熱い思い出
ep.1 熱い思い出
体育館の熱気が、じっとりと肌にまとわりつく。床を叩くボールの音、選手たちの息遣いが、私の座る観客席まで響いてくる。私はタオルで首筋の汗を拭いながら、コートの中でひときわ高く跳躍する透の姿を見つめていた。
今日は、中学最後の夏の大会に向けた練習試合。透のチームは、相手チームと激しくぶつかり合い、一点を争う攻防を繰り広げている。ドリブルで相手を翻弄し、ゴールへ一直線に向かう透の動きは、いつもながらに力強い。シュートが決まると、控えの部員たちが歓声を上げた。
透の横顔は、真剣そのものだった。額に滲む汗が、彼の集中力を物語っている。幼い頃から隣にいた透の、こんなにも真剣な表情を見るのは、なんだか少しドキドキする。彼の瞳は、陽の光を浴びた黒曜石みたいに、キラキラと輝いている。
試合終了のブザーが鳴り響き、勝利を収めた透のチームに、大きな拍手が送られた。疲れた様子を見せながらも、透は満足そうな笑顔でこちらに気づき、軽く手を振った。私も立ち上がって手を振り返すと、彼はチームメイトと何か話した後、私のいる出口の方へ歩いてきた。
「お疲れ様、透」 体育館の外で待っていると、息を切らせた透がやってきた。ジャージの裾で汗を拭う彼の横顔を見上げた。
「ああ、疲れた。今日は結構、競ったんだ」 透は持っていたスポーツドリンクのボトルを開けて、一口飲んだ。
「うん、見ててハラハラしたよ。最後のフリースロー、本当にすごかったね」 私の言葉に、透は少し照れたように笑った。
「あれは、ちょっと運が良かっただけだよ」
「そんなことないよ。いつも一生懸命練習してるの、知ってるもん」
二人並んで、校門を出て、家路につく。夕焼けが空をオレンジ色に染め始めていた。
「そういえば、希」と、透が歩きながら言った。「この前の英語のテスト、どうだった?」
「うーん、あんまり自信ないんだよね。透は?」
「俺も、微妙。夏休みは、ちゃんと勉強しないとやばいな」
「そうだね。でも、まずはバスケの大会だもんね」
「ああ。絶対に、県大会に行く」 透はそう言って、ぐっと拳を握った。その力強い言葉に、私もなんだか勇気が湧いてくる。
「うん、私も応援してる」
「ありがとう」 透は少しだけ足を止め、私の目を見た。「希も、何か頑張ってることあるの?」
「私も、色々頑張ってるよ」 短いけれど、お互いの気持ちはちゃんと伝わっている気がした。
帰り道、私たちは学校であったことや、好きな音楽の話をした。透が話す内容は、くだらないことも多いけれど、なぜか聞いていて楽しい。彼の話を聞いていると、彼の瞳の色みたいに、心が少しずつ明るくなっていくのを感じた。
夏の大会前の、いつもと変わらないけれど、どこか特別な帰り道。幼馴染の透の、真剣な眼差しと、時折見せる優しい笑顔が、私の心にそっと刻まれた。
「どうかな……私の成績じゃ、ちょっと厳しいかも」 そう言いながら、彼の顔をちらりと見た。夕焼け色の空の下、透の瞳が少し心配そうに揺れた気がした。
「そっか……でも、まだ時間はあるし。これから頑張れば、全然間に合うよ」 透の言葉は、いつも前向きで、私を励ましてくれる。
「うん、そうだね。頑張る」 私も、もう一度気持ちを引き締めた。
「透は、ちゃんと勉強してるの?」 少し意地悪な気持ちも込めて、そう問いかけた。
透は、少し目を逸らして、苦笑いをした。 「まあ……ぼちぼち、かな。バスケばっかりやってるって言われるんだよね、先生に」
「ふふ、そうだよね。でも、透はバスケも勉強も両方頑張ってると思うよ」
「そうだといいんだけどな」 彼は少し照れたように、頭を掻いた。
「一緒の高校に行けたら、楽しいだろうね」 私がそう呟くと、透は少しだけ歩くスピードを緩めて、こちらを見た。
「ああ、絶対楽しいよ。また一緒にバスケ観に行ったり、帰り道に寄り道したり……」 彼の言葉に、私の胸が高鳴る。想像するだけで、なんだかワクワクしてきた。
「うん、そうだね。だから、私も頑張る」 私は、もう一度そう言った。今度は、もっと強い気持ちを込めて。
「俺も頑張るよ。一緒の高校に行けるように」 透の瞳が、夕焼けに染まって、キラキラと輝いていた。その光を見ていたら、なんだか、きっと大丈夫だって思えた
中学三年生の冬。受験の結果が、重くのしかかる。希の努力は報われず、第一志望の高校への切符を手にすることはできなかった。
合格した透の名前が掲示板に貼られているのを見た後、希は誰にも会いたくなくて、一人で帰り道を歩いた。いつも隣にいた透は、今日はもういない。
初めて、二人は違う道を歩むことになる。
ずっと、伝えたい気持ちがあった。幼い頃から一緒に過ごして、いつの間にか特別な存在になっていた透へ。彼の真剣な眼差しも、優しい笑顔も、隣にいることが当たり前だった日々も、全部が好きだった。
何度も、告白しようとした。夏祭りの夜、花火の下で。部活の帰り道、夕焼け空の下で。でも、いつも言葉は喉の奥で詰まって、出てこなかった。
「一緒の高校に行けたら、楽しいだろうね」
あの時、透も少しだけ期待しているような顔をしていた。だからこそ、この結果が、余計に辛い。
家に着くと、自分の部屋の窓から、遠くの夜景が見えた。あの街のどこかに、透もいるんだ。でも、もう毎日のように顔を合わせることはなくなる。
初めて感じる、大きな喪失感。
机の隅に置かれた、中学校の卒業アルバムを開いた。笑顔で並んでいる、私たち。あの頃には、こんな未来が来るなんて、想像もしていなかった。
アルバムの透の笑顔を、そっと指でなぞる。
「……好きだよ」
小さすぎる声は、誰にも届かない。
冬の夜空には、冷たい月が静かに輝いていた。希の心には、言いそびれた言葉と、初めて感じる寂しさが、深く沈んでいた。
高1の夏。新しい生活が始まった透に、新しい隣の人が現れた。
希がいない、少し広くなった教室の片隅で、透は嬉しそうに弁当を広げた。色とりどりのおかずが詰まったそれは、彼女の手作りだ。
同じクラスになった彼女は、明るくて誰にでも優しかった。成績も優秀で、いつも周りに人が集まっている。初めて話した時から、透は彼女の笑顔に惹かれていた。
いつの間にか、二人は一緒に過ごす時間が増えていった。帰り道が同じ方向だったこともあり、自然と話すようになった。彼女は、透のバスケ部の試合を応援に来てくれることもあった。
そして、夏の終わり頃、透は彼女に告白した。彼女は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔で「うん」と頷いてくれた。
それから、毎日が少しだけ色鮮やかになった気がした。朝、校門で待ち合わせをして、一緒に教室へ向かう。昼休みは、二人で並んで彼女の作った弁当を食べる。おかずの一つ一つに、彼女の優しさが詰まっているように感じた。
彼女は、希とは全く違うタイプだった。明るくて、積極的で、いつも周りを巻き込んで楽しんでいる。希の静かで控えめな優しさも好きだったけれど、今の透には、彼女の眩しいほどの明るさが心地よかった。
希のことは、時々思い出す。同じ中学校だった頃、いつも隣にいた彼女。一緒に見た夕焼けの色や、他愛ない会話。でも、今はもう違う道を進んでいる。
彼女と笑い合いながら食べる弁当は、美味しかった。透は、新しい隣にいる彼女との、穏やかな日常を大切にしたいと思った。
夏の強い日差しが照りつける体育館。応援席には、地元の人や生徒たちが集まり、熱気に包まれていた。希は、その一角にひっそりと座り、コートで躍動する透の姿を目で追っていた。
久しぶりに見る、バスケをする透は、以前よりもずっとたくましく見えた。ドリブルもシュートも、一段と力強くなったように感じる。ボールがリングを射抜くたびに、観客席から歓声が上がる。
試合が終わり、選手たちがコートから引き上げてくる中、希はそっと立ち上がった。出口の近くで、透が出てくるのを待とうと思った。
その時、希の目に、透に駆け寄る一人の女子生徒が映った。明るい笑顔で、汗を拭う透にタオルを差し出している。長い髪が揺れ、白い肌が陽に照らされて輝いていた。
ああ、彼女だ。
以前、噂で聞いたことがあった。成績優秀で、美人だと。透が毎日、彼女の作った弁当を食べていることも。
二人は、楽しそうに言葉を交わしている。透の表情は、希が中学校の頃に見たことのないくらい、穏やかで優しいものだった。
希は、その光景を少し離れた場所から、じっと見つめていた。近づいて、声をかけることができなかった。何を話せばいいのか、わからなかった。
中学校の頃のように、「お疲れ様」と声をかけるのは、もう違う気がした。二人の間には、見えないけれど、確かな距離があるように感じた。
しばらく、その場に立ち尽くしていたけれど、希は誰にも気づかれることなく、静かに体育館を後にした。
帰り道の夕焼けは、いつもより少しだけ、寂しい色に見えた。風が、夏の熱気を運んでくる。希は一人、言葉のないまま、家へと向かった。
部屋に戻ると、堪えていたものが一気に溢れ出した。
ベッドに顔を埋めて、希は激しく泣いた。
体育館で見た、透と彼女の笑顔が、何度も頭の中で繰り返される。楽しそうな二人の姿は、まるで違う世界の出来事のように、希には遠く感じられた。
どうして、あの時もっと頑張れなかったんだろう。あと少しでも成績が足りていれば、同じ高校に通えていたかもしれない。そうしたら、今も隣にいることができたかもしれない。
後悔ばかりが押し寄せてくる。あの時、勇気を出して告白していれば、何か変わっていたのだろうか。でも、もう時間は戻らない。
涙が止まらない。透の面影が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。彼の優しい声、少し照れた笑顔、真剣な眼差し。全てが、希のかけがえのない宝物だった。
「……透……」
絞り出すような声は、空しく部屋に響くだけ。
同じ高校に行けていれば。
何度も、そう思った。同じ教室で笑い合って、帰り道を一緒に歩いて。そんな当たり前の毎日が、今の希には、遠い夢のように感じられた。
夜が更けても、希の涙は止まらなかった。初めて知る、こんなにも深く、どうしようもない悲しみ。それは、ずっと心の中に大切にしまってきた、透への想いの大きさを物語っているようだった。
高3の、蒸し暑い夏の夜。祭りの賑やかな音が、遠くから聞こえてくる。浴衣を着て、少しだけ緊張しながら準備をしていた希のスマホが鳴った。画面には「透」の文字。
心臓がドキッと跳ねた。あれから、直接話すのは初めてだ。
「もしもし……希?」 少し低くなった、でも聞き慣れた透の声が、耳に届いた。
「うん、私だよ」 声が少し震えてしまったかもしれない。
「あのさ、今日、祭りに行かない?」 透の言葉に、希は息を呑んだ。
「え……でも、彼女は?」 思わずそう問いかけてしまった。
電話の向こうで、透は少し間を置いた。 「ああ……もう、ずっと前に別れたんだ」
「そう……なんだ」 胸の奥で、小さな光が灯ったような気がした。でも、すぐに打ち消すように、平静を装った。
「なんで、私を誘うの?」
「……希と、一緒に花火が見たいと思ったんだ」 透の、少しだけ照れたような声が聞こえた。
祭りの喧騒が、受話器越しにも伝わってくる。屋台の賑わい、子供たちの笑い声。そして、透の、まっすぐな言葉。
希は、少しだけ迷った。でも、すぐに心が決まった。
「……うん、行く」
電話を切ると、希は自分の頬が少し熱くなっているのを感じた。久しぶりに会う透。そして、二人で見る花火。
浴衣の袖をぎゅっと握りしめて、希は小さく息を吐いた。
夏の夜空に咲く、大きな花火。あの時、二人で一緒に見ることができなかった花火を、今、見ることができるのかもしれない。
祭りの賑わいを抜けた二人は、静かな海辺にいた。夜空には、大きく丸い月が輝き、波の音が優しく響いている。砂浜には、祭りの名残の花火の燃えかすが、いくつか落ちていた。
「綺麗だね、月の光」 透が、ぽつりと呟いた。
「うん……すごく綺麗」 希は、波打ち際に目をやりながら答えた。
二人でしばらく、言葉もなく波の音を聞いていた。砂を踏む、かすかな音だけが響く。
意を決したように、希はゆっくりと口を開いた。 「透のこと……ずっと、好きだった」
透は、驚いたように振り返り、希の瞳を見つめた。月の光が、希の瞳を潤ませているように見えた。
「中学校の時から、ずっと……離れていても、忘れられなかった」
希は、少し俯き、足元の砂を指でなぞった。そして、砂の上に何かを描き始めた。最初は小さな丸。そこから、花びらのように線を伸ばしていく。それは、少し歪んだ、星の形をしたチューリップだった。
「これ……前に、二人で描いたの、覚えてる?」 希は、顔を上げて、少し不安そうに透を見つめた。
透は、砂に描かれた絵をじっと見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。 「ああ、覚えてるよ。希がよく描いてたな」
懐かしそうな透の言葉に、希は少しだけ安堵した。
「あのね、透……」 希は、もう一度、透の瞳をまっすぐ見つめた。 「やっぱり、あなたのことが好き」
静かな波の音だけが響く中、透は何も言わずに、そっと希に近づいた。そして、優しくその頬に手を添えた。
月の光の下、二人の影が重なる。
ゆっくりと、透の顔が近づいてくる。希は、そっと目を閉じた。
柔らかい感触が、唇に触れた。
それは、 あたたかい、そして、少ししょっぱい、海の匂いのするキスだった。
月明かりが、砂浜の二人のシルエットを、優しく照らしていた。
キスが終わっても、二人はしばらく、お互いの瞳を見つめ合っていた。言葉はいらなかった。ただ、そこにいるだけで、心が満たされていくような、そんな静かな時間だった。
透は、そっと希の手を取り、砂浜を歩き始めた。波の音が、二人の足音と重なって聞こえる。
「希……」 歩きながら、透が優しく声をかけた。
「うん?」
「俺も……ずっと、希のことが好きだったんだ」
その言葉に、希の胸が熱くなった。ずっと聞きたかった言葉。遠い夢だと思っていた言葉が、今、確かに耳に届いた。
「え……ほんとに?」 思わず、聞き返してしまった。
透は、足を止めて、希に向き直った。月の光が、彼の横顔を照らしている。
「ああ、本当だよ。中学校の頃から……でも、高校が別々になって、伝えるタイミングを逃してしまって」
「私も……何度も、言おうと思ったんだけど、言えなくて」 希は、少し照れたように微笑んだ。
「今日、電話してよかった」 透は、そう言って、優しく希の髪に触れた。
再び、二人の間に静かな時間が流れる。でも、さっきまでの切なさや不安は、もうどこにもなかった。ただ、穏やかな、温かい空気が二人を包んでいた。
波は、ゆっくりと砂浜に打ち寄せ、また引いていく。月明かりの下、二つの影が、寄り添うように伸びていた。
「また、あの星のチューリップ、描いてくれる?」 透が、ふとそう言った。
希は、嬉しそうに頷いた。 「うん、また描くよ。今度は、もっと上手に描けると思う」
二人は、もう一度、砂浜に座り込んだ。月明かりの下、希は砂に、少し歪んだ星の形のチューリップを描き始めた。その隣に、透も指で何かを描き足した。それは、少し不格好な、でもどこか温かい、もう一つの星のチューリップだった。
二つのチューリップは、寄り添うように、月明かりに照らされていた。
月明かりの海岸での告白から、数ヶ月後。高校三年生の冬が、静かに近づいていた。二人にとって、初めて一緒に迎える受験の季節。
透は、志望する国立大学に向けて、ひたすら机に向かう日々を送っていた。一方、希は、少し複雑な思いを抱えていた。
夏の祭りの後、二人は改めてお互いの気持ちを確かめ合い、穏やかな時間を重ねていた。一緒に勉強したり、たまに近所のカフェで話したり。離れていた時間が嘘のように、自然な関係に戻っていた。
しかし、希の進路について、両親との間で意見の食い違いがあった。特に母親は、伝統ある女子大学への進学を強く勧めていたのだ。
「女子大には、あなたのような真面目な子に合った落ち着いた環境があるのよ。それに、卒業後の進路もしっかりしているわ」
母親の言葉は、もっともらしく、優しかった。でも、希の心には、どうしても引っかかるものがあった。透と同じ大学で、また一緒に学びたい。それが、希の素直な願いだった。
何度も、自分の気持ちを両親に伝えた。透のこと、一緒に頑張りたいこと。でも、母親の意思は固かった。
「男の子に釣られて、安易に進路を決めるべきじゃないわ。あなたの将来のことを、真剣に考えているのよ」
最終的に、希は両親の説得を受け入れることにした。自分の気持ちを押し通すよりも、両親を安心させたいと思ったからだ。それに、女子大にも魅力的な学科はあった。
透に、そのことを伝えるのは、少し気が重かった。いつものように、近くの公園で待ち合わせた。
「あのね、透……私の大学のことなんだけど」 希が、少し言い出しにくそうに切り出した。
透は、心配そうな表情で希を見つめた。 「どうしたの?」
「うん……私、親に勧められた女子大に行くことにしたんだ」
透は、一瞬、驚いたような顔をした。でも、すぐに落ち着いた様子で言った。 「そっか。希が決めたことなら、それが一番いいんだと思う」
彼の言葉は優しかったけれど、希には、その奥にほんの少しの寂しさを感じた。
「ごめんね、透と同じ大学に行けなくて」 希は、そう言って、俯いた。
透は、ゆっくりと顔を上げさせ、希の目を見た。 「そんなこと、気にしないで。どこにいても、希は希だよ。それに、大学が離れていても、僕たちの気持ちは変わらないだろ?」
透の言葉に、希は少し救われた気がした。そうだ、物理的な距離が離れても、二人の気持ちは繋がっている。
「うん、そうだね」 希は、そう言って、微笑んだ。
空には、冬の冷たい風が吹いていたけれど、二人の間には、確かに温かいものが流れていた。