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失墜からの希望

ep.3 失墜からの希望


10時間の出産を終えやっと生まれてきた命。

母親が、赤子を腕に抱きかかえ、それはそれは嬉しそうに目を細めている。隣では、父親が少し照れたように、でも隠しきれない笑顔で、スマートフォンで何枚も写真を撮っていた。

「まあ、可愛いお顔」 「ほら、おじいちゃんに抱っこしてもらおうか」

そんな温かい言葉が、病室に満ちている。

そこに、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。

「はーい」と希が返事をすると、扉が開いた。

「希!おめでとう!」

顔を出したのは、高校時代の友人、優子と美咲だった。二人は大きな紙袋を抱え、満面の笑みで駆け寄ってきた。

「わあ、来てくれたんだ。ありがとう!」

希が嬉しそうに言うと、優子は紙袋から可愛らしいベビー服を取り出した。

「これ、私たちからのプレゼント。似合うかな?」

「絶対似合う!ありがとうね」

美咲も、そっと赤子の小さな手を握った。

「本当に小さいね。頑張ったね、希」

「うん……まだ夢みたいだよ」

母親が優しく微笑んだ。「ほら、あなたたちも、抱っこしてみる?」

優子と美咲は、少し緊張しながらも、順番に赤子をそっと抱き上げた。

「きゃー、軽い!」 「あったかいね」

二人の顔も、自然と綻んでいる。

「名前はもう決めたの?」と優子が尋ねた。

「うん。陽向ひなたっていうの」と希は答えた。「透が、考えてくれた名前なんだ」

その言葉に、一瞬、静寂が訪れた。でも、すぐに美咲が明るい声で言った。

「素敵な名前だね。陽のように、明るく育ってほしいな」

父親も頷いた。「本当に、いい名前だ」

病室は、温かい祝福の空気に包まれていた。失われた大切な人の面影を宿した小さな命が、新たな希望の光を灯しているようだった。

「これから、大変なこともあると思うけど、いつでも頼ってね」と優子が希の肩をそっと叩いた。

「うん、ありがとう。心強いよ」

希は、窓から差し込む柔らかな日差しを浴びながら、腕の中の陽向をそっと見つめた。たくさんの愛情に包まれて、この子はきっと、強く、優しく育っていく。そんな気がした。

母親は、そっと陽向の小さな頬を撫でながら、本当に小さな声で言った。

「この子が、あなたの愛した透君の子だね……。生きていれば、どんなに喜んだでしょうね」

その言葉に、病室の温かい空気が、ほんの少しだけ、静寂に包まれた。優子と美咲は、互いに顔を見合わせ、言葉を選んでいるようだった。

希は、腕の中の陽向をぎゅっと抱きしめた。母親の言葉は、優しく、そして、どこか切なかった。

「うん……きっと、すごく喜んでくれたと思う」

希の声も、少しだけ震えていた。

父親は、窓の外の景色をじっと見つめ、静かに頷いた。「ああ。それは、間違いない」

母親は、少し寂しそうな、でもどこか誇らしげな表情で、陽向を見つめた。「この子には、透君の優しい心が、きっと受け継がれているわ」

優子が、そっと希の手に触れた。「そうだね。希ちゃんも、陽向くんも、一人じゃないよ」

美咲も、「うん。私たちも、ずっと一緒だから」と力強く頷いた。

希は、友人たちの温かい言葉に、じんわりと胸が熱くなるのを感じた。失われた悲しみは決して消えることはないけれど、こうして、新しい命と共に、周りの人たちの優しさに支えられて、前に進んでいける。そう思えた。

「ありがとう」と、希は小さく呟いた。そして、愛おしそうに陽向の寝顔を見つめた。「この子を、大切に育てる。透の分まで」

母親は、その言葉を聞いて、優しく微笑んだ。「そうね。それが、一番の供養になるわ」

病室には、再び、穏やかな空気が流れていた。陽の光が、小さな命を優しく照らしている。

あれから数年が経ち、陽向はすくすくと育ち、やんちゃ盛りの3歳になった。希は、陽向を保育園に預け、生活のため、近所のお弁当屋さんでパートとして働き始めた。朝早くから夜遅くまで、毎日が慌ただしく過ぎていく。陽向の世話と仕事の両立は決して楽ではないけれど、陽向の笑顔を見るたびに、希は頑張ることができた。

保育園から帰ると、「ママ!」と元気いっぱいに駆け寄ってくる陽向を抱きしめるのが、希にとって何よりの癒やしだった。小さな手で一生懸命描いた絵を見せてくれたり、その日にあったことを楽しそうに話してくれたりする陽向の存在が、希の毎日を明るく照らしてくれた。

忙しい日々を送る中でも、希は決して忘れない日があった。それは、透の月命日だ。どんなに疲れていても、その日だけは必ず、少し足を伸ばして、静かに眠る透のもとへ向かった。

小さな花束を手に、墓石の前に立つ。風がそっと吹き抜け、木々の葉がざわめく音だけが聞こえる。希は、心の中でそっと語りかけた。

「陽向は、もうこんなに大きくなったよ。あなたにそっくりで、本当に元気いっぱいなの」

陽向の最近の面白い出来事や、成長の様子を話す。まるで、そこに透がいるかのように。

「毎日、バタバタしてるけど、陽向がいるから、頑張れてる。ありがとうね、透」

空を見上げると、白い雲がゆっくりと流れていく。希の心には、切なさと共に、温かい感謝の気持ちが湧き上がってきた。

帰り道、希は小さく呟いた。「また、すぐに来るね」

陽向の待つ家へと、少しだけ足取り軽く、希は歩き出した。

週末の土曜日、希は久しぶりに優子と美咲と顔を合わせた。陽向は保育園がお休みなので、一緒だ。賑やかな子供たちの声が響く、少しおしゃれなカフェでランチをすることにした。

「わあ、陽向くん、大きくなったね!」 優子が、陽向の頭を優しく撫でながら言った。3歳になった陽向は、ちょろちょろと動き回り、興味津々にあたりを見回している。

「うん、もう本当に目が離せなくて」と希は苦笑いしながら、陽向に「こら、あっち行っちゃだめよ」と声をかけた。

美咲が、陽向に絵本を見せてくれた。「陽向くん、これ見る?」

陽向はすぐに興味を示し、美咲の膝の上にちょこんと座って、絵本に夢中になった。その間に、希と優子はゆっくりと近況を話し始めた。

「仕事、大変そうだけど、体調は大丈夫?」と優子が心配そうに尋ねた。

「うん、まあ、なんとか。忙しいけど、やりがいもあるし。それに、陽向の笑顔が一番の元気の源だから」

「偉いね、本当に」と美咲も感心したように言った。「一人で子育てしながら仕事もなんて、尊敬するよ」

「いやいや、みんな色々頑張ってるよ」と希は照れくさそうに笑った。「こうしてたまに会って、話を聞いてもらえるのが、本当にありがたいんだ」

ランチが運ばれてきて、三人はそれぞれの料理を味わいながら、さらに話に花を咲かせた。子供の頃の思い出話や、最近気になること、将来のこと……。他愛ない話の中に、変わらない友情が感じられた。

陽向も、時折、絵本から顔を上げて、「ママ、これなあに?」と話しかけてくる。その度に、優しい二人の友人が笑顔で応えてくれた。

食事が終わり、陽向が少しぐずり始めたので、そろそろお開きの時間になった。

「今日は本当にありがとうね」と希は二人に感謝を伝えた。

「いつでも声かけてね」と優子。「陽向くんにも、またすぐに会いたいな」

「うん、うちも」と美咲も笑顔で頷いた。

カフェの外に出ると、穏やかな春の陽射しが降り注いでいた。手を繋いで歩く希と陽向の背中を、優子と美咲は優しい眼差しで見送った。

穏やかな時間が流れるカフェのテラス席。陽向は、優子と美咲が話す横で、持ってきたおもちゃの車を走らせて遊んでいた。時折、「ママ見て!」と声を上げ、希に笑顔を見せる。

その時だった。

カフェの入り口の方から、一人の若い男性が歩いてきた。まだ20代前半くらいの、少しあどけなさの残る男性だ。特に気にも留めていなかった希の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

陽向が、その若い男性を見つけた途端、今まで遊んでいたおもちゃを放り出し、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、その男性に向かって走り出したのだ。

「パパ!」

陽向は、満面の笑顔でそう叫びながら、その若い男性の足にしがみついた。

カフェのテラスは、一瞬にして静まり返った。希は、何が起こったのか理解できず、ただただ立ち尽くしていた。優子と美咲も、驚愕の表情でその光景を見つめている。

「え……?」

希の口から、かろうじてそんな言葉が漏れた。

若い男性は、突然のことに驚いた様子で、目を丸くしている。彼は、下にしがみついてくる小さな子供を見下ろし、困惑したような表情を浮かべた。

「パパ、だっこ!」

陽向は、そう言って、若い男性のズボンの裾を引っ張っている。

希の心臓は、激しく鼓動していた。一体、これはどういうことなのだろうか。陽向が「パパ」と呼んだ若い男性は、見覚えのない人だった。

穏やかな時間が流れるカフェのテラス席。陽向は、優子と美咲が話す横で、持ってきたおもちゃの車を走らせて遊んでいた。時折、「ママ見て!」と声を上げ、希に笑顔を見せる。

その時だった。

カフェの入り口の方から、一人の男性が歩いてきた。20代後半くらいの、落ち着いた雰囲気の男性だ。特に気にも留めていなかった希の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

陽向が、その男性を見つけた途端、今まで遊んでいたおもちゃを放り出し、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、その男性に向かって走り出したのだ。

「パパ!」

陽向は、満面の笑顔でそう叫びながら、その男性の足にしがみついた。

静まり返ったテラスで、希の心臓は、まるで時間が止まったかのように、まだ、どくりともしていなかった。ただ、目の前で起こっている信じがたい光景を、呆然と見つめている。

陽向の小さな声が、静寂を破る。

「パパ、だっこ!」

その無邪気な言葉が、ナイフのように希の胸に突き刺さった。

若い男性は、困惑の色を濃くし、しゃがみ込んで陽向の顔を覗き込んだ。

「えっと……ぼくは、きみのパパじゃないよ」

優しく諭すようなその声が、希の耳に届いた。

陽向は、きょとんとした表情で、その男性の顔を見上げている。

「ちがうの?」

その小さな疑問の声が、さらに希の心を締め付けた。

優子と美咲は、ハッとしたように立ち上がり、希に駆け寄ろうとする。

「希……!」

美咲が声をかけたが、希はまるで操り人形のように、動くことができなかった。頭の中は真っ白で、一体何が起きているのか、整理することができない。

なぜ、陽向がこの見知らぬ男性を「パパ」と呼んだのだろうか。透の顔とも似ていない。いったい……。

混乱と衝撃で、希の全身が震え始めた。

近寄ると希の心臓がドクンとなった すみません間違えですと答え 席に戻る こんな事今までなかったのに

硬直していた希の体は、友人たちの声でようやく動き出した。ゆっくりと、まるで足に根が生えたように、その若い男性と陽向の方へ近づいていく。近づくにつれて、止まっていたはずの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

男性は、まだ不思議そうな顔で陽向を見ている。陽向は、少し不安になったのか、その男性の服の裾をさらに強く握りしめた。

「すみません!」

希は、少し声を張り上げて言った。

若い男性は、ハッとして顔を上げた。

「あの……うちの子が、人違いをしてしまったみたいで。申し訳ありません」

そう言うと、希は陽向に手を差し伸べた。「陽向、こっちにおいで」

陽向は、若い男性の足元から顔を上げ、希の顔をじっと見つめた。まだ少し混乱しているようだ。

若い男性は、状況を察したように、優しく微笑んで陽向に言った。「そうか、間違えちゃったんだね。バイバイ」

希は、改めて若い男性に頭を下げた。「ご迷惑をおかけしました」

そして、陽向の手を取り、自分の席へと戻った。陽向は、大人しく希に手を引かれながらも、さっきの若い男性の方を何度も振り返っている。

席に戻ると、優子と美咲が心配そうな顔で希を見つめた。

「大丈夫?」と優子が 優しい声で尋ねた。

希は、深く息を吐きながら答えた。「うん……ごめんね、取り乱して。本当に、ごめん」

「そんなの、気にしないで。それより、陽向くん、あんなこと初めてだよね?」と美咲が不思議そうに言った。

希は、陽向の頭をそっと撫でた。「うん……私も、こんなこと初めてで……」

胸の奥には、言いようのないざわつきが残っていた。なぜ、陽向は見知らぬあの若い男性を「パパ」と呼んだのだろうか。そして、あの時、一瞬だけ感じた、胸の奥の微かな痛みの正体は、何だったのだろうか。

「ねえ、ちょっと……」と、優子が顎でカフェの入り口の方を指した。「あの人、最近テレビに出てる人じゃない?ほら、俳優の……えっと、林田凛はやしだりん!」

優子は、少し興奮した様子でそう言うと、「サインもらってこようかな?」と立ち上がりかけた。

それを聞いた美咲が、慌てて優子の腕を掴んだ。「ダメダメ!優子、いま迷惑かけたばかりじゃない。やめときなよ」

優子は、「あっ、そっか」と、少し照れたように座り直した。「そうだよね。いきなり話しかけたら、びっくりするよね」

希は、二人のやり取りをぼんやりと聞いていた。林田凛……。言われてみれば、どこかで見たことがあるような気がする。でも、それよりも、陽向の行動の方が、ずっと希の心を占めていた。

なぜ、陽向はあの人を……。

「希、大丈夫?」と、美咲が心配そうに声をかけた。「顔色が優れないよ」

「うん……ちょっと、考え事をしていただけ」と、希は力なく微笑んだ。「ごめんね」

優子は、「陽向くん、あの人のこと、何か勘違いしちゃったのかな?」と首を傾げた。「たまにあるみたいよ。テレビの人を見て、パパに似てるって言う子とか」

美咲も、「うん、うちの甥っ子も、たまにそういうこと言うわ」と頷いた。「気にしすぎない方がいいんじゃない?」

二人は、そう言って希を気遣ってくれたけれど、希の胸のざわつきは、なかなか消えそうになかった。陽向があそこまで強く「パパ」と認識して、しがみついたのは、単なる見間違いなのだろうか……。

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