75 .ラシャンはチャイブに勝ちたい
「後処理をしてから帰るよ」と黒い笑みを浮かべた父様を残して、眠ってしまったアイビーと一緒にヴェルディグリ公爵家に戻ると、屋敷にいた人たちのほぼ全員に出迎えられた。
お祖父様とお祖母様は眠っているアイビーの顔を覗き込んで緊張を解いていて、安心から泣き崩れるルアンを同僚たちが介抱していた。
そして、殿下は心底安堵したというような表情を浮かべ、瞳を潤ませていた。
殿下のそんな顔を見るのは初めてで、息を止めかけた。
僕もずっと頭に血が上っていたから、殿下が信じられないくらい怒っている時は不思議じゃなかった。
でも、アイビーを見つけて一緒に帰ってきた今、殿下が振り切れるくらいの感情を露わにしていたことが心臓をうるさくさせた。
僕には命よりも大切なたった1人の妹だから、アイビーにだけ動く気持ちはたくさんある。
だけど、殿下にとったら、まぁ、嫌だけど仲がいい友達や同盟相手になると思う。
絶対に僕以上の関係ではないのに、僕と同じように感情を揺らしている。
殿下は友人に対して、ここまで親身になるような人物だっただろうか?
と、そんなことを考えかけて、大切なことに気づいた。
今まで殿下には気を許せるような環境はなく、一緒に出かけるような友人もいなかったということに。
時間を共にしている人物の中で、たぶん僕が誰よりも長いだろう。
自慢とかじゃなくて、殿下は僕に引っ付いて訓練をすることが多かったからだ。
まぁ、王宮では勉強中心だから公爵家でってことなんだと思う。
イエーナは最低だったしね。
そんな友人が1人もいない生活で、優しくて無邪気で可愛いアイビーが友達になったんだ。
それはもう失いたくないって思うよね。
アイビーがいなかったら僕とも冗談を言い合うような仲にはなっていなかったし、バイオレットからの求婚を断ることは難しく、陛下は命を落としていたかもしれない。
そっか。
殿下は性格に難があるからアイビーに素直に感謝を示せないだけで、実はアイビーのことを誰よりも妖精とか女神とか天使とかと思っているんだ。
素直になればいいのに、本当に捻くれているんだから。
やっとできた心許せる友人が無事に帰ってきたんだから、それは安心するよね。
そこだけでも変に誤魔化さない殿下でよかったよ。
みんな一緒にアイビーの部屋に移動し、チャイブがアイビーをベッドに寝かせた。
泣き跡が残っているアイビーの顔に、胸が締め付けられる。
あんなにも泣くなんて、本当にどれだけ怖い思いをしたんだろう。
攫われて、どんなに不安だっただろう。
僕がもっとしっかりしていれば、アイビーが危険な目に遭うことはなかったんだ。
「殿下、さすがにもう戻らないといけません」
フィルンが、申し訳なさそうにカディス殿下に進言している。
殿下は辛そうに顔を歪ませた気がする。
そんな雰囲気が漂ってきたから。
「大人しく公爵家にいたんだから、今日くらい外泊を許してくれてもいいと思うんだけど」
「なりません。陛下もレガッタ殿下もきっと朗報を待っておられます。これ以上遅くなりますと外出禁止になってしまいますよ」
アイビーの頬を撫でていると、殿下の盛大なため息が聞こえてきた。
きっと僕と一緒で、アイビーが目を覚ますまで側にいたいのだろう。
「分かった。帰るよ」
諦めたように言って部屋を出ようとした殿下は、「見送りはいらないよ。アイビーの側にいてあげて」とお祖父様やお祖母様を気遣っていた。
僕は視線さえもアイビーから動かせなかったけど、お祖父様たちは頭を下げていたと思う。
アイビーが目を覚ましたら、もう大丈夫だよって安心させてあげたい。
家に帰ってきたよって。僕がずっと側にいて、もう2度と誘拐なんて起こさせないよって。
それで、アイビーを抱きしめるんだ。
アイビーの手を離さないように、しっかりと握りしめる。
さっきチャイブにしがみついていたアイビーの手は震えていた。
チャイブから離れたくないって伝わってきた。
悲しかったけど、あの時は頭が真っ白になっちゃったけど、きっと僕が想像できないほどの恐怖を味わったからだって理解している。
アイビーにとって、チャイブは誰よりも安心できる存在なんだと思う。
悔しいけど、日頃のアイビーからもそれは感じられる。
1度父様に「チャイブに勝ちたい」って相談したことがある。
父様は優しく微笑んで、こんなことを言った。
「私も常日頃思っているよ。でもね、これは勝ち負けじゃないんだよ。人それぞれ、安心する場所・心が和らぐ場所・楽しい場所・泣いてもいい場所・怒れる場所が違うんだ。きっとチャイブはアイビーにとって、安心して泣いていい人なんだと思うよ。どんなに大声で泣き叫んでも受け入れてくれる人なんだよ」
「僕だって受け入れられます」
「そうだね、ラシャンはとても妹思いだからね。私ももちろんラシャンとアイビーの全てを受け入れられるよ。でもね、私たちがどんなにアイビーを想っていても、アイビーには全て伝わっていないんだよ。これはアイビーだけに言えることじゃなくて、自分以外の全ての人に言えることなんだ。それをよく分かっていたのがティールでね、『私は相手の心を読む魔術も魔法も使えないわ。私に伝えてもいないのに分かってもらえるなんて思わないで。気づいてほしいとも思わないでね。クロームのことを好きだから理解しようとはするけど、同じ考えとは思わないでね』って言われたことがあるんだよ」




