08 距離感
サンウォルソールの朝は、今日も相変わらずの熱風が窓から吹き込む事で始まる。
夏の次に秋が訪れ、そして再び夏がやって来て春になるこの地では、暑いかちょっと涼しいのかを一年中繰り返すだけで、四季と言う風靡に季節を感じる習慣は無い。
寝心地の良い夜風が吹くか、又は昼間に蒸した熱風が吹くかの二面性しか持ち合わせていないのだ。
これが地上人最後の楽園ハートリプル半島、その半島の付け根にある、サンウォルソールの街の気候なのだ。
夜に降ったスコールの雨露が、あっという間に蒸発した朝、王立警備打撃群の基地もムンとした湿気に包まれている。
時間を見計らった当直隊員が起床ラッパを高らかに鳴らすよりもはるか前に、ノア・ホライゾンは目を覚ました。
王立警備打撃群の隊舎とは別棟となっている、甲種特殊警備隊の宿舎。その男子棟から出て裏の水浴び場に向かう。
人員が少ない事から、甲種特殊警備隊は男子棟も女子棟も全て個室同然で利用出来る。結果として個人のプライバシーが保障される環境にあるのだが、それでもノアは人目を盗むように周囲に気を配りながら、独りで水浴び場へと赴いた。
ーー寝汗がひどいーー
着ているものを全て脱ぎ捨て、井戸から水を汲み上げてはバシャバシャと頭からかぶる。
うだるような暑さが続くこの地であっても、井戸の水はその冷たさを失う事は無く、ノアの肌に突き刺さるような清涼感を与えて来る。
目も覚めたし、汗だらけの身体もさっぱりしたと、持って来たタオルで身体を拭き始めたところ、思わぬ人物がやって来た。
「やあノア君、おはよう。今日は早いんだね」
現れたのは甲種特殊警備隊のユリウス隊長。
寝ている間に体内に熱がこもっちゃうんだと、ノアを尻目にバシャンバシャンと自分に水をかけ始める。
「どうかね? 甲種は慣れたかね? 」
何度か水をかぶり、ホッとしたところで振り向くと、ノアの姿はもう無い……
「あ、あれ? もう部屋に戻ったのか」
ポカンとするユリウス。
だが、その呆けた表情は次第に険しくなって行く。まともに挨拶しなかったノアに対する怒りではなく、憐憫の表情へと変化したのだ。
何故ならば、彼の裸を目の当たりにして見て見ぬフリをしたが、全身に刻まれたおびただしい数の傷痕が、これまでの彼を無言で物語っていたのである。
「慣れるまでには、時間かかりそうだな 」
ふむ……と、鼻息混じりのため息を吐き終えると、どうしたものかと呟きながら、再び水浴びを始めた。
一方、水浴び場から姿を消したノア。
隊長に自分の身体を見られた事が心理的負担となり、脱兎のごとくその場から逃げ出したのだが、恥ずかしいと言う「羞恥」を理由に逃げ出したのではない。
見られた事に問題があるのではなく、見られた後に何を言われるのかが恐ろしいのだ。
甲種特殊警備隊に入隊して三日目の朝。
ノアは隊長に全身の傷痕を見られる以前に、既に周囲の眼を警戒し始めている。今朝に限って水浴びした理由も、昨日マデレイネやエルフの女王エステルにからかわれた事が発端となり、その警戒心から行動していたからだ。
(ノア君、ちょっと汗臭いぞ。) (ふふ、寝ぐせが酷いぞ少年) (カティはビシっとしてる男の子が好みぞ) など、
決して悪意がある訳ではないのだが、必要以上に注目を浴びている自分に気付いたのだ。
ーー余計な事で悪目立ちしてしまえば、それをきっかけにどんどん質問されるーー
話してはいけないと釘を刺されている部分もあるし、個人的に話したくない部分もある。
沈黙を保つには目立ってはいけないと自分に言い聞かせ、そのために動いていたのである。
本人に原因があるのか、それとも周囲や以前いた軍組織に原因があるのかは現時点では分からないが、そこまでして沈黙しなければならないノアの過去とは一体何なのか?
新しく出会った同僚、つまり仲間たちが差し伸べた手や微笑みをも、頑なに拒み続ける理由とは何なのか?
今は推し量るのは難しいが、決して笑い話になるような愉快で明るい内容ではないのは確か。ノアの瞳と表情が淀みに淀むほどに、闇は深いとしか言いようはなかった。
だが、警戒心剥き出しで他人に笑顔を見せた事の無いノアにも、口元に笑みがこぼれる瞬間がある。
それは朝食、隊員の食堂で提供されるオムレツが気に入ったのか、それを日々の楽しみにし始めたのだ。
水浴び場から逃げ出し、自室に戻ったノアは、隊服に着替えて鏡の前へ。寝ぐせを笑われぬようにとりあえずペタペタと頭を撫で付けて男子棟を出る。
表情は曇ったままでうつむき加減だが、その足取りは小気味良くツカツカと隊員向け食堂へ一直線だ。
食堂内に入ると、起床ラッパが鳴ってから間もなくの時間と言う事もあり、利用者はまばらでラッシュは起きていない。
ノアはトレーを手に取り、厨房前のカウンターに。列を作る数人の隊員たちの後ろに回った。
焼き立てのコッペパンとバターに、玉ねぎ主体の野菜スープ、デザートにリンゴ半分が付いて、それらがトレーに乗せられて行くのだが、ノアが最も注目するのがオムレツ。ーー何も混ぜていない硬めのプレーンオムレツなのだが、ノアは完全にこのオムレツの虜になっており、一瞬だけ口元に笑みを漏らすのだ。
最後に牛乳の入ったスチールカップを受け取ると、誰もいないテーブルを見つけて席につく。そうなればもう、完全に自分の世界だ。ノアは他のものには一切わき目も振らずに、オムレツにナイフとフォークを突き立てた。
一流のシェフが作った訳では無い、食堂の調理員で雇われているおばさんが作る普通のオムレツ。中がジュルジュルの半熟ではなく、芯まで火が通って固まっていながらもフワフワ感が残る歯応えのあるオムレツ。
これで大喜びするくらいなのだから、軍に在籍していた当時は一体何を食べていたのかと、彼の過去に想いを巡らせるも真相は闇の中。
目に見えて分かるのは、ノアはこのオムレツが大のお気に入りなんだなと言う事実だけであった。
「あっ、ノア君おはよう! 」
ところが、オムレツが残り三分の一となったところで、予期せぬ来訪者にノアは驚き手を止める。
「あ、おはよう……」
現れたのは同僚のカティ。
ノア君今日は早いんだねと、満面の笑みで語りながら、テーブルを挟んだ反対側へと座る。
「私ほら……無駄に元気が溢れてくるから、毎朝これくらいの時間に食堂来ちゃうのよね」
あはは、と快活そうに自分を笑いながら、カティは当たり前のように食事を始めるのだが、ノアの両手は完全に動きを止めてしまった。
ーーオムレツにしか手を付けていない事に気付かれたらどうしよう? それを隠すために他のものを急いで食べ始めたとして、何をそんなに慌ててるんだと思われたらどうしよう? と、恐慌とも呼んで良い動揺がノアの中心を駆け巡る。
いずれにしても、些細な事をきっかけにして、根掘り葉掘りの質問が始まるのではと内心驚愕するノアなのだが、結果としてそれらは杞憂に終わる。
何故なら、食堂のスピーカーが突如けたたましい音を立て、シング出現による緊急放送を始めたからだ。
『通達、通達! サンウォルソール運河管理部が渡河中のシング部隊を発見! その数多数! 王立警備打撃群及び、甲種特殊警備隊は緊急出動してシングを排除せよ! 』
ノアとカティは食事もそのままに立ち上がり、全力で部隊の事務所に向かって駆け出して行ったのである。