44 .ラシャンの婚約
「アイビー、話したいことがあるんだけど、今大丈夫?」
入浴を済ませ、後は眠るだけとなった時間帯に、ラシャンが申し訳なさそうにしながらアイビーの部屋にやってきた。
ラシャンと過ごせる時間は幸せを感じるので、笑顔で頷き、ラシャンの手を取って中に促した。
ソファに横並びで座るなり、ラシャンが口を開いた。
「後1ヶ月も経てば、アイビーと過ごせるようになって1年になるね。父様たちと相談してからになるけど、記念日を作って、その日は毎年みんなで出かける日にしたいと思っているんだ。アイビーはどう思う?」
「私は、お兄様たちと一緒に過ごせるならお出かけをしなくても嬉しいです」
ルアンがお茶を用意すると、チャイブがルアンを連れて下がってしまった。
いつもなら寝る時間まで一緒にいるのにと、チャイブの奇怪な行動にドアを見つめてしまう。
「アイビー」
固い声で名前を呼ばれ、隣に座っているラシャンを見ると、柔らかく手を取られた。
ただ掴んできたラシャンの手が、どこか緊張で強張っているように感じる。
「お兄様、何かありましたか?」
——絶対に何かあったんだわ。でも、そうしたらどうしてチャイブは教えてくれなかったのかな? いつもなら「絶対に漏らすなよ」って脅しながら言ってくるのに。
綺麗に微笑んでいるラシャンに愛らしく微笑み返すと、ラシャンは更に目元を緩めた。
「僕の婚約が決まったんだ」
「え? お兄様の、婚約ですか?」
「うん、そう。僕の婚約。発表はもう少し先なんだけどね。アイビーには話しておきたくて」
「えっと……おめでとうございます! でいいですか?」
小さく吹き出したラシャンは、いつもと同じ笑顔を携えていて、不快そうにも落ち込んでいるようにも見えない。
婚約に反感はないように思える。
さっきの違和感は気のせいだったんだろう。
「会ったことはない相手なんだけどね。先日届いた手紙を読む限りでは優しい子だと思うんだ。すっごい慎重に文字を書いたんだろうなっていうのが分かって、この子となら仲良くなれるんじゃないかとも思ったよ」
「お会いしたことのない方なんですか?」
——会ったことないってことは、好きな人じゃないってことよね? お兄様には好きな人はいないと思っていたけど、それは当たっていたってことよね? レガッタ様の婚約事情を聞いただけだけど、お兄様も公爵家嫡男なんだからお兄様の婚約も公爵家に釣り合う方ってことで……それなのに会ったことがないってことは、パーティーとかに出席しない人で……え? それってどんな人なの?
「うん。顔合わせをしないとだから、冬の長期休暇の時に招く予定だよ」
——長期休暇の時に招く? すぐには会えない距離にいるってこと?
「きっとお兄様にメロメロになっちゃいますね。カッコよくて優しくて自慢のお兄様ですから」
「嬉しいよ。ありがとう、アイビー」
ラシャンにむぎゅっと抱きしめられて、アイビーも強く抱きしめ返した。
おかしそうに笑い合った後、元の距離まで離れる。
「でも、僕よりもアイビーに夢中になっちゃうかもね。アイビーと同じ年だし、友達になれるんじゃないかな」
「私と同じ年の方なんですね」
「うん、アムブロジア王国フォンダント公爵家、エーリカ・フォンダント公爵令嬢だよ」
聞き覚えのある名前に目を瞬かせてしまう。
「あの、それって……バイオレット公爵令嬢が見つけられた聖女さんですよね?」
「そうだよ。フォンダント公爵家からの申し入れを受け入れたんだ」
「えっと……どうしてですか? お兄様なら隣国じゃなくてもセルリアン王国で婚約者を見つけられますよね?」
「そうだね。ものすごい数の求婚書をもらっているから、選びたい放題だと思うよ」
「どうして、その中でフォンダント公爵家に決められたのですか?」
「バイオレット・メイフェイアからの求婚を断るには、聖女と言われているエーリカ・フォンダントがいいと思ったからだよ。どうしても嫌悪感を拭えないバイオレット・メイフェイアとは結婚したくないからね」
「え、でも、普通にバイオレット公爵令嬢を断ることはできないんですか?」
優しく微笑んだラシャンは、ムスタヨケルの街が魔物に襲われたこと、それをバイオレットが予言して守ったこと、聖女として知名度を上げたこと等を話してくれた。
でも、だからって相手がエーリカ・フォンダントじゃなくてはいけない理由にはならないと思ってしまう。
バイオレットと全く関係がない人じゃダメだったのかと、頭の中がぐるぐると回りはじめる。
「後は家同士の問題かな。クレッセント公爵家にはレガッタ殿下が降嫁するから、クレッセント公爵家の力が増すでしょ。スペクトラム公爵家との間接的な結びつきが出来上がるしね。で、アイビーはカディス殿下に嫁ぐ予定だから、ヴェルディグリ公爵家の力は強くなる。3つの公爵家の力を分散させるためには、ルージュ公爵令嬢の相手になる人よりも、僕の相手は力がない家門が好ましかったんだ。っていう事情があるの。全部表向きだけどね。だから、本来ならアイビーの婚約破棄が発表されてから、僕の婚約者を決める予定だったんだ」
アイビーは、言いたい言葉を飲み込むようにグッと唇に力を入れた。
「私が婚約破棄しますから、お兄様が今婚約する必要はありません」と表向きの理由を無くせばいいと衝動的に言いそうになったが、そうではない。
カディスがバイオレット・メイフェイアとの婚約にならないようにアイビーを選んで婚約したのと同じで、ラシャンもバイオレット・メイフェイアと婚約しないためにエーリカ・フォンダントが必要ということだ。
アイビーとカディスが婚約をしている云々の問題じゃなくて、婚約していないとバイオレット・メイフェイアがその席に座るということだ。
だから、先に同等の人物で席を埋めるしかないと説明されているのだ。
「フォンダント公爵家は由緒ある家門だけど、それは隣国でのことだし、エーリカ公爵令嬢は養子だからね。国内情勢を考えるとしても、丁度いい相手なんだよ」
「お兄様は、本当にその考え方でよろしいんですか? お父様やお母様みたいに好きな人とじゃなくていいんですか?」
「お父様たちには憧れているし尊敬しているけど、僕は婚約してからその人を好きになるのも素敵なことだと思っているんだよ。お祖父様とお祖母様がそうだからね。始まりがどうであれ、お互いを思い合える日々を過ごせることはかけがえのないことだから」
「分かりました。私はお兄様を応援します」
クスッと笑ったラシャンが、頬を触ってきた。
指で解すようにむにむにと頬っぺたを摘まれる。
「全然納得してないって顔しているよ」
「そんなことありません。急だったからびっくりしたんです」
「アイビー、本当に安心してくれていいんだよ。婚約期間中に、どうしても無理なら破棄できるんだしね。それに、これは僕が決めたことで、この先後悔しないって言い切れるんだ。なぜだか分からないけど、そう確信しているんだよ」
揺るぎない瞳で見つめられ、小さく頷いた。
優しく微笑んだラシャンに摘まれていた頬を撫でられ、抱き寄せられる。
「アイビー、みんなで幸せになろうね」
「はい、お兄様」
背中を軽く叩いて離れていったラシャンは、相変わらず綺麗な笑みを浮かべて部屋を出ていった。
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