回想
「お父様、お母様、それでは行って参ります」
邸宅の玄関前で、ルディは頭を下げた。
ルディ、七歳。艶やかな黒髪は首元で切り揃えられ、前髪も眉毛の高さで切り揃えられている。そう彼女の記憶ではこれより遠く離れたフレグランス家の本邸へと赴く予定だ。
「それでは旦那様、お嬢様はお任せ下さい」
ルディの隣にいた女性が頭を下げる。彼女はルディの家庭教師で、行儀作法なども教えているので常に傍らにあった。フレグランス家は商会を営んでおり、ルディたち親子は皇都の支店近くで生活している。この日はルディがセントラルガーデンに入学する前祝いを兼ねて、本邸の祖父母に会いに行くのが目的だった。
彼女の暮らす国はリフティア聖皇国と呼ばれている。聖皇国はルディが産まれる前より国内の制度改革を行い、大きな発展を遂げた国だ。最大の改革はそれまでの緩やかな王政を、皇王に権限が集中するように中央集権国家へ移行したところにある。改革を主導したのは黒衣の人と呼ばれる宮廷魔術師で、誰も思い付きもしなかったような制度を導入していた。
そして、大きな改革には必ず抵抗する守旧派が存在するのも、人の世の常である。各地で既得権益を守ろうとする貴族の叛乱が発生し、聖皇国は大規模な内乱を経験した。その内乱を乗り越え、聖皇国は中央集権国家として再出発したのだ。
改革の根幹として位置付けられているのが教育制度である。国民に教養を与えることで法令の遵守を定着させ、国の活力を増進させるのが目的である。教育機関の中心であるセントラルガーデンの入学時期は個人の裁量に任されていた。定期的に実施されている入学試験に合格さえすれば、合格証の有効期限の内に通学を開始できる。ルディはその入学試験を受け、合格通知が届いたのは一昨日だった。
彼女たちが馬車に乗り込むと、周囲を十人の武装した男たちが警護に就く。聖皇国は内乱を鎮圧し新たに任命した支配階級の貴族たちが領内の治安回復に努めているものの、各地には叛乱軍の残党が山賊として散らばっていた。
ハルテン商会、フレグランス家の営む商会は、内乱で急成長した経緯がある。先代の会長で創業者でもあるルディの祖父は食品や生活必需品のみを扱っていたのだが、現在の会長であるルディの父が武具を売買して巨万の富を築いていた。内乱の時に結んだ王宮との関係が、以後も武具や食品などを納入する関係として存続し、商会は聖皇国を代表する存在に近くなっていた。
だからこそ、その存在に恨みを持つ没落貴族も多い。フレグランス家でもその辺りの事情を理解しているので、護衛の戦士たちを雇ったのだ。更に不自然に見えないよう、普段から使用している荷馬車の隊列と共に移動するほどに警戒していた。
父母に見送られて、馬車が出発する。大きな商談がなければ商会の業務は従業員に任せて親子揃っての移動になるのだが、王宮関連の取引でどうしても立会が必要であったために祝賀会の主役であるルディを先に出発させなければならなくなっていた事情があった。
彼女たちを乗せた馬車は軽快に進む。フレグランス家の本邸があるパーシモンまでは徒歩移動の場合、皇都から北東へ二日ほどの距離にあった。東公と呼ばれる公爵の配下、ライアー伯爵領の辺境付近にある田舎だ。そのライアー伯爵も一族の男爵に統治を委任しており、聖皇国の支配体制の複雑さを垣間見せる。ルディの祖父がそのような田舎の村を本邸としているのは清らかな湧き水が得られるからという理由と、広大な農地を保有しているからだ。ハルテン商会の主力商品は今でも、食品関連である。
「お祖父様とお祖母様に会うのも久しぶり」
「大旦那様にお会いになられましたら、挨拶をお忘れなさいませんようにお嬢様」
「分かってるわよ」
家庭教師に言われて、ルディは頬を膨らませた。彼女はちょっとした反抗期だ。父母の前では良い子を演じているが、気心の知れた家庭教師には素のままを見せる。
「お嬢様の自由で朗らかな性格を大旦那様が容認しておられるとは言え、親しき仲にも礼儀ありと申します」
クドクドと説教じみた事柄を繰り返す家庭教師に対して、ルディは頬を膨らませたままプイッと別方向へ顔を向ける。車窓からは街道沿いの並木と、その木立の上で何かが光ったのが見えた。
「……ですから、お嬢様……。聞いていますか?」
蕩々と講釈を並べていた家庭教師は、そこで話を聞いている素振りが見えないルディに気付いた。
「はいはい、分かってるわよ。親しき仲にも礼儀あり。礼儀作法を修めて美しい所作を身に着けることが、私自身の魅力を引き立てる、でしょ?」
「……ご理解頂けていらっしゃるなら、これ以上は申し上げる事柄もございません」
こまっしゃくれた返答をした幼女に対して、家庭教師は些かムッとした表情で口を噤ぐ。順調に進む隊商は、そろそろ王室直轄領からライアー伯爵領に差し掛かる頃合いだ。
「ライアー伯爵は叛乱軍と融和を進めていると言われていますが……」
家庭教師がポツリと呟く。ルディはその呟きが何を意味するのか理解できなかった。
「早くお祖父様に会いたいな」
無邪気な笑みを浮かべるルディ。彼女は祖父が大好きで、祖父母もまた彼女を特に可愛がっていた。上に兄姉がいるが、末っ子というのも影響しているのか猫かわいがりと言っても過言ではない祖父の溺愛ぶりは近隣でも有名だ。それ故に事情をよく知っている者は彼女に危害を加えようとは考えもしない。もしも彼女に危害を加えるようなことになれば、フレグランス家を敵に回すのと同時に、経営する商会の人脈を最大限に活用した包囲網を形成されるのは火を見るより明らかだからだ。




