66 .ラシャンの焦燥
教室に到着し、眠たそうにしている殿下に挨拶しようとした。
「ラシャン公子様!!!」
突然大声で呼ばれ、肩を上げながら出入り口を振り返った。
振り返っている途中で見えた殿下の瞳が大きく見開かれていて、きっと僕も同じような顔をしているんじゃないかと思う。
「大変です! アイビー様が拐われてしまいます!」
「え? アイビー? 何を――
「どこ!? 案内して!」
全く知らない令嬢に、さっきまで一緒にいたアイビーが誘拐されるなんて言われて頭が働かなかった。
それなのに、殿下は信じられない速さで女生徒に近づき、剣幕で迫っている。
「ラシャン! 行くよ!」
聞いたことのない殿下の大声にハッとして、信じていいのか分からない女生徒の後を殿下と追った。
女の子なのに走っている。
顔色が悪く焦っている姿に、この子は本当のことを伝えにきてくれて、本気でアイビーを心配してくれている子なんじゃないかという気持ちが湧いてきた。
となると、一瞬迷った僕は大馬鹿者だ。
その一瞬が命取りになることくらい分かっているのに。
「状況分かる?」
「アイビー様を2階から4人で眺めておりましたら、瞬く間に真っ黒な人物に連れ去られてしまいました。2人は現場に急ぎました。もう1人は2階から監視しており、私がラシャン公子様と殿下を呼びに行きました」
「さすがだよ。チェスナットの指示?」
「はい。自分はあまり目立たない方がいいと思うからと、現場の方に向かわれました」
「そうだね。アイビーと繋がっているって分からない方が裏で動けるものね」
殿下の言葉に、小さく頷いた女の子に視線を送った。
チェスナット伯爵令嬢の名前を聞いて、この子もファンクラブの会員なのかと理解した。
というか、殿下はいつ気づいたんだろうか?
もしかして、ファンクラブのメンバーを全員知っているんだろうか?
僕は、どうしてそこまでしていなかったんだと後悔した。
アイビーに協力的な人を覚えておくのは、もしもの時に役立つのに。
そして、今そのもしものことが起こってしまっているのに。
「殿下、ラシャン公子様、お待ちしておりました」
「アイビーはどこ!?」
鎖骨下くらいで綺麗に切り揃えられたジャスミンイエローの髪に、意志が強そうなカフェオレ色の瞳の女の子に1歩近づいた。
着いた先は、1階にある裏庭に続く廊下だった。
「ここからはもう分からなくなってしまいました。逃げた方向だけでも分かるようにと、追いかけた者が間に合っていればよろしいんですが……」
「その子はどこにいるの!?」
「ラシャン、落ち着いて」
殿下に強く肩を掴まれて、落ち着いていられないと殿下を勢いよく睨んでしまった。
だけど、殿下の顔が唾を飲み込みたくなるほど殺気に満ちていて、冷静になれた。
殿下がここまで怒っている姿を見たことがない。
だから、頭に上っていた血が引いていったんだ。
そして、こういう時ほど冷静にならないといけないって思い出した。
夏の遠征で散々「理性を失えばその分危険が増す。状況をきちんと把握して次の一手を冷静に判断する。それを繰り返してこそ勝利がある」と教えられていたのに、僕は今パニックに陥っていた。
アイビーを助けたいあまり、がむしゃらに行き当たりばったりで動こうとした。
アイビーを守れる騎士になると誓ったはずなのに、僕はそれを破ろうとしたんだ。
大きく深呼吸して、殿下と頷き合った。
怒りを露わにしているのに、殿下は意外にも冷静なようだ。
「チェスナット、ここが現場なの?」
「はい、そうです。見たことがない女生徒がアイビー様に声をかけ、ここまで誘導をし、黒装束の者がアイビー様を連れ去りました。その際にその女生徒も一緒に消えています」
この子がファンクラブ会長のチェスナット伯爵令嬢らしい。
ひどく落ち着いて待っていたように見えたのは気のせいだったようで、瞳には激高が燃え上がっている。
「誘拐犯が女生徒と偽って侵入していたってことか」
「たぶんですが、そうだと思われます。殿下、私は私で今から動きます。深追いはしないよう会員には言いくるめておりますので、すぐにここに戻ってくると思います」
「分かった。何か判明したら教えて」
「かしこまりました。失礼いたします」
丁寧に腰を折って、チェスナット伯爵令嬢は呼びに来てくれた令嬢と足早に去っていった。
「ラシャン、戻ってくる令嬢の話を聞いたら馬を借りて公爵家へ。僕は師団長に伝えに行くよ」
「分かりました。騎士を総動員して探すようにします」
「うん、僕は師団長に伝えた後、父上に報告に行く。王都の門を閉鎖してもらうよ。さすがに壁をよじ登って逃げられないだろうからね」
「はい」
しっかりと頷けたし、頭は動いている。考えることをやめていない。
でも、口に苦いものが広がっていて、のたうち回りたいほど胸が痛い。
さっきまで一緒にいたのに。
どうして教室まで送らなかったのだろうかと、自分で自分を殴りたくなる。
短くしているはずなのに爪が手のひらに食い込んでいると感じるほど、手から力を抜くことができないでいる。
怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか、きつく手を握っていないと倒れてしまいそうだ。
アイビー、すぐに助けるからね。
だから、無事でいて……
来週は誘拐されたアイビーが目を覚ますところから始ります。
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