五杯目 レモンティー
カフェ『ことのは』がある空間には、時間の概念がない。琴羽と白兎が準備する食事が、奈菜にとっての時計代わりになっていた。客はそう毎日来るものでもなく、掃除や雑用も、半日もあれば終わる程度の量だ。
「ということで、今日は奈菜さんに買い出しを覚えてもらおうと思う」
琴羽が先に立って、奈菜はまた濃霧の中を歩いていた。両手で握ったエコバッグが、汗でぬるぬるする。
「あの、琴羽さんには、道が見えるんですか」
「そりゃあ、もちろん。ここはあなただけの世界であると同時に、私だけの世界でもある。見るひとの数だけ世界が重なっているのがここなんだ」
「……?」
奈菜は首をひねる。自分だけ、と、誰かだけ、は、両立するものなのだろうか。
「ううんと……ああ、そうだ。見る人によって見え方が異なる。これは分かるね」
「はい」
「ここは、見え方じゃなくて、在り方が異なるんだ。此岸に桃の実がひとつあって、それは誰が見ても桃の実だ。まあ、おいしそうと見るか、腐っていそうと見るか、好きと見るか嫌いと見るかは人それぞれだけど」
琴羽は足を止め、足元から何かを拾い上げた。
「私にはこれが、石に見える。だから、私の手には石のように感じられる」
奈菜には、何も見えなかった。
「触ってごらん」
奈菜の指は、何も持っていない琴羽の掌に触れる。
「此岸では、どちら見ても、石は石だ。ここでは、石と見れば石に、虚空と見れば虚空になる」
「……不思議ですね」
「そうだろうね」
琴羽の後について歩きながら、奈菜は琴羽を見上げた。
自分には相変わらず、白一色に塗りつぶされた世界にしか見えない。琴羽の目には、どんな世界が見えているのだろうか。
そこには、何があるのだろうか。
見覚えのあるショッピングカートに、琴羽が次々に食材を入れていく。
「奈菜さん、ここ、コーヒーの棚」
「へえ……」
奈菜はそちらへ視線を向ける。
と――――すぅ、と霧が薄くなり、そこにコーヒーの棚が現れた。琴羽はにっこりと笑う。驚いて奈菜が琴羽を振り返ると、琴羽はその棚から、袋入りのコーヒー豆をカートに入れた。
「ほら、見えた」
飲料の棚、お菓子の棚、パンコーナー、レジ。琴羽が言うたびに、奈菜の視界にそれが現れた。霧の中に中途半端に浮かんだ景色を振り返って、奈菜は荷物を抱えなおす。
「以前、奈菜さんは自分を空っぽだと言ったけれど。そんなことはないと思うよ」
琴羽は、重い荷物を台車に乗せる。その台車も、奈菜に見えるレジの横にあったものだ。琴羽が見ている世界にはなかったらしい。
「霧で、見えないだけ。見ようと思えば、見える」
奈菜が持っていた荷物も台車に固定して、琴羽は奈菜を振り返った。
「奈菜さん。霧の向こうには、何があるんだい?」
「……霧の向こう……」
商品棚ばかりがまばらにあるだけの景色。
ただ、そのどれも、どこかで見覚えのある景色。
「……このお店、カフェが併設されていて」
奈菜が、霧の向こうを指差す。と、景色を遮っていた霧が晴れ、大きなスーパーマーケットが姿を現した。
「レモンティーがおいしいんです」
琴羽を振り返ると、琴羽は優しく微笑んで頷いた。
「じゃあ、一服していこう。君お勧めの一杯で」
氷の入ったレモンティーは、宝石のようにきらきらとしていた。
「琴羽さん」
レモンティーが半分まで減ってから、奈菜は口を開く。
「質問をしても、いいですか」
「うん」
「琴羽さんは、何の神様なんですか?」
日本の神話には明るくないが、奈菜でも、イザナミやイザナキ程度は知っている。だが、イメージの中の神と琴羽は、どうしても結びつかなかった。
「……うーん……奈菜さんは、カミサマってどんなものだと思う?」
「え? ええと……お祈りして、助けてくれる?」
「そう。それが最近の人間達の言うカミサマ。けれど、八百万の神々と言うのは本来、人間に奉られる存在であっても、人を手助けするものではないんだよ。祈って救ってもらうっていうのは、外つ国の思想じゃないかな」
琴羽は両手を合わせて見せる。
「八百万の神々は、人間をいつくしむ。そんな神々が、それでもちょっとだけ、人間に救いを与えようとして造ったのが、私だ」
琴羽は、稲穂色の目を細めて微笑んだ。
「だから、まあ。何の神と言われたら、人の神かな」
穏やかに微笑む瞳は、眼前の奈菜よりもっと奥、奈菜には見えない世界を見ている。
人の神が見る世界。それはもしかすると、自分が見ているものとあまり変わらないのではないか。
最後の一口のレモンティーをすすりながら、奈菜はそんなことを思った。