母の愛
ep.2 母の愛
春が来て、それぞれの新しい生活が始まった。
希は、落ち着いた雰囲気の女子大学で、興味のある文学を学んでいる。新しい友人たちもでき、サークル活動も始まった。慣れない一人暮らしではあるけれど、自分のペースで過ごせる自由を、少しずつ楽しめるようになっていた。
透とは、以前ほど頻繁には会えなくなったけれど、連絡は取り合っていた。お互いの大学生活のこと、新しくできた友達のこと。電話の声はいつも明るく、二人の間に距離を感じることはなかった。
透は、念願の国立大学で、バスケットボールに打ち込む充実した日々を送っているようだった。時々送られてくる練習風景の写真には、汗だくになりながらも、楽しそうな透の笑顔があった。
会えない時間は、お互いを想う気持ちを、より強くしたのかもしれない。電話やメッセージでのやり取りは、二人の心の距離を繋ぎ止める、大切な時間だった。
希は、大学の図書館で、透におすすめされた小説を見つけた。ページをめくるたびに、透の声が聞こえてくるような気がした。
透もまた、大学の帰り道、ふと見上げた夜空に、故郷の海辺で一緒に見た月を思い出すことがあった。その隣にはいつも、希の笑顔があった。
物理的な距離は離れていても、二人の心は、それぞれの場所で、穏やかに、そして確かに繋がっていた。新しい生活は、まだ始まったばかり。それぞれの場所で成長しながら、二人はこれからも、ゆっくりと関係を育んでいくのだろう。
穏やかな日常に、突然、 つめたい風が吹き込んだ。
夜遅く、希のスマホがけたたましく鳴った。見慣れない番号。 不安な予感が胸をよぎる。
意を決して電話に出ると、聞こえてきたのは、 聞き覚えのある、けれど 歪んだ、 女性の 声だった。
「……もしもし、希さんですか?」
それは、透の母親の声だった。いつも優しく、 温かい声が、 今は 乾いた、そして かすれていた。
「はい、希です。どうされましたか?」 声が震えるのを、どうすることもできなかった。
受話器の向こうで、 短い沈黙ちんもくがあった。そして、絞り出すような声が聞こえた。
「……透が……事故に遭いました」
希の心臓が、 きゅうに冷たくなった。息が詰まる。
「じこ……?」
「ええ……バイクで…… 今日の 夕方……」
次の言葉が、なかなか出てこないようだった。 電話の向こうから聞こえる、かすかな 啜り泣き(すすりなき)が、希の 不安を強める。
「……もう…… 戻って こないんです」
その 短 一言が、希の世界を、音もなく 破壊するした。
「……え……?」
信じられなかった。 昨日 電話で話したばかりじゃないか。いつものように、明るい声で、大学のサークルのことを話していたじゃないか。
「嘘だ……そんなの、嘘だ……」 声が、震えながら 電話の向こうの母親に届いたかどうかさえ、わからなかった。
母親の 啜り泣きすすりなきが、 現実を 突きつける
「ごめんなさいね、こんな夜遅くに……でも、どうしても、最初に希さんに伝えたくて……透も、きっとそう願っていたと思うから……」
電話を持つ手が、 ゆっくりと、しかし 確実に、 冷えていく)のを感じた。
愛しい人が、もういない。その 事実が、重く、 冷たい石のように、希の胸に 押し付けられた。
言葉が出なかった。ただ、 電話の向こうの 悲しみが、 音もなく、希の心に 広がっていくのを感じていた。
喪失感は、毎日の呼吸のように、希の人生に深く根を下ろしていた。
電話を切った後、希はただ、呆然と部屋の隅に座り込んでいた。涙さえ、しばらく出てこなかった。あまりにも大きすぎる衝撃は、感情さえも麻痺させてしまうのだと、その時、悟った。
なぜ、バイクなんか。何度も、その言葉が頭の中で繰り返された。透は、注意深い人だった。無茶をするようなタイプではなかったはずだ。一体、何があったのだろう。考えても、考えても、もう答えは見つからない。
愛しい人は、もういない。その悲しい現実が、時間が経つにつれて、じわじわと、しかし確実に、希の心を蝕んでいく。
大学の講義中、友達と話している時、一人でカフェにいる時。不意に、透の笑顔が、声が、仕草が、鮮やかに思い出される。そして、その温かい記憶の後に、冷たい現実が意識される。もう、二度と会えないのだと。
何度も、夢を見た。透がそこにいる夢。以前と変わらない、優しい笑顔で、希に話しかけてくる夢。しかし、朝、目を覚ますと、その温かい幻は消え去り、あたりには冷たい静寂だけが残る。
時間は、非情に流れ続ける。周りの世界は、いつもと変わらずに回っている。しかし、希にとって、全てが、色褪せて見えた。
何をどう考えたところで、透はもう、二度と戻ってこない。その事実は、重い荷物のように、絶えず、希の心に圧をかけていた。
深い悲しみに沈んだまま、3ヶ月が過ぎた。季節は、少しずつ移り変わろうとしているけれど、希の心は、あの日の冷たい冬のまま、凍り付いたように感じられた。
毎日が、単調だった。大学へ行き、講義を受け、それから部屋に戻る。友達からの誘いも、以前のように楽しめなくなっていた。心のどこかで、いつも愛しい人の不在を感じていたからだ。
そして、3ヶ月が過ぎようとする今、希は、ある予感に、静かに気づき始めていた。
「あれ」が、来ない。毎月、決まって来ていたものが、最後に来た日から、途絶えている。最初は、ただ体調が優れないのだと思っていた。悲しみで、リズムが狂ってしまったのだと。
しかし、時間が経つにつれて、不安がゆっくりと膨らんでいった。もしかして……そんな考えが、頭の片隅をかすめる。
ありえない。そんなはずはない。そう思う一方で、わずかな希望のようなものが、冷たい心の奥底で、静かに芽生え始めているのも感じていた。
3ヶ月。普通なら、もう来ているはずなのに。
希は、ベッドからゆっくりと起き上がった。引き出しの奥にしまってあった、小さな箱を取り出す。それは、以前、親しい友人に勧められて、何となく買っておいたものだった。
箱を手に取り、説明書を注意深く読んだ。
心臓が、この瞬間まで感じたことのないような、奇妙なざわめきを伴って、早鐘のように打ち始めた。
もしかして……本当に?
希は、深く息を吸い込み、箱を開けた。
箱の中身を見た瞬間、希の全身が電流が走ったように、カーッと熱くなった。小さなプラスチックに、薄く、しかし確かに、二本の赤い線が浮かび上がっていた。
妊娠。
頭の中が、真っ白になった。信じられない。まさか、こんなことが。
お祭りの夜、月明かりの下でのキス。温かい彼の感触。あれから、数週間後には、もう会えなくなってしまった。
これは、透の子供だ。間違いなく。
胸の奥に、温かいものがじんわりと広がっていくのを感じた。愛しい人との、唯一の繋がり。彼がこの世界に残してくれた、大切な宝物。
でも、同時に、大きな不安が押し寄せてきた。まだ18歳。大学生になったばかりで、これからたくさんの未来がある。一人で子供を育てるなんて、想像もできない。両親に、どう説明すればいいのだろう。
どうしよう……
部屋の中を、意味もなく歩き回る。窓の外は、もう薄明るくなっていた。夜が明けようとしている。
でも、一つの思いだけは、はっきりと意識の中にあった。
透の子供は、おろせない。
たとえ、これからどんなに困難な道が待っていようとも。たとえ、全てを失うことになったとしても。
この小さな命には、透のかけらが宿っている。彼が生きていた証が、確かにここにある。それを、自分の手で消してしまうなんて、絶対にできない。
涙が、再び、静かに頬を伝った。今度の涙は、悲しみだけではなかった。ほんの少しの決意と、そして、温かい愛情が混ざっていた。
どうすればいいのだろう。これから、どう生きていけばいいのだろう。
わからないことばかりだったけれど、一つだけ、確信していた。
この子を守り抜こう。透が愛したこの世界で、この子をきっと、暖かく育てていこう。
夜が完全に明けた頃、希は、電話を手にした。まず、深く呼吸をする。そして、勇気を振り絞って、母親の番号をダイヤルした。
電話の向こうで、いつもの優しい声が聞こえた。「もしもし、希?どうかしたの?」
希は、短い沈黙の後、震える声で話し始めた。「お母さん……あのね、実は……」
全てを話すには、 बहुत 勇気が必要だった。まず、愛しい人がもういないこと。そして、自分のお腹の中に、その人の子供が宿っていること。
母親は、最初は言葉を失っていたようだった。電話の向こうが、しばらく静かだった。そして、低い、不安な声で、ゆっくりと尋ねてきた。「……それ、本当なの?」
希は、涙声で答えた。「うん……本当なの」
予想通り、母親の最初の言葉は、厳しいものだった。「なんてことを……まだ18歳なのに。どうするつもりなの? もちろん、おろすしかないでしょう」
その言葉は、予想されたものだったけれど、やはり、心に深く突き刺さった。
「お母さんの気持ちはわかる。私も、どうしたらいいかわからないくらい、不安だよ」 希は、必死に自分の気持ちを伝えようとした。
「でもね、お母さん……この子は、透の子供なの。私にとって、本当に大切な、大切な繋がりなの。だから……私は、この子を、産みたい」
電話の向こうは、再び、静かになった。母親の様々な感情が、沈黙の中に渦巻いているようだった。
長い時間が過ぎた後、母親は、重い息をついて、言った。「……そんなの、一人で育てられるわけないでしょう。あなたの将来はどうなるの?」
「それは、私も覚悟してる。困難な道になるかもしれない。でも……それでも、私はこの子を産みたいの。お願い、お母さん……私の気持ちを、少しでも理解してほしい」
電話の向こうの母親は、すぐに同意することはなかった。たくさんの反論や心配の言葉があった。それでも、希は、一つ一つ、自分の本当の気持ちを、自分の決意を、丁寧に伝えていった。
心は、もちろん、揺れなかったわけではない。将来への不安、孤独への恐れ。たくさんのネガティブな感情が、押し寄せてきた。それでも、愛しい人の唯一の遺産であるこの子供を、何があっても産んでみせる。その決意だけは、固い石のように、希の胸の中心に据わっていた。母親との電話を切った後、希はしばらくの間、ぼんやりと窓の外を眺めていた。空はすっかり明るくなっているけれど、希の心にはまだ重い雲が垂れ込めているようだった。
どうすればいいんだろう。これから、本当に一人で生きていくことになるのかもしれない。不安がないと言えば嘘になる。それでも、お腹の中にいる小さな命を守りたいという気持ちは、揺るぎようがなかった。
着替えを済ませ、希はアパートのドアを開けた。足取りは重かったけれど、実家へ帰ることに決めたのだ。母親と、もう一度ちゃんと話したい。自分の気持ちを、もっと丁寧に伝えたい。そして、もしできることなら、支えてほしい。
電車に揺られながら、窓の外を眺めた。見慣れた景色が過ぎていく。故郷の駅に着くと、少しだけ空気が優しく感じられた。改札を出ると、母親が心配そうな顔で立っていた。
「希……」
母親の声は、電話の時よりもずっと穏やかだった。希は、小さく会釈をした。
「お母さん……ただいま」
ぎこちない会話をしながら、二人で家へと向かった。久しぶりに帰った我が家は、どこか懐かしい匂いがした。
居間に座ると、母親は静かに希の向かいに腰を下ろした。
「……話してくれる?」
母親のその一言が、希の張り詰めていた気持ちを少しだけ緩めた。希は、ゆっくりと、透との出会いから、別れ、そして今お腹の中にいる命のことを、一つ一つ言葉を選びながら語り始めた。時折、涙で声が詰まりそうになるのを堪えながら。
母親は、何も言わずに、ただ静かに希の話を聞いていた。その表情は、電話の時のような厳しさだけではなく、心配や悲しみ、そして、ほんの少しの戸惑いが混ざっているようにも見えた。
全てを話し終えると、部屋にはしばらく静寂が訪れた。先に口を開いたのは、母親だった。
「……辛かったね」
その一言が、堪えていた涙腺を緩めた。希の目から、とめどなく涙が溢れ出した。母親は、何も言わずに、そっと希の背中に手を添えてくれた。その温かさに、希は子供のように泣いた。
「お母さん……私、どうしたらいいかわからない……でも、この子だけは……」
希が言葉を続けるのを促すように、母親は優しく言った。
「大丈夫よ。一人で抱え込まなくてもいい。一緒に考えよう」
その言葉に、希はほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。まだ、全てがうまくいくかはわからない。それでも、一人ではないと思えたことが、何よりも心強かった。
母親は、台所へ行き、温かいお茶を入れて戻ってきた。湯気が、静かな部屋に立ち上る。
「まず、体を温めなさい」
母親の優しい気遣いが、じんわりと希の心に染み渡った。
温かいお茶をゆっくりと啜りながら、希は改めて口を開いた。
「一人で育てるのが、どれだけ大変か、それは、私もちゃんとわかってる」
母親は、希の言葉に静かに頷いた。
「周りのみんなは、大学生活を楽しんでいるのに、私だけ……違う道に進むことになるんだって思うと、やっぱり不安になる」
そう言いながら、希は自分の 手をぎゅっと握りしめた。
「でも……」希は、少しだけ声を強めた。「この子は、私にとって、本当に特別な存在なの。透との、たった一つの繋がりだから」
涙が、再び瞳の縁に滲む。希は、それを手の甲で拭った。
「お母さん……お願い。私を、助けて」
希は、母親の目をまっすぐ見つめた。その瞳には、不安と、そして切実な願いが宿っていた。
母親は、しばらく黙って希の顔を見つめていた。その表情は、先ほどよりもさらに複雑さを増していた。葛藤しているのが、痛いほど伝わってきた。
やがて、母親はゆっくりと口を開いた。
「……そんな無責任なこと言って」
厳しい言葉が、 出た。希は、肩を落とした。やはり、反対されるのだろうか。
しかし、母親の言葉はそこで途切れた。そして、少し 声のトーンを落として、続けた。
「でも……あんたが、そんなに強く言うなら……」
母親は、 ため息をついた。
「……一人で抱え込むことはないよ。もちろん、大変なことはたくさんあるだろう。想像もできないくらいにね。でも……あんたのお母さんだもん。見捨てるわけにはいかないでしょう」
希は母親の言葉に信じられないという表情で、母親を見つめ返した。
「本当に……?」
母親は寂しそうに、そして優しく微笑んだ。
「本当に。まだ、どうなるかわからないことばかりだけど……一緒に、考えていこう。あんた一人で背負い込むには、あまりにも重すぎる荷物だからね」
涙が溢れ出した。それは、悲しみや不安の涙ではなく、安堵と感謝の涙だった。
「ありがとう、お母さん……本当に、ありがとう」
希は、震える声でそう言うと、思わず母親に抱きついた。母親は、 しっかりと希を抱きしめ返してくれた。その腕の温かさが、希の 心に、じんわりと広がっていくのを感じた。