30 .侍女長と執事長
「あら、お嬢様。まさか、今まで眠られていたのですか?」
廊下を歩いていると、先の方で侍女に指示を出していただろう侍女長に出会った。
パンプキン色の髪を三つ編みの団子でまとめ上げ、コルク色の瞳をしている。
本邸の侍女長は可愛らしいお婆さんだったが、タウンハウスの侍女長はクロームと同年代くらいで女豹っぽい。
アイビーは、酒場で見かけそうな人だなと密かに思っていた。
「今じゃないけど、起きたのはさっきだよ」
盛大なため息を吐き出され、アイビーは首を傾げる。
「公爵家の御令嬢が怠惰だと困ります。きちんと生活を改めてください」
咎めるように言われ、アイビーは横目でチャイブを見るが、チャイブは眉一つ動かさない。
——やっぱり寝過ぎたんだよね。せめてお父様やお兄様が出発する前には、起きなきゃだめだったんだわ。でも、チャイブに怒られなかったし、機嫌が悪いようにも見えないんだけどな。ということは、あれなのかな?
アイビーは、文句なしにとびっきり可愛い。
そのため、チヤホヤされてきた。
そして、その分、嫉妬も付き纏っていた。
大体は言葉が悪く不親切というものだったが、老若男女問わなかったので色々経験をしてきている。
昨日の挨拶の時も冷淡だと感じたが、これらが嫉妬からくるものなら、きっと侍女長とは仲良くなれないだろう。
「うん。明日からはきちんと起きるわ」
「そうしてくださいませ。お嬢様が、立派な公爵家の面汚しにならないよう願っておりますわ」
声をかけられた時もだが、颯爽と立ち去る時でさえ、侍女長は頭を下げなかった。
アイビーは、特に気にもせず歩みを再開した。
「お嬢様、侍女長には笑わないんですか?」
「うん。笑ったら怒られそうだもの」
正解だったのか、チャイブは笑うことを堪えるように肩を揺らしている。
「あの人は、どんな人なの?」
「さぁ? 私が働いていた時は、本邸にいる侍女長がこちらで指揮をとっておりましたから、彼女の記憶がないんですよね。執事長に聞いてみますか?」
「うーん……うん、会ったら聞いてみる」
——情報収集は大切だもんね。
ラシャンの部屋やクロームの寝室と執務室、図書室や娯楽室などの説明を受けながら歩いていると、厨房近くでチャイブの兄でありタウンハウスの執事長であるシュヴァイと出会った。
まだ距離があるのに笑顔で腰を落としたシュヴァイは、片膝をついた状態で迎えてくれる。
「お嬢様、おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん、寝過ぎちゃった」
「快適に過ごせたようでよかったです」
チャイブとシュヴァイは似ているが、決定的に違う部分がある。
チャイブは真面目に見えるのに、シュヴァイはチャラく見えるというところだ。
優しく微笑んでくれているだけなのだが、どこか軽薄さを覚えてしまう。
でも、ジョイとチャイブは優秀だから、見た目とは裏腹にシュヴァイも実はデキる男なんじゃないかと思っている。
「ねぇ、執事長。聞きたいことがあるの」
「なんでございましょう」
「侍女長はどんな人?」
「んー、そうですねぇ、彼女は元々シシリアン侯爵家で侍女長をしていたそうなんですが、シシリアン侯爵が彼女を気に入ってしまいまして、そのせいで職を辞さなければならなくなったそうです。どうにかヴェルディグリ公爵家で雇ってあげてくれないだろうか、という紹介状がありましたので迎え入れた人ですね。どうかされましたか?」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
シュヴァイは、全くもって笑顔を崩さない。
まるで笑顔がデフォルトのようだ。
「何かございましたら遠慮なく仰ってくださいね」
「分かった。ありがとう」
アイビーが微笑むと、シュヴァイは笑っているのに微笑もうとして笑みを深くして、目が糸よりも細くなってしまっている。
アイビーに悩殺されているシュヴァイに、チャイブが斜め上から声をかけた。
「執事長。昼から王女殿下が遊びに来られますので、温室にお茶の用意をお願いします。給仕には私とルアンが付きます。他は付けないようお願いします」
笑顔のまま立ち上がったシュヴァイが、小さく息を漏らした。
「王子殿下のみならず王女殿下の遊び場所にもなりそうだな」
「そうですね」
「警備を見直すようクローム様に伝えねば」
「そうですね」
「今、料理長に伝えておくか」
「そうしてください」
「うん、お願いします」
チャイブの適当な相槌に追加するように、アイビーは真っ直ぐ丁寧に伝えた。
わずかに止まったシュヴァイが朗らかに微笑み、「お任せください」とさっき出てきたばかりの厨房に入って行った。
ポルネオたちが寛いでいる部屋に到着したアイビーは笑顔で挨拶をし合い、次にアイビーのアトリエになるという部屋に案内をしてもらった。
その部屋は、庭に自由に出入りできる掃き出し窓があり、陽の光で明るく暖かかった。
アイビーやラシャンの寝室とも近い。
「嬉しい! 本当にいいの?」
「ええ、元々ここはお嬢様の部屋の予定だったんですよ」
チャイブの言っていることが分からなくて首を傾げると、薄く微笑んだチャイブに頭を撫でられる。
「お嬢様の部屋は、ティール様がご成婚されるまで過ごされていた部屋なんですよ。で、こちらの部屋が、お嬢様を身籠られた時に用意された部屋なんです」
当時を懐かしむように部屋に視線を巡らせるチャイブの手を、アイビーは掴んだ。
アイビーが知らない昔を思い出しているチャイブが、とても切なそうに見えたからだ。
優しい眼差しを向けてきたチャイブと、手を繋いだまま掃き出しまで歩いた。
掃き出し窓を開けたチャイブの髪が、部屋に入ってくる風でかすかに揺れている。
「色んなことが変わったけど、俺は戻ってきてよかったと思ってるよ。まぁ、これからが大変なんだろうけどな」
「私は、たくさんのことを知れて嬉しいよ。家族にも会えて幸せ。でもね……ねぇ、チャイブ。チャイブはずっと側にいてね。離れていったら嫌だよ」
「ああ。また旅に出るようなことがあったら、その時も一緒だ」
「うん、約束だよ」
昼食の時間になるまでアイビーは絵を描き、チャイブは愛おしそうにそんなアイビーを眺めていた。
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