パパ」と呼んだ、俳優の林田凛だ。

遠くからでも、彼の整った顔立ちと、周囲を惹きつけるような存在感がわかる。ドラマの撮影だろうか、真剣な表情で演技をしている。

希は、特に意識していなかったはずなのに、なぜかその姿から目が離せなかった。

その時だった。

演技の合間だろうか、林田凛がふと顔を上げた。そして、偶然にも、2、30メートルほど離れた場所にいる希と目が合ったのだ。

ほんの一瞬。

けれど、確かに目が合った。

カフェでの出来事があったばかりだからだろうか、その瞬間、希の心臓はまたしても、小さく跳ねた。林田凛は、一瞬、何かを感じたような、不思議そうな表情をしたが、すぐに視線を戻し、撮影に戻っていった。

(また……)

希は、その偶然に、言いようのないざわめきを感じていた。ただの偶然。そう思うしかないのに、なぜか、胸の奥が少しざわつくのだった。

あれから、またいつもの慌ただしい毎日が戻っていた。朝は陽向を保育園に送り、昼間はパートのお弁当屋さんで働き、夕方には保育園へ迎えに行く。帰宅してからは、夕食の準備、陽向の遊び相手、お風呂、寝かしつけ。自分の時間など、ほとんどない。

夜、ようやく陽向が眠りにつくと、希もそのまま隣で眠ってしまうことが多かった。一人で起きている気力も残っていない。

わかっていたことだけれど――パパのいないシングルマザーの生活は、やはり、想像以上に大変だった。もし実家で両親の助けがなかったら、もっとずっと厳しかっただろう。

陽向の寝顔を見ていると、愛おしさと同時に、ふと、透の顔が浮かんでくる。もし、透が生きていたら……。二人で手分けして陽向の世話をし、もっと穏やかな毎日を送れていたのだろうか。そんなことを考えてしまう夜もあった。

もちろん、陽向の存在が、希にとって何よりもかけがえのない光であり、生きる力になっている。それでも、ふとした瞬間に、心の奥底にぽっかりと空いた穴を感じてしまうのだ。

「パパ、いないね」

時々、眠りにつく前の陽向が、小さな声でそう呟くことがある。その度に、希は胸が締め付けられるような思いになる。

「うん、陽向には、ママがいるよ」

そう言って、小さな体をぎゅっと抱きしめることしかできない。

今日も、陽向の小さな寝息を聞きながら、希は静かに目を閉じた。疲労感が全身を重く覆っていた。

そんな忙しい日々が続く中、とうとう希の体が悲鳴を上げた。

その日も朝からお弁当作りに追われ、休憩もままならないほど忙しいパート先。昼過ぎ、急に目の前がチカチカとし始めた。立っているのがやっとで、冷や汗がじわりと滲み出てくる。

(まずい……)

そう思った瞬間、意識が遠のき、希は床に崩れ落ちた。

周りのパート仲間たちの慌てる声が、遠くで聞こえる。誰かが「しっかり!」と叫んでいるようだった。けれど、希はもう、自分の体を支えることができなかった。

意識が戻ると、見慣れない白い天井が広がっていた。消毒液の匂いが鼻をつく。ここは病院だ、とすぐに理解できた。

ぼんやりとした意識の中、優しい声が聞こえてきた。

「希、気がついた?」

顔を向けると、心配そうな母親の顔があった。隣には父親も立っている。

「お母さん……お父さん……」

掠れた声でそう言うと、母親はホッとしたように頷いた。「無理しすぎたのよ。パート先で倒れたって聞いて、本当に心配したわ」

「陽向は……?」

希が一番に気になったのは、息子のことだった。

「陽向なら大丈夫よ。私たちが連れてきたから、今は家で遊んでいるわ。心配しないで」と、父親が優しく答えた。

母親は、希の顔をじっと見つめて言った。「少し、ゆっくり休みなさい。陽向の面倒は、私たちが見ているから。あなたは、自分の体のことを考えなさい」

そして、少し語気を強めて続けた。「ちゃんと食べること。こんなになるまで我慢して……本当に、心配かけたんだから」

希は、両親の優しい言葉に、じんわりと胸が温かくなった。迷惑をかけてしまった申し訳なさと、支えてくれる家族への感謝の気持ちでいっぱいになった。

「うん……ありがとう」

そう答えるのが、精一杯だった。まだ、体は鉛のように重く、疲労感が抜けきれていない。

母親は、ベッドの脇に置かれた水の入ったコップを手に取り、ストローを差し出した。「少し、お水を飲みなさい」

希は、言われるままにゆっくりと水を飲んだ。冷たい水が、乾いた喉を潤していく。

「少し眠りなさい」と、母親が優しく希の髪を撫でた。「私たちはここにいるから」

希は、その温かい手に安心感を覚え、ゆっくりと目を閉じた。

翌日、病室のドアがノックされた。

「はーい」と希が返事をすると、顔を出したのは優子と美咲だった。二人は、両手に大きな紙袋を抱えている。

「希!元気になった?」と、優子が心配そうに声をかけた。

「大丈夫?何か買って来たよ」と、美咲も続いた。

紙袋から出てきたのは、色とりどりの美味しそうなケーキの数々だった。ショートケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキ……テーブルいっぱいに並べられ、甘い香りが病室に広がった。

「わあ……すごい」と、希は目を丸くした。「こんなにたくさん……」

「たまには、甘いものでも食べて元気出しなって」と、優子がにっこり笑った。「ね、美咲?」

「うん!希の好きなもの、色々選んでみたよ」

ケーキを見た瞬間、希の心にふと陽向の顔が浮かんだ。

(ケーキなんて、陽向の誕生日以来だ……)

陽向は、甘いものが大好きだ。この美味しそうなケーキを見たら、どんなに喜ぶだろうか。

「ありがとうね、二人とも。すごく嬉しい」と、希は心からの感謝を伝えた。「でも……陽向も、きっと食べたがるだろうな」

優子は、「もちろん、陽向くんの分もあるよ!」と、別の小さな箱を取り出した。「これは、陽向くんへのお土産」

箱の中には、可愛らしいイラストが描かれた子供向けのケーキが入っていた。

「わあ、ありがとう!陽向、きっと喜ぶわ」

希は、友人たちの優しい心遣りが、 胸いっぱいに染み渡るのを感じた。こんな時でも、自分のことを気遣ってくれる友達がいることは、本当に心強い。

「よかった」と、美咲も嬉しそうに微笑んだ。「じゃあ、遠慮なく、みんなで食べよう!」

三人は、久しぶりの甘いケーキを味わいながら、ゆっくりと話をした。他愛ない話ではあったけれど、その時間が、疲れた希の心を優しく癒やしていった。

数ヶ月が過ぎ、希は少しずつ日常を取り戻していた。体調も回復し、パートのお弁当屋さんにも復帰していた。陽向は相変わらず元気いっぱいで、保育園での出来事を楽しそうに話してくれる。

その日は、いつものように午後のパートに入り、カウンターの中でテキパキと注文を受けていた。

「いらっしゃいませ」

いつものように声をかけると、目の前に立っていたのは、見慣れない若い男性だった。

「すみません、何かおすすめはありますか?」

その声に、希は顔を上げた。

瞬間、心臓が跳ね上がった。

そこに立っていたのは、あのカフェで陽向が「パパ」と呼び、先日渋谷で見かけた、俳優の林田凛だった。

信じられない光景に、希は言葉を失った。

「あ……」

まさか、こんなところで、再び彼と会うなんて。それも、自分が働いているお弁当屋に。

林田凛は、希の顔をじっと見つめている。彼もまた、一瞬、何かを思い出したような、驚いた表情を浮かべた。

「あの……」

彼が何かを言いかけた時、奥の厨房からパートの店長の声が聞こえた。

「希ちゃん、今日の唐揚げ弁当、あといくつ?」

店長の問いかけに、ハッと我に返った希は、慌てて仕事モードに戻ろうとした。

「あ、はい!唐揚げ弁当は、あと五つです」

そう答えながらも、目は林田凛から離せない。彼は、少し戸惑ったような表情で、メニューを見下ろしている。

どうして、彼がここに?こんな小さな、普通のお弁当屋に。

希の頭の中は、疑問と戸惑いでいっぱいだった。

「か、唐揚げ弁当です」

動揺を悟られないように、努めて平静な声で、希はそう言った。

林田凛は、顔を上げ、少しだけ微笑んだ。

「じゃあ、それで一つ、お願いします」

「はい、かしこまりました」

希は、ぎこちない手つきで注文を受け、奥の厨房に声をかけた。「唐揚げ弁当、一つ!」

弁当を準備しながらも、ドキドキが止まらない。まさか、あの有名な俳優さんが、自分のお店に買いに来るなんて。しかも、二度も顔を合わせるなんて、偶然にしては出来すぎている気がする。

弁当を丁寧に詰めながら、希はチラリと林田凛の方を見た。彼は、静かに壁に貼られたメニューを見ている。特に変わった様子はない。

「はい、唐揚げ弁当、380円になります」

ようやく、弁当を渡し、会計をする。指先が少し震えているのを感じた。

林田凛は、財布からお金を取り出し、丁寧に支払いを済ませた。

「ありがとうございます」

そう言って、お弁当を受け取ると、彼は軽く会釈をして店を出て行った。

彼の背中が見えなくなるまで、希はただ、カウンターの中で立ち尽くしていた。

(一体、何なんだろう……)

心臓はまだドキドキと高鳴っている。ただの偶然なのか。それとも、何か他の理由があるのだろうか。

数日後、またあの若い男性が店に現れた。

「いらっしゃいませ」

希が声をかけると、顔を上げたのは、やはり林田凛だった。その姿を見た瞬間、ドキッ、と心臓が大きく跳ねた。

「きょうは、唐揚げ弁当を一つ、お願いします」

彼は、前回と同じものを注文した。

「はい、かしこまりました」

前回よりも、少しだけ落ち着いて対応できるようになった希は、手際よく弁当を準備し始めた。会計を済ませ、彼が弁当を受け取ろうとした、そのほんの短い合間に、林田凛が少しだけ身を乗り出して、声をかけてきた。

「あの……すみません。なんだか、初めてお会いした気がしなくて。どこかで、お会いしたこと、ありませんか?」

彼のその言葉に、希の心臓はさらに大きく鳴った。やはり、彼も何かを感じているのだろうか。

希は、少し戸惑いながらも、正直に答えた。

「あ……前に一度だけ、うちの子が、そちらに少し……ご迷惑をおかけしてしまったかもしれません」

林田凛は、その言葉を聞くと、ハッとしたように目を見開いた。

「ああ!あの時の……カフェのお子さんのお母さんですか?」

彼は、すぐに思い出したようだ。

「はい……そうです」と、希は小さく頷いた。

「やっぱり!なんだか、見覚えがあると思ったんですよね」

彼は、そう言って、少し照れたように笑った。

「あの時は、突然のことで驚きました。お子さん、すごく可愛らしかったですね」

彼の言葉に、希は少しだけ緊張がほぐれた。ただの、カフェでの小さな出来事を覚えていてくれただけなのだ。

それからというもの、林田凛は週に二回程度のペースで、このお弁当屋に顔を出すようになった。いつも決まって唐揚げ弁当を一つ。

パートのおばちゃんたちは、そんな様子を見て、ヒソヒソと噂話をしている。

「ねえ、希ちゃん。あれ、完全に希ちゃん目当てじゃない?」 「まさかー。ただの、唐揚げ弁当好きの常連さんですよ」

そう笑って答える希だけれど、正直なところ、彼が店に現れるたびに、心臓がドキッとしてしまうのは事実だった。

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