あれが過ぎると申します 鏡
今でも、何であの時、鏡淵に行ったのか自分でも判らない。
鏡淵は三、四丈ほどの高さの細い滝の下にあった。滝が落ちてくる崖は、淵の三方を囲むように切立っていて、真昼でも何やら薄暗く、日の光が届くことは滅多に無かった。
水の深さは人の背丈の倍ほどもあり、夏でも手が切れるほどに冷たく、清浄と澄んで、底の小石やら砂粒まで一つ一つ数えられるようだった。
無論人が這入って泳がれるものではないが、あまりの冷たさに魚の影すら一つも見えぬのが常であった。
旧の地蔵盆には鏡淵を覗いてはならぬ――それが、この辺りの言い伝えであった。
夏になると決まって、大人たちは口を酸っぱくして、何度も厳しく子供たちを戒めていた。
それなのに、どうしてあの時、自分があそこに居たのか? どう考えても、今に腑に落ちない。
何でも、兄と慕う懐かしい人と一緒だったように思うのだが、それが誰であったのかも判らない。
――その時に限って、淵の水は二、三寸の先も見えぬほどに、蒼黒く濁っていた。
「どうした事じゃろうか?」と兄のような人を見上げたが、兄やんはじっと黙ったまま、どんみりと汚い水の中を見詰めていた。
風が吹いて、崖の腹から横ざまに伸びている、柘やら木蓮子やらの條々の、黒々とした葉ががさがさ鳴った。
そうして、澱んだ水の奥に、何やら大きな魚らしいものの、閃くような影が幾つも見えたと思ったら、四、五寸ばかりの円いものが底からぷかりと浮かんできた。
亀であろうか? それも昔の画に描かれる亀さながら、尻の方に腰蓑のような毛を引いて泳いでいる。何でもあれは蓑亀とか言うらしいが、その時にはそんな言葉も知らず、実物を見るのも初めてだった。
「あれは亀じゃのう?」
そう訊ねると、兄のような人は少し困ったような妙な顔で、頭を横に振り、
「亀だかどうだか、よう見てごらん」と言った。
亀であれば甲羅にあたる所、円くて黄ばんだ石のような土器のような硬そうなものが、その縁辺りに汚らしい黒い毛をぼやぼや生やして、それを濁り水に棚引かせながら進んでいる。
しかし、よくよく目を凝らしてみても、どうしたことか、亀らしい頭も手足も見えぬ事に気が付いた。亀は甲羅の中に頭や手足を引っ込めるものだが、そうしているふうにも見えなかった。
手足も無いのにすいすいと水面を動いて行く、訳の判らぬもの――
はっとして、すぐ、その厭なものから目をそらした。
兄やんを見上げて、「あれは――」と言いかけたが、その先を口にするのはどうも由々しく憚られた――
――今から思えば、そこからの帰り道は自分一人きりだった。
淵の所には二人で居た筈だのに、一人で帰るを何とも不思議には思わなんだ。
傾いだような、古い小さな吾が家に戻ってきた時、戸口付近には姉弟らが遊んでいたのだが、敷居を跨いで土間に這入って行く自分の方を、皆が怪訝そうに見ていた。
暗い土間では、母が竈の傍で何やら煮炊きをしていた。
「御母さん、ただいま戻んだで――」
そう声をかけると、母はどうも困ったような妙な顔つきをして、
「御母さんて…… あんたあ、うちの子じゃ無ぇろがね。――あれや! 上家の坊さんでごぜますろう?」と言った。
上家とは、村を見下ろすように、少し高くなった山裾に建っている、分限者の邸の事である。
何が何だか呑込めぬままに、母に促され、一緒に上家の坂を上って行った。
道すがら、懐かしくも恋しい、実の母に間違いない筈の人が、頗る他人行儀によそよそしく自分に接してくる。その表情や言葉つき、態度などの諸々が、何とも切なく、情無かった。どうにもやり切れぬ、瞋りにも似た思いに、奥歯を食いしばり口を固く一文字に結んだ。こらえようとしても、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。そうやって黙って泣きながら歩いた。
「もうし、もうし…… 坊さんが戻んでこりゃあたで」
大きな邸の脇にある、勝手口から母が声を掛けると、下女が二人、非常に驚いた様子に跳んで出てきて、まあまあと玄関の方にいざなわれた。
奥から出てきた上家の婆様は、皺だらけの顔の目だけを真ん丸にして、飛びつくように自分を抱き竦めた。婆様の袂に顔を覆われた時、著物に染み込んだすえたような莨の匂いやらがぷんと鼻を突いた。そうして、しきりに頭を撫でられるまま、じっと俯いていた。
「よう戻んだ、よう戻んだ……」
頭の上から降ってくる、涙ながらのかすれ声を、まったくの他人事のように聴いていた。ちっとも懐かしい気持ちは起こらなかった。
それよりも、自分をここに置き去りにして戻るべく、いとまの口上なぞを述べ始めた母の薄情が、どうにも悲しく、恨めしかった。
「大けぇなりんさったなぁ。一年ばかりもおりゃえんさったけぇなぁ」
「何処ぇ行っとりゃあしたら?」
「何しとりゃゆうたら?」
「御飯はようけ食われんさったかや?」
周りに集まってきた下男やら下女やら大人たちが、矢継ぎ早に何やら訊ねてきたが、どれにも答える事が出来ず、黙っていた。
頭の中が朦朧とするようで、さっきまで鏡淵に居た事も、何だか夢の中の出来事のように仄やりしていた。
そもそも、鏡淵にはどうやって行ったのか? 鏡淵に行く前には何をしていたのか?
「御前、饑うは無ぇかえ?」
婆様に聞かれたので、
「饑うは無ぇ」と答えた。
「何か食うてきたかえ?」
「……ようわからんが、一向、饑うは無ぇ」
「そうかえ? まあ、ええ。まあ、ええ。そんなら、たちまち湯屋に行きやれ。長う、湯も浴びとらんなら? 臭うておえんようなっとる」
はっとして、吾身を見回すと、垢じみて汗じみた、わわけたような襤褸をまとっている。手足も汚れ、草履も履かず、泥にまみれた裸足のままである。
「湯なら、沸いとりますらあね。さあ、どうぞ」
にっこり語りかけてきた下女に連れられ、ぐるりと裏に廻って湯屋に這入った。
「着換ばとってきやすけぇねえ。坊さん、ゆっくり浴びておりゃんせ」
下女が去って一人になったらほっとした。
湯屋の中を見渡したが、どうにも見覚えがない。自分はやはりここの子供ではないと確信的に思った。
ただ、さっきの周りの大人たちの様子、ことに、実の御母さんだと疑いもせぬ人が、何とも不可思議によそよそしく、反対に、顔は見知っていたもののこれまでろくに話をした事も無かったような上家の婆様が、いかにも身内らしく親身そうに振舞う様子に、どうにも合点が行かなかった。
何ともはや、到底納得が出来ぬけれども、どうする思案も金輪際無ければ、途方に暮れるしかなかった。
ここが吾が家とは、一体全体どうした事ならぁ?
薄暗い湯屋の真ん中には、丸木の柱があった。その柱の釘に四角い小さな鏡がぶら下がっている。
ふと何気なく、覗き込んだ――――ぞっとした。
鏡に映っている子供の顔は、誰とも見も知らぬ他人の顔であった。
その顔が困ったような妙な薄笑いのべそを浮かべている。
<了>