初恋は実らない
「あら、いいんですか? 行きたいです」
女がにっこり笑ってそう言ったので、ほっとする。
「あたし、ミオって言います。あなたは?」
「華恋……。ミオさん、よろしく」
「せっかくなんだし、敬語やめません? 華恋ちゃんが嫌じゃなければだけど」
ミオは愛らしく首を傾げた。それが眩しくて、私は言葉の意味も考えずに頷いていた。
「ミオちゃんでいい?」
「ミオでいいよ」
「じゃあ私のことも華恋って呼んで、ミオ」
「もちろん。華恋」
優しい響きにうっとりする。私は切符を差し出した。
「電車で来たの。ミオの分のお金は出すから」
「それじゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
ミオは白くて細い指で切符を受け取ると、急に側に寄ってきて私を日傘の中に入れた。日傘の中は意外と涼しくて、快適だった。ミオが汗をかいていないのも頷ける。
「この日傘涼しいでしょ。このまま駅に行こうよ」
「うん……」
夢のようだった。ミオの日傘の中だけ、おとぎの国に繋がっているような気がする。熱いアスファルトの地面も、夏らしく青々と生い茂った草木も、無機質な建物でさえもロマンチックな世界を演出していた。ミンミンゼミがけたたましく鳴いていて、通りがかる建物の中から子供を叱る声が聞こえてきたりするけど、それも何かの物語に入ったようだ。
「お姫さまになったみたい……」
思わずそう呟いてしまう。隣でミオが笑う気配がした。優しい微笑みの音。
「ねえ、初恋は実らないって言うけど、なにが実るの基準なんだろうね」
ミオは困り眉をしている。そのうるうるした茶色い瞳には、私が映っていた。
「華恋、私ね、初恋の人が女の子だったの」
一瞬の静寂。私は頷いた。
「小六の夏だったかなあ。どれだけアタックしても、私は女の子だから親友止まりでね」
ミオの目は遠くを見ていた。私を見つめながらも、私じゃない、ほかのなにかを見ている気がする。
「新しくできたデパートに一緒に行ったんだ。それで、トイレ行ってくるって言われたから、私は近くのベンチで待ってたの。そしたら私、その子がいなくなったら急に気持ちが溢れちゃってね。私はこれをデートだと思ってるけど、向こうはなんにも思ってないんだろうなって思って、一人で泣いたの」
ミオの声は平坦な、無機質な感じになっていった。相変わらず、ミンミンゼミがけたたましく鳴いていてうるさい。私達の会話を邪魔しているみたいだった。
「帰り道ね……、今日と同じくらい暑くて、セミがうるさかった。二人で普通の傘をさして、日傘の真似っこをしてたの。それで私、告白した。
そしたら『私も好きだよ』って言うの。きっと恋愛的な好きじゃないんだろうなって思って、そこから先は何も言えなかった。田舎だったから、下手に言ってフラれたら、次の日には村中に伝わるって分かってたのもあるけど」
「……それで、諦めたの?」
ミオは頷く。
「うん。その子を待ってる時に流れてた曲、今も覚えてるんだよ。おかしいでしょ……。ずっと忘れられないんだ」
胸のあたりがつっかえて、喉がきゅうっとする。痛いほど共感しているのに、何も言えない。自分の不甲斐なさと言語力の無さに、嫌気が差した。
「……おかしくないよ。なんにも……」
「ごめんね、こんな話しちゃって。反応に困るよね」
「違うの。私が思っていることを言葉にできないだけ」
「この話ね、人に話したの初めて。聞いてくれてありがとう」
「そうなの? なんで私に?」
「華恋が嫌な理由かもしれない」
「いいよ、初対面だし」
「……顔が似てたから」
私は笑ってしまった。それを見て、ミオは困惑している様子だ。
「それなら仕方がないって。もしミオが嫌じゃなければさ、駅に着くまでミオのこれまでのこと、聞かせてくれない? 電車の中では私のことを話すから」
「もちろんいいよ。それじゃあ、次は私が中学の時好きだった人の話ね……。
その子は目が大きくて、鼻も口もちっちゃくて、すんごく美人だった。黒い髪の毛は柔らかくって、お姫様みたいな子だったんだ。でもその子は性格が悪くてね」
ミオが面白そうに笑う。
「それでもやっぱり大好きだったの……。素直に褒めてくれなかったり、意地悪されたりもしたんだよ。だからこそ笑った時の可愛さが際立ってね。思春期だったし、その子も心の内でもやもやした黒いものが渦巻いてたんだと思う。時折ため息を吐いたり、弱音を吐いたりしてた。ほら、牛乳って腐りかけが美味しいでしょ? そんな感じで」
「腐りかけのその子に惹かれたってこと?」
「言っちゃ悪いけど、そんな感じ」
「それでその子は、どうなった? ……その、腐り切っちゃったり……」
「そうだねぇ、高校は別だったんだけど、久々に会ったらすっかり毒が抜けて、ただの小悪魔っ子になってた。それもそれで可愛かったけど、前みたいな危うい魅力が無くなってたんだ。それですっかり冷めちゃった」
「……そういうのはちょっと分かるかも」
「なんかあざとくなっちゃったんだよね。私は前の媚びない感じが好きだったの」
ミオはため息を吐くと、片手で髪を撫でた。
「ねえミオ、私、初恋は実らないって、迷信だと思うよ」
「迷信?」
「実るっていうのが告白して付き合えるとか、それとも結婚を指しているのかは分からないけど。でも付き合ったって別れる人もいるし、結婚したとしても離婚したりするんだから、それを実るって言えるか聞かれたら、よく分からない。その時実ったと思ったとしても、その後不幸のどん底に落とされれば、やっぱり『初恋は実らないものなんだな』って納得しちゃうでしょ」
「ま、まあ」
「結局、実ったか実らなかったかなんて死ぬまで分からないんじゃないかな。――あっ、でも、死で二人が別れることも破局とするなら、実ってないことになるか。……だからさ、そんな曖昧な迷信信じなくていいと思うよ」