七杯目 カフェラテ
起きてからすぐ、食事の前にその客はやってきた。生真面目なサラリーマン、といった印象で、皴のないスーツときっちりとワックスで撫でつけられた短髪、淵のない眼鏡が特徴だった。奈菜がカウンター席を勧めると、それを断ってテーブル席に着いた。
「申し訳ないが、水は二杯いただけるかな」
「あ、はい」
男と、その向かいの空いた席の前に水を置く。男は満足そうにうなずいた。
琴羽が豆を挽いている間に、白兎が用意した食事が出される。二人分の、フレンチトーストだった。分厚く切った食パンから、甘い香りがふわりと立ち上る。
とろけたバターをナイフで丹念に塗って、男はフレンチトーストを口に運ぶ。皿がすっかり空いたころに、琴羽が二杯のカフェラテを淹れ終えた。奈菜がそれをテーブルに運ぶと、男は「ありがとう」と消え入りそうな声で呟く。
空席には、氷が解けきった水と、冷めたフレンチトーストと、カフェラテが並んだ。それを見て、男は視線を落とす。
「申し訳ない……こんなに美味しいのに、無駄にして」
「えっ? いえ、そんな」
「申し訳ない……」
男の肩が震え、やがてぽたりとテーブルに雫が落ちる。
琴羽が黙って、ジャズのCDをセットした。静かなBGMに隠れるように、男は嗚咽を漏らす。
「下っ端、こっち手伝え」
「あ、はい」
白兎に呼ばれ、奈菜が厨房へ引っ込むと、男は残りのカフェラテを一気に飲み干した。
「マスター」
「はい」
「……これ、持って行ってもよろしいかな。お土産にしたいんだ」
「構いませんよ。黄泉の門を抜けられるよう、きちんと包んでおきましょう」
男からフレンチトーストを受け取って、琴羽は微笑んだ。男は目元を拭い、何度もうなずく。
「ああ、ああ、そうして欲しい。あいつは、甘いものを食べているときが、一番幸せそうだったから」
白兎がフレンチトーストを温め直している間、奈菜はふと思いついたように、二階に駆け上がる。
「奈菜さーん、埃が舞うから気をつけて」
「あ、す、すみません」
「それは、お客様に?」
「はい」
奈菜は、二階の寝室から自分の鞄を持ってきていた。カウンターの裏に鞄を置き、ごそごそとその中を探る。
「確か……あった」
鞄から目当てのものを取り出して、奈菜はテーブル席に向かう。椅子に座って、男は空のグラスの淵をなぞっていた。
「あの、余計なことかも知れませんけど」
「?」
「……どうぞ、お使いください」
奈菜が差し出したのは、新品のメモ帳と、ボールペンだった。
「……いいのか?」
「はい」
男はメモ帳を受け取ると、几帳面な字で、そこに何かを書き始めた。奈菜はカウンターの奥へと引っ込み、鞄を階段に置き直す。横目で男を見遣ると、既に二枚目を書き始めていた。
「白兎君、ちょっとだけ、のんびりで」
「了解」
男が五枚の手紙を書き終えたところで、白兎が、小さなバスケットを持ってきた。
「保温容器に、フレンチトースト。こちらの水筒がカフェラテ。少し急げば、温かいままで食べられる」
「……ああ」
二つの紙コップが入ったバスケットを受け取って、男は、小さくたたんだ手紙をそこに入れる。
「申し訳ない……いや、ありがとう。ありがとう……」
男は深々と頭を下げ、店を出ていった。すぐに、小走りな足音が遠ざかっていく。
「……間に合いますかね」
「さあね。存外、あの世の門番は優しいし。期待くらいは、してもいいんじゃないかな」
奈菜は、テーブルに残されていたメモ帳を回収する。よほど強く書き付けたのか、一番上の紙に、文字の痕が残っていた。声に出してはとても言えないような、ストレートな愛の言葉だ。堅物そうな男がこの言葉を書いていると思うと、背中がむずがゆくなるように感じた。
メモの一番上を破り取る。これ以上は、読んではいけないような気がした。新品のメモ帳から、少し使った跡のあるメモ帳になったそれを、エプロンのポケットに入れる。
「じゃあ、ごはんにしようか」
奈菜が鞄を二階に置いてくると、既に、琴羽と白兎は席に着いていた。
「いただきます」
「うん、召し上がれ」
食事は、湯気の立つフレンチトーストだった。