中編
私の願いという名の、我が儘を聞いた父の行動は早かった。あっという間に私とマイト兄さまの婚約は調い、ルミ姉さまのお誕生日パーティーの三日前に急ぎ顔合わせが行われる事になった。
私はお茶会に招かれた時以上に落ち着かなくて、ずっと鏡の前でそわそわとしていた。兄さまと結婚したいという願いは確かに本物だったけど、まさかこんなに早く実現するとはさすがに思ってもみなかったのだ。
「旦那様、お嬢様。マイト・メヒライネン様がお見えになりました。ただ、その……」
「何だ? ともかくすぐにお通ししなさい」
「かしこまりました」
初老の執事は戸惑ったような顔をしながらも、急いで玄関に向かっていく。私はいつも冷静な執事の珍しい姿よりも、別の事が気になっていた。
「……メヒライネン? どうして? だって兄さまはヤロキヴィ家の──」
──私はその先を言う事なく口を噤んだ。父さまの横に寄り添っている母さまが、何とも言えない顔で私を見ていたからだ。怒っている風でもなく、呆れた顔でもない。
ただ、見た事も無い悲しそうな顔をしていた。
母さまには見えていたのだろう。幸せな結婚生活どころか、愛する人達に尽く憎まれ蔑まれ、一人孤独に踊り続ける、私の哀れで滑稽な未来が。
◇
ゴンゴン、という些か乱暴なノックに、私の側に控えていたメイドが微かに眉をひそめていた。続いて聞こえる、押し殺したような低い声。今まで聞いた事のない兄さまの声音にも、私は全く気づいてはいなかった。
「……マイト・メヒライネンです」
「どうぞ」
父さまの入室を促す言葉に次いで入って来たマイト兄さまは、魔術師の正装である紫のローブを身に着けてはいなかった。代わりに実験や薬草の採取時に着る埃まみれの灰色のローブを着ていた。私は少し驚き、父さまはひどく不愉快そうな顔になっていた。
「メヒライネン家では、礼儀は教えていなかったようだな」
「……礼儀? それを貴方が仰るんですか? ヴァロ公爵」
父さまと兄さまの会話の意味がわからない。私はその場に漂う緊張感に、ほんの少しだけ不安な気持ちになっていた。
「マイト兄さま!」
それでも兄さまに会えたのが嬉しくて、私は兄さまの方に向かって駆け出した。きっと兄さまは学校から急いで来て下さったのね。だから着替えもしていないし、ちょっとイライラしてらっしゃるんだわ。
「兄さま、来て下さってありがとう。あのね私、ずっと兄さまと──」
「満足か?」
「……え?」
いつも穏やかな兄さまの口から、氷のように冷えた言葉が発せられた。私は思わず身体を竦ませた。よくよく見ると、兄さまの牛乳色の髪はぐしゃぐしゃに乱れ、紅玉の瞳は暗く淀んでいる。そこには、いつもの優しい兄さまはどこにもいなかった。
「子供だと思って甘く見ていたな。さすがに公爵令嬢といった所か、感情を隠すのが本当に上手い。まさかお前がここまでルミを嫌っているとは思いもよらなかった」
「嫌う? そんな、私は姉さまを嫌ってなんか……!」
私が姉さまを嫌うなんてあり得ない。姉さまは私の憧れでマイト兄さまの次に大好きで大切な人なのに。
「嘘をつくな!」
「……っ!?」
聞いた事も無い兄さまの怒鳴り声。動く事も出来ず、身体を震わせる私の元に母さまが慌てて駆け寄って来てくれた。私は母さまの腕に抱かれたまま、その場を後にした。
だから、兄さまと父さまの間でどういうやり取りがあったのかはわからない。けれどその後すぐ、私となぜかメヒライネン家の養子になっていたマイト兄さまは、正式に婚約を交わした。
結婚式は二年後、私が十四歳になってから執り行われる事になった。マイト兄さまは学校を卒業された後は魔術師として忙しく働いていらっしゃったから、ほとんどお会いする事は出来なかった。私はあの時兄さまに言われた事の誤解だけは解こうと、ルミ姉さまの事を嫌ってはいない、といった内容の手紙を急ぎ書き送り、その後はずっと幼い頃からの兄さまへの想いをこまめに手紙に綴っていた。
ルミ姉さまは、体調不良が続いていると聞いた。何度かお見舞いに行こうとしたけれど、それは母さまに止められてしまった。一度こっそりと行こうとしたけれど、家に帰って来ていたルスカ兄様に見つかりこっぴどく叱られてしまった。それからは、手紙を書くだけに留めている。
不思議な事に、兄さまからも姉さまからも一度も返事が来なかった。けれどその理由に気づく事もなく、私は大好きな二人にせっせと手紙を書き続けていた。
──ルミ姉さまのお誕生日パーティーは、結局開催される事はなかった。渡すはずだったプレゼントは、今でも私の部屋に大切にしまってある。
◇
結婚式の日も、ルミ姉さまは出席出来ないご様子だった。体調はすごく心配だったけれど、それよりもようやくマイト兄さまと夫婦になれる喜びの方が上回っていた。
マイト兄様は結婚式用の金糸で刺繍の施された白銀のローブに身を包み、溜息が出るほど素敵だった。誓いの署名をしている時、ふと視線を感じて横に立つ兄さまを見た。私を見つめる兄さまの紅玉の瞳は相変わらず穏やかさの欠片も無かったけれど、久しぶりに私を見てくれて嬉しかった。
兄さまは疲れているのだ。魔術師の世界は足の引っ張り合いだと父さまが仰っていたし、これからは私が支えなくては、と心に固く誓っていた。
◇
「キルシッカ。これを受け取れ。分かっているだろうが、開けて良いのは五年後の結婚式の日だ」
「はい! ありがとうございますマイト兄さま! ……あ、違ったわ、マイト様って呼ばなくては」
──わが国では結婚式の夜、初夜を共にする前に夫が妻に宝石箱を贈る習わしがある。中には妻の瞳に合わせた宝石が二つ入っている。それを結婚五年目に夫婦二人で開け、中の宝石を髪留めや首飾り、指輪や腕輪に加工して互いに身に着けるのだ。
私の髪色は桜桃色だけど、瞳は濃緑色。中に入っているのはきっと、翠玉に違いない。それは私の大好きな宝石だ。正直、婚約期間中の兄さまの態度から、この宝石箱を貰えるのかどうか不安に思っていた。けれど、兄さまは妻の私にちゃんと贈って下さった。
嬉しくて宝石箱を撫で回す私の手から、兄さまは箱をそっと取り上げた。それを机の上に置いた後、私に覆い被さって来た。紅玉の瞳は、私を真っすぐ見つめている。
よくよく見れば、その瞳に私への愛情など欠片もない事はすぐにわかっただろう。けれど恋の成就に浮かれていた私に分かるはずも無かった。
──そして迎えた初夜。初めての時には痛みを伴うと聞いていたけれど、ここまでの痛みだとは思ってもいなかった。それが碌に慣らして貰えなかったせいだという事にも、初夜を終えた後の妻を気遣う事もなく、夫が寝室を出て行くというのがいかに異常であるのかも、愚かな私は気づく事もなかったのだ。
◇
メヒライネン家での生活は、最初は少し苦労をした。実家のように衣装選びや髪結いをメイドがやってくれる事はなく、全部自分でやらなくてはならなかったからだ。
けれど、それも新鮮で楽しかった。衣装選びは自分でやった方が早い事に気づいたし、髪結いも得意なメイドに頼み込んで教えて貰った。上手に出来た時は、教えてくれたメイドに見せに行きお礼を言った。
結うのが面倒な時は髪留めだけで良いし、私は一人で楽しんでいた。
その内、なぜかメイド達がやってくれる様になった。私は自分で出来るようになったのだし、楽しいのだから大丈夫よ、と言ったのに、彼女達は「申し訳ございませんでした奥様」と言うだけでそれからは私にやらせてくれなくなってしまった。
今、メヒライネン侯爵として世間に出ているのはマイト様だけど、前侯爵ご夫妻も屋敷の中で同居をしている。けれど私が幼過ぎるせいなのか、侯爵夫妻にはあまり話しかけて貰えなかった。
夫であるマイトは本当にお忙しく、ほとんどお屋敷にはお帰りにならなかった。それが寂しかったのもあるけれど、何よりもせっかく家族になったのだ。だから、何かとご夫妻に話しかけ、交流を持とうと日々頑張っていた。
──そして結婚してから二年が経ち、私は十六歳になった。
その頃には義両親との交流も増えていた。夫妻は私をまるで本当の娘のように可愛がって下さり、私はマイト様の居ない寂しさを時折忘れるほどだった。
そのマイト様も、お屋敷に帰って来られる回数が増えて来ていた。私は嬉しくて、はしたないとは思いつつもお帰りになる度にマイト様に抱き着いて喜びを表していた。
初めこそ迷惑そうにされていたものの、近頃は頬にキスをしてくれるようになった。夫婦の営みも、痛みを感じるような事は一切無くなったし、朝目覚めると隣でマイト様が寝息をたてているようにもなった。
──私は、このまま愚かな自分でいたかったとは思わない。真実を知る事が出来て良かったと、心から思っている。けれど、私が無知で愚かでさえなかったら、そもそもあの子を失う事はなかった。
◇
「え!? キルシッカ、本当!?」
「はいお義母様。ここの所調子が悪かったので、お医者様に診て頂きましたの。そうしたら、懐妊の兆しだと言われましたわ」
「あぁ良かったわ! おめでとうキルシッカ!」
「はい、ありがとうございます」
この一週間くらいずっと、吐き気やめまいに悩まされていた。単に疲れているのだろうと思っていたけれど、最近雇われたばかりの新しいメイドが気づきお医者様を呼んでくれていた。そこで、私の懐妊が発覚したのだ。
「マイトに連絡はした? 急ぎ手紙を出しなさい。あの子も飛んで帰って来ると思うわ」
「いいえ。お帰りになってからお伝えいたします。直接報告したいんですの」
義両親は少し渋い顔をしていた。でも私は自分で言いたかったのもあるし、何よりもお仕事の邪魔をしたくなかった。
──私の判断はいつも間違っている。次の人生では、ちゃんと人の話に耳を傾ける事の出来る賢い女性に生まれ変わりたいと、心から思う。