前編
今朝はものすごく早く目が覚めた。
大好きな従姉妹のルミ姉さまにお茶会に招待された日だからだ。私は起きた後もずっとそわそわとしていて、何度も部屋付きのメイドに注意をされていた。
「キルシッカお嬢様、少し落ち着いて下さいませ。お髪にリボンがつけられませんわ」
「待って、駄目よ! 白のリボンが良いわ。ルミ姉さまとマイト兄さまのお色だもの」
「いいえ。今日のお洋服と合わせますと、お嬢様の桜桃色の髪にはこの緑のリボンがお似合いです」
メイドのスオラににべもなく言われ、私は頬を膨らませた。このスオラは双子で、弟のソケリは執事見習いをしている。ソケリは優しくて私には甘いのに、スオラはとても厳しいのだ。
けれど、スオラの言う事は正しい事が多い。いや、ほとんど正しい。だから私は大人しく緑のリボンを結んで貰った。
「スオラ、スオラ! 私変じゃない? 大丈夫?」
私はスオラの前でクルリと一周回って見せた。そして姿見を横目で見ながら、やっぱりスオラの言う通りにして良かったと思った。
「えぇ、大変お可愛らしいですわ。これならきっと、ヤロキヴィ家次期伯爵様も褒めて下さいますよ」
「ありがとう! マイト兄さま、可愛いって思って下さるといいな」
私はスオラにお礼を言うと、すぐさま身を翻して玄関へと走った。後ろからメイド頭のお小言が聞こえる。けれど、私は振り返らなかった。
◇
従姉妹のルミ・ヤロキヴィは、光を浴びて輝く美しい純白の髪をしている。透き通るような白い肌に睫毛の長い大きな目。その瞳は薄桃色で、まるで妖精の様に美しい。貴族令息の間では、密かに『雪の聖女』と呼ばれている。
その兄、マイト・ヤロキヴィは同じ白い髪でも従姉妹の輝く白とは少し違った。まるで搾りたての牛乳のような髪色で、肌は従姉妹と真逆の珈琲色。瞳も紅玉のように紅く、お顔立ちは美しいけどどこか冷たそうに思われる事が多い。
とても良く似ているようで、全く似ていない二人。
それもそのはずで、マイト兄さまはヤロキヴィ家の養子なのだ。ヤロキヴィ家にはルミ姉さましかお子が居ない。おばさまはルミ姉さまを産んだ時に体調を崩されたせいで、二度とお子が産めなくなってしまった。
そんな時、当主であるおじさまが尋常ならざる魔力を持つ孤児が居るという噂を聞きつけた。またそれが見目の良い子供でなおかつ都合良く「白髪の子」だった。そこでおじさまは、後の為にマイト兄さまをヤロキヴィ家に引き取られたのだ。
その時、マイト兄さまは五歳でルミ姉さまは二歳。私はこの一年後に生まれる事になる。
兄さまと姉さまの肌の色の違いに関しては、他者には『一族には時折こういう肌色の者が生まれる』と説明していた。だから私も、二人は実の兄妹だと信じきっていた。無論、私の両親は事実を知っていたのだが、幼い私に説明する必要は無いと思っていたらしい。
私が二人が実の兄妹ではないと知ったのは、随分と後の事。全てが手遅れになった後の事だった。
◇
「姉さま! 兄さま!」
私はヤロキヴィ家に到着するなり、中庭に向かって走った。行儀が悪いのはわかっているけれど、一刻も早く二人に会いたかった。
「キルシッカ! 走ったりしては駄目よ? 貴女は公爵令嬢なのだから、もっとおしとやかに」
ルミ姉さまはそう言いながらも、私を優しく抱き締めてくれた。私の大好きな姉さまの笑顔と、姉さまの香りに顔を綻ばせていると、後ろから頭をポンと叩かれた。
「ルミの言う通りだな。お前はもう十二歳で立派な淑女なのだから、ふさわしい行動というものをとらなくてはいけない」
「マイト兄さま!」
私は慌てて姉さまから離れ、抱き着きたいのを我慢しながら大好きな兄さまに向かってご挨拶をした。十八歳になった兄さまは普段は私のお兄さまと同じ寄宿学校に入っている。今は長期休暇でお屋敷に戻って来ていらっしゃるのだ。
姉さまと兄さまに初めて会ったのは私が五歳の時。実の兄であるルスカよりも優しくて格好良いマイト兄さまに私は幼いながらも一目惚れをしてしまった。その時から会う度に好意を伝えていたけれど、兄さまは本気にしてくれてはいなかったように思う。無理もない。十歳にも満たない幼女の『好き』という言葉にどれほどの信憑性があるというのだろう。
中庭に用意されたテーブルの上には、私の大好きなお菓子がたくさん並べられていた。私は歓声をあげながら席についた。
──こんな時ですら私は気づいていなかった。兄さまと姉さまの座る距離が以前よりも近い事に。二人が見つめ合う回数が多い事に。兄さまの腕にはまっている魔力制御の腕輪に刻まれている家紋が、ヤロキヴィ家のものではなくなっている事に。
「そうだ、あのねキルシッカ。来月の私の誕生日パーティー、招待状はまだ出していないのだけど、貴女はもちろん来てくれるでしょ?」
私は当然、というように頷いた。ルミ姉さまのお誕生日をお祝いする日に出席しない訳がない。
「もちろんよ姉さま! 楽しみだわ」
「あのね、その時に大切なお話があるの。今はまだ話せないのだけど、これだけは言えるわ。きっと、キルシッカも喜んでくれると思うの」
「えぇ!? なになに、教えてルミ姉さま!」
「だーめ。当日のお楽しみよ?」
ルミ姉さまはわがままを言う私を宥めるように撫で、優しい笑顔を向けてくれた。マイト兄さまは困ったような顔をしながらも、私の為にケーキを自ら切り分けてくれた。
穏やかで優しくて、大好きな時間がそこにはあった。
──結局、その『大切なお話』を聞く機会は永遠に来なかったのだけど。
********
そして、運命の時がやって来た。
私にとっては『運命の時』だけど、兄さまと姉さまにとっては恐らく、きっとずっと『呪いの日』。
ルミ姉さまの誕生日まであと半月。私は楽しみで楽しみで、毎晩姉さまにお渡しするプレゼントの包みを眺めながら眠りにつくのがここの所の習慣になっていた。
ある夜の事。何故かその日はどうしても眠れなかった。私はこっそり部屋から抜け出して、屋敷の中をお散歩していた。そして両親の寝室前に差し掛かった時、お父さまとお母さまの話し声が聞こえた。
二人は長く話していたのだろうか。寝室の扉は開きいたままで、中ではメイドがお茶を淹れている。
「まさかいきなり結婚とはな。義兄さんは相変わらず行動が早い」
「そうですわね、兄は昔から思い立ったら早い方ですから。それに、周囲に流布していた事実を覆しても気にする事もないんですから……。お義姉様はもう呆れ果てて何も仰らない事に決めたようですわ。けれど、二人の結婚に関しては異論はないそうなんですの」
「あの膨大な魔力は確かに魅力だからな。後継ぎ問題も血の繋がりが保てる最良の結果になったと言う訳か」
両親の話している内容は、私にはほとんど理解出来ていなかった。ただ、『結婚』という言葉だけが頭の中をぐるぐると回っていた。
私はそのまま、足音を忍ばせて部屋に戻った。そして、ベッドに潜り込みながら考えていた。
結婚。結婚っていうのは、お父さまとおかあさまみたいに好きな人とずっと一緒に居るという事。では、マイト兄さまと結婚したら私は兄さまとずっとずっと一緒に居られる? ルミ姉さまはいつかお嫁に行っちゃうかもしれないけれど、それまでは三人で楽しい時間を過ごせるのではないかしら。
「すごいわ! 何て素敵な考え! 明日、さっそくお父さまにお願いしなきゃ」
我ながら素晴らしい思い付きだ。私はそんな風に思いながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
──私はこの時、もう十二歳になっていたのだ。思慮深い令嬢ならば気づいただろう。我がヴァロ家は公爵家で、母の実家であるヤロキヴィ家は伯爵家。格上の公爵家からの申し出には、いくら身内であっても格下である伯爵家は断る事が出来ないのだという事を。
そしてのちに分かった事だけど、父は私の結婚相手には魔術師の資格を持つ者か魔力の高い者を選ぶつもりだったらしい。我が兄ルスカは剣の腕前が飛び抜けており、寄宿学校では学業のかたわら王太子殿下の護衛も務めている。卒業後は既に騎士団への入団が決まっているほどの逸材だけど、魔力はそれほど高くはない。
自らも魔術師の資格を持つ父は、魔力の高い私に同じく魔力の高い子供を産ませたかったのだ。兄の子と私の子が大成すれば、ヴァロ家の地位は不動のものになるとでも考えたのかもしれない。
どこまでも私に甘かった父が裏でそんな事を考えていたのも、伯父を遥かに凌ぐ性急さと強引さで事を進めて行ったのも、後から聞くとただ驚きでしかなかった。
けれど、親という者は時として、子供には見せられない顔をするものなのだ。それを知っている者は知っているし、知らない者は何かが起こるまで知る事は無くまた知ろうともしない。
この私のように。
◇
「お父さま、お願いがあるの!」
「何だいキルシッカ?」
「私、マイト兄さまと結婚したいわ! ねぇ、良いでしょ?」
翌日。朝食の席で待ち兼ねたように話し出す私に、両親だけでなく給仕のメイド達に至るまで、皆がポカンとした顔をしていた。
「あのねキルシッカ。マイトはルミと──」
「待ちなさい」
やんわりとしたお母さまの言葉を、横からお父さまが遮った。私はその時、少しおや、と思った。
お母さまの声音が、私を窘める時の声に似ていたからだ。けれど、お母さまは黙ってしまった。私はすぐにその違和感を忘れ、お父さまに向かって再度願った。
「私は、マイト兄さまと結婚したいの。兄さまじゃないと嫌よ」
「……本気で言っているのか?」
「当たり前じゃないの!」
お父さまの言葉に、私は頬を膨らませて抗議した。私の王子様はマイト兄さまだけだもの。本気に決まってるじゃない。
「そうか」
「だ、旦那様、まさか!?」
「我が娘キルシッカが望むのなら、それに向けて尽力するのが親の務めだろう? 何か異存でも?」
「……いいえ旦那様。異存など、あるはずもございませんわ」
父は日頃から高圧的な態度を取る事は一切無い人だ。母に対しても、常に穏やかで優しい物腰で接している。けれどそれは『夫』としての態度であって『ヴァロ公爵』としての顔はまた違う。
母もそんな『ヴァロ公爵』の思惑に素早く気づき、『ヴァロ公爵夫人』としての答えを返したのだ。
「わかった。早速ヤロキヴィ家とメヒライネン家に使いを出そう」
「メヒライネン家……?」
──メヒライネン家は広大な敷地を持つ侯爵家で、その敷地の大半は森で覆われている。珍しい植物が群生し、見た事も無い昆虫類も数多く生息している不思議な森。そこはメヒライネン家の意向で、薬師見習いや魔術師見習いの実習のために一部が開放されている。
私も一度、お父さまに連れられて行った事があった。森の入り口、メヒライネン家の紋章が刻まれた門を開けた時の高揚感は、今もよく覚えている。
メヒライネンの紋章。黄金の甲冑を身に着けた双頭の蜂。
なぜ今、メヒライネン家の話が出て来るの?
けれど、私はその疑問を口にはしなかった。もっと他の事に気を取られていたからだ。
私はその紋章をつい最近どこかで見かけた気がしたのだ。けれど結局、その日の内に思い出す事は出来なかった。