十二月(しはす)
「師走」の語源には、平安時代に「この時期、僧侶が忙しく走り回ることを『師馳せ』といった」ことから、この字が使われるようになったという説があるようです。
一方で、奈良時代成立の万葉集の中には「十二月には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含めらずして」という歌がありまして、すでに「十二月」と記述されていることから、現在、一般的な「師走」は、先の「仏教云々」による「当て字」という説が有力となったようです。
ちなみに、この和歌を一行目と二行目に、引用とまではいかないのですが、引用気味に使用させていただきました。
万葉集の時代に、すでに使われていた「しはす」の語源は「歳果つ」や「為果つ」ではないかと考えられているようです。
ということもあって、とりあえず、ここでは「十二月」を使わせていただきました。そして、文中に「為果つる(=し終える)」を使用させていただいています。
前書きとしては、ちょっと理屈っぽ過ぎですね。申し訳ありません。
仕舞いの月の冷たさを 知らずもあらじ、梅の花
含む蕾は、想い咲く 日をば、しずかに待ち詫びる
仕舞いの月を、幾たびか 過ごしてみても、咲けば散る
その理の外にあり きみに、想いは咲き続く
仕舞いの月に、この想い 何処に仕舞うか悩んでは
この手に残る、暖かき きみの記憶が邪魔をする
仕舞いの月に仕舞えずの 想いを宙に飛ばそうと
見上げる夜は澄み渡り 星の間も見つからぬ
仕舞いの月を迎えても 為果つることも叶わずに
きみを想えば、一年の 花は、こころを咲き続く
前書きの和歌の大意は「十二月に雪が降ることを知らないのだろうか。梅の花が咲いている。蕾のままでいればいいのに。」位のようですが、裏読みの意味があるようです。
「冷たい男に出会うことになるとわかっているのなら、もう少し少女のままでいればいいのに、なぜ、妙齢の女性に変わっていくのだろう」的な意味合いのようです。
ちなみに、作者は紀少鹿郎女という女性の方です。ご自身も、若い女性のようです。ご自身のことを、梅の花に託してお詠みになられたのかもしれませんね。