32 .レガッタ・ブル・セルリアン
アイビーはチャイブのおかげで、馬車が到着する前に外に出て、頭を下げることができた。
数分の余裕もなく、本当に間一髪だった。
御者からは見えていただろうけど、王女殿下に見えていなければ大丈夫。と思いたい。
足音が止まったので、小さく深呼吸をしてから挨拶をはじめた。
「セルリ一一
「挨拶はいりませんわ。それよりも顔を見せてくださいまし」
アイビーは腰を折ったまま、公爵令嬢として礼儀作法を守るか、それともレガッタの言葉に従順になるかで、頭を悩ませた。
カディスを出迎えた時は、きちんと挨拶を交わして褒められている。
だから、王女殿下に挨拶をしないわけにはいかないはずだ。
でも、本人に遮られてしまった。
どっちを選べば正解かが分からなくなり、チャイブに尋ねたいが、今聞くことはできない。
ただ、チャイブのことを思い浮かべた時に、チャイブに「笑っていればいいんですよ」と言われていたことを思い出した。
そして、自分の笑顔は最強だということも。
——とびっきり可愛いと思う笑顔を送れば、問題は解決するんだったわ。
ゆっくりと顔を上げて花が綻ぶように微笑むと、カディスと似ている少女が大きく開けた口を両手で隠した。
彼女が手紙の送り主で、レガッタ王女殿下なのだろう。
「可愛いですわ!」
興奮して直球で褒めてくれる少女に、アイビーの胸に自信が積み上がる。
——うんうん、カディス様と違って美の基準値正しいと思うよ。私、可愛いよね。
嬉しくて自然と小首を傾げるような仕草をしてしまい、軽く叫んだ少女に勢いよく抱きつかれた。
日頃鍛えているアイビーにとって、飛び込んできた細い少女は5歳児くらいと変わらない。
優しく抱き留めると、興奮している少女に何度も軽くジャンプされた。
「レガッタ様、ご挨拶をされませんか?」
少女の侍女と思われる女性が、柔らかい声で少女に声をかけた。
諌めるような感じではなく、微笑ましいという雰囲気が漂っている。
ハッとしてから、おずおずと離れていった少女は、恥ずかしそうに頬を染めていた。
「お嬢様。先に挨拶を」
チャイブに小声で話しかけられ、小さく頷いたアイビーは自己紹介だけすることにした。
出会い頭に「挨拶はいらない」と言われている。
だから、ここでのチャイブがいう挨拶は「名前を」ということだと判断したのだ。
アイビーは、軽くスカートをつまんで、ふわっと微笑んだ。
「アイビー・ヴェルディグリと申します。仲良くしていただけたら嬉しいです」
「私は、レガッタ・ブル・セルリアンですわ。もちろん仲良くしますわ」
レガッタの微笑みは、「可愛い」と思った先ほどの無邪気な笑顔とは違い、カディスと同じように「大切にされているお人形さんみたい」と感じた。
「温室にお茶を用意しております。そちらにご案内いたしますね」
楽しそうに頬を緩ませるレガッタを見て、もうお人形の印象はなくなっている。
同じ年のはずだが、なんだか小さな子供のような感覚がする。
一瞬にして雰囲気を変えるレガッタは、どんな子なんだろうと少し興味が湧いてきた。
温室に向かって歩を進める中、レガッタは物珍しそうに瞳を動かしている。
「ヴェルディグリ公爵家に初めて来ましたけど、お庭がとても素敵ですわ」
「カディス様はよくいらっしゃるらしいですのに、王女殿下は初めてなんですか?」
途端に頬を限界まで膨らませるレガッタに、アイビーは頬に人差し指をあて首を傾げる。
「私、未来の妹ですわ。レガッタと呼んでくださいまし」
瞳をパチクリさせたアイビーは、話し合いをした時、王子様呼びに不機嫌を露わにしたカディスを思い出した。
カディスとレガッタは、見た目だけじゃなくて案外中身も似ているのかもしれない。
となると、ここは素直に「レガッタ様」と呼んだ方がいいだろう。
「呼び捨てにはできませんので、レガッタ様でお許しください」
「仕方ありませんわ。それで我慢します」
「私のことは、気軽にアイビーと呼んでくださいね」
「分かりましたわ。もう親友ですものね。お兄様と結婚したら、私のことは呼び捨てにしてくださいましね」
顔を輝かせているレガッタに申し訳なくなりながらも、カディスの婚約者の演技中のアイビーはにっこりと微笑みながら頷いたのだった。
温室に着き、本邸の温室とはまた趣きが異なる綺麗な花や草木に、アイビー自身も目を奪われた。
レガッタと花を鑑賞しながら奥に進んでいく。
開けた場所にある大きな白いテーブルには、小ぶりなスイーツがたくさん並んでいた。
お茶の種類を変える時に新しい茶器が必要なので、数種類の茶器が置かれたカートも脇にある。
胸を弾ませているアイビーの横で、レガッタの瞳も輝いている。
お互いがお互い心を踊らせている姿に気づき、2人は顔を見合わせて小さく笑い合った。
チャイブがレガッタの座る椅子を引いたが、レガッタは首を横に振っている。
「アイビーと席が遠いですわ。もっと近くにしてくださいまし」
「かしこまりました」
チャイブがにこやかに微笑んで頭を下げている姿に、アイビーは「本当の執事っぽい」と密かに思っていた。
公爵家に戻ってくる前の距離感ではなくなってしまったけど、午前中と夜はチャイブが側にいてくれる。
剣術や体術の師匠ではなくなってしまったけれど、相変わらず分からないことを教えてくれる先生だ。
だから、公爵家の執事然としているチャイブが、アイビーにはとても珍しかった。
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