後編
「奥様、今朝森を散歩していたら、とっても面白いものを見つけたんです! この後、一緒に見に行きませんか?」
悪戯っぽい笑顔でそう提案して来たのは、体調不良をつわりと気づかず、気分の悪さに苦しむ私を優しく気遣ってくれた、あの新人メイドのニーニだった。
彼女はマイト様と同い年の二十二歳。メイドの中では一番年も近いし、何よりもその気さくな雰囲気で私は彼女に友情のような感覚すら覚えていた。
だから、何一つ疑う事などなかったのだ。
「面白いものってなぁに?」
「それは行ってからのお楽しみです。どうします?」
「それはとっても興味があるけど……でもこの後、お義母様をお茶にお誘いしようと思っていたの」
「それは戻って来てからになさっては? 早くしないと無くなってしまうかもしれませんよ?」
結局私は、好奇心に勝てずニーニと一緒に森へと向かったのだった。
──ニーニは嘘をついてはいなかった。森には確かに『面白いもの』があった。愛する人を不幸のどん底に引きずり下ろしておいて「幸せだ」と笑う、愚かで滑稽な生き物が、そこにいた。
◇
私はニーニの後について歩いていった。少し崖の方に近づき過ぎていている気がする。
「ねぇ、ここは少し危険じゃないかしら。貴女、こんな所を散歩していたの?」
「はいそうですよ? って言うか、危険な場所を探す散歩だったんで」
「え……?」
言われた言葉の意味が一瞬分からず、私は思わず立ち止まってしまった。次の瞬間、物凄い勢いで振り返ったニーニが、私をいきなり突き飛ばした。全く予想していなかった私は、無様に地面に転がってしまった。
「な、何をするの!?」
「何を、ですって? アンタ、逆に自分が何をしたか忘れたの!?」
「わ、私が何をしたか……?」
何をしたかって言われても、私が一体何をしたと言うの?
「アンタの我が儘のせいで、ルミお嬢様はボロボロに傷ついたの! 可愛がってたアンタに裏切られたお嬢様の気持ちが分かる!? 公爵令嬢だからって何よ! この裏切り者!」
私は次々とぶつけられる激しい言葉に、何も言い返す事が出来ないでいた。何の話なのか、本当に分からなかった。ただお腹の子が気になり、恐怖から反射的にお腹を両手でかばった。
「……マイト様もお辛かったでしょう、アンタなんかと夜を共にするなんて地獄の苦しみだったに違いないわ。お立場上お子を作らざるを得ないんでしょうけど、アタシはそんなの許せない。だからメイドとしてメヒライネン家に入り込んだの。ふふ、馬鹿なお嬢様。妊娠中に迂闊に森に入り込んで子を失ったとなったら、メヒライネン家もアンタを離縁せざるを得ないでしょうね?」
「子を、失う……?」
そこでメイドは高らかに嗤った。
私は思わず後退った。笑い終わった顔は、一転して憎悪の表情に満ちている。そこには、体調不良をつわりと気付かず苦しむ私を優しく慰めてくれた、あの優しいニーニの姿はどこにも見当たらなかった。
「教えて。どういう意味なの? ルミ姉さまは一体はどうなさったの?」
ニーニは顔を歪め、ペッと唾を吐き捨てた。
「まだ惚けるつもり? アンタが邪魔をしたんでしょ!? ルミお嬢様とマイト様の結婚を、横から入り込んでぐちゃぐちゃにしたんじゃない!」
「……結婚? ルミ姉さまとマイト兄さまが……? 嘘でしょ……? だって、お二人は、兄妹……」
心臓が痛い。この先を聞きたくない。私はそろそろと両手を耳に持って行った。けれど、その手を途中で止めた。怖い。けれど聞かなければならない。そんな気がしたからだ。
「嘘じゃないわ。だってマイト様は養子でルミ様とは血が繋がっていないもの。ヤロキヴィ伯爵はルミ様とマイト様が想い合っていることにお気づきになられたの。でもお二人は義兄妹。だから伯爵は複雑な手続きを踏み、マイト様をご友人でもあるメヒライネン家の養子に出されたの。メヒライネン家にはお子がいない。そしてマイト様は後継ぎには申し分ない。ヤロキヴィ家にはルミ様しかお子がいらっしゃらないけど、生まれた子の一人をヤロキヴィ家の後継ぎにする話までまとまっていた。後は、ルミ様の十五歳のお誕生日にそれを発表するだけだったのよ!」
「そ、そんな……」
メイドは悔し気に唇を噛んだ後、私の方を見て嘲笑うような顔を見せた。
「アンタ、まさか自分が愛されているとでも思ってたの? そんな訳ないでしょ。 そうそう、初夜の前に宝石箱を貰った? 能天気なアンタはあの中に宝石が入っていると思ってるんでしょうけど、あの中に入っているのは“陽炎蜂”よ。知ってるでしょ? このメヒライネンの家紋にも使われているものね?」
──陽炎蜂。この双頭の蜂は、暗闇を好み水気を嫌う。左右の頭で魔力を分け与え合う事が出来る為、飲まず食わずでも十年は生きると言う猛毒の蜂。刺されると焼かれた様な痛みが走り、十分もしない内に死に至る。解毒薬は存在するが、投与が遅れると両目の機能が狂い夜間しか目が見えなくなってしまうのだ。
故に、『影牢蜂』とも呼ばれている。
「マイト様が、私に陽炎蜂を……」
「五年後の、夫婦の絆を再確認する儀式の時にアンタは死ぬの。可哀想ね、そこまで憎まれて。でも、アンタに相応しい末路だと思わない? ホントはコレ黙ってなきゃいけないんだけど、万が一マイト様が刺されても困るでしょ?」
そう言うと、ニーニは私の前にしゃがみ、肩をドンと押した。
丈の長い草で分からなかったが、私はその時点で崖の縁にいたらしい。悲鳴を上げる暇も無く、私は崖の下に転落をして行った。
◇
「キルシッカ! 大丈夫か!?」
マイト様が、私を心配そうな顔で見ている。目線を動かすと、泣き腫らした顔の義母と目が合った。
「あ、私……」
「森の中に入って何をしていた!? 身重の身体で、何でそんな馬鹿な事をしたんだ!」
──馬鹿な事。そう。私はずっと、馬鹿な事しかしていなかったのよ、兄さま。
「赤ちゃんは……」
「ともかく、今は休め。わかったな」
「兄さま。私の子供は、どうなったの?」
兄さまは苦い顔で、何も答えてくれなかった。
そこで私は、己の罪がもう一つ増えた事を悟った。
◇
崖はそれほど高くなかったらしい。私自身は擦り傷と打撲しか負っていなかった。ニーニは、私を殺す気までは無かったのだろう。けれど見事に、それよりも辛い目に遭わせてくれた。
彼女は未だに屋敷でメイドとして働いている。私が兄さまに自らの浅はかさを詫びている間、信じられないものを見る目で私の事を見ていたのが少しおかしかった。
「何でアタシの事を言わなかったの? アタシはメヒライネン家の後継ぎになるかもしれない子供を殺した女だよ? 恩でも売ったつもり? 馬鹿なの?」
私はゆるゆると首を横に振った。残念な事に、私は離縁して貰えなかった。義両親もマイト様も、私を労わりこそすれ、責める事など全くなかった。
「必要なの、貴女が」
「アタシが?」
「そう。私、五年目の結婚式をした日までは頑張って生きるわ。その後は、陽炎蜂に身を任せるつもり。その方が兄さまもお喜びになるのよね? 幸せだと私が思っている時に、死ぬのが一番良いんでしょ?」
「いや、それは……」
ニーニはなぜかたじろいでいる。おかしな人。望み通りになるというのに、何を躊躇う必要があるの?
「それまでは私に協力して。これからは絶対に子供を作る訳にはいかないの。そういうお薬の手配とかお願い出来る?」
「あ、まぁ出来るけど……」
「じゃあお願い。それと、子供を殺したのは貴女じゃないわ。私よ。だから気にしないで」
私は決めた。三年後、私は死ぬ。それまでは、吐き気がするほどの後悔に苦しみながらも、精一杯幸せを演じて生きよう。その方が、兄さまも姉さまも喜んでくれるはずだから。
********
宝石箱の蓋が開いたと思った瞬間、首筋に火矢を撃ち込まれたかのような痛みが走った。
私はその痛みと衝撃に、宝石箱と鍵を取り落としてしまった。あっという間に沈んでいく、箱と鍵。私はそれを見ながらニーニの事を思った。彼女は何を考えていたのか、いつの間にか宝石箱から鍵を外しどこかに隠してしまっていた。万が一にも宝石箱が開けられたりしないよう防御魔法をかけていたのに、肝心の鍵を取り外す分には問題が無かったらしい。
『鍵をどこへやったの? 返して』
『もう良い! もう良いの奥様! マイト様……旦那様は奥様をちゃんと見てます。それと、アタシの勘では陽炎蜂を仕掛けたのは恐らく旦那様じゃない。ルミ様も結婚が決まって今はお幸せそうですし、結婚式が終わったらアタシはちゃんと責任を取るつもりです』
責任も何も、ニーニが気に病む事はないのに。私はそれだけの事をしたのだから。
──けれどその言葉通り、姉さまの結婚式の日の翌日、ニーニは森の中で毒をあおっていた。
側には、己の罪の告白と宝石箱を処分して欲しい、と書かれた手紙があった。それと共に、黄金の鍵も。私はその手紙を握りつぶし、鍵を胸元に入れて隠した。
ニーニの亡骸は祈りを捧げた後、魔法で跡形もなく燃やし尽くした。残ったのは僅かな灰。それをかき集め、姫林檎の木の下に埋めて小さなお墓を作った。
何となく嫌な予感がしていた私は、ニーニに追跡魔法をかけていたのだ。だから彼女の遺体を誰よりも早く発見する事が出来た。
私は順調に罪を重ねて行き、今こうやって裁きの時を迎えている。
「キルシッカ!?」
「あぁ嘘、嫌よキルシッカ!」
兄さまと姉さまの声が、遠くから聞こえる。けれど、もう身体が動かない。私はほとんど沼に沈み、顔も半分泥に埋もれてしまっていた。
それでも最後の力を振り絞り、片目で二人の姿を見た。私の願望がそうさせるのだろう、二人が近づいて来るように見える。
ルミ姉さま、泣いてるの? 私の髪を撫でているのは、マイト兄さま?
ううん、そんなはず、無い。お二人は私を、心から憎んでいるはずだから。
幸せになってね。ごめんなさい。許して。お願い。今度はちゃんと、お二人を応援するから。ううん、お二人の前には現れないから。だから。
──だから、また、あの頃みたいに、笑って。