四杯目 ホットミルク
湯気の立つホットミルクを差し出して、奈菜は盆で口元を隠す。カウンターに座るのは、カップを両手で持つのもやっとといった少女だった。
琴羽いわく、このカフェを訪れる魂は、ほとんどが既に死者らしい。奈菜のように、道が分からない者はそういないそうだ。
「あ、おかわり?」
「ん」
少女が突き出したカップに、またホットミルクを注ぐ。少女の膝の上では、撫でまわされて毛が逆立った白兎が丸くなっていた。
ホットミルクとスコーンを二人分平らげて、少女は椅子から降りた。
「ここまで、保育園に行くくらいの時間歩いた」
重いドアを押し開けて、少女は奈菜を振り返る。
「ここからどれくらい、一人で歩くのかな」
寂しそうに言う少女に、奈菜は黙って手を振った。
ドアベルが鳴りやんでから、白兎が人の姿へ変化する。ぼさぼさになった髪を面倒そうに撫でつけて、白兎はため息を吐いた。
「お優しいんですね」
「……人助けだと思えば、少しくらい我慢できる」
奈菜が食器を片付け、白兎がテーブルを拭く。ドアベルが鳴ってそちらを振り返ると、出て行ったばかりの少女が、両手の拳を握って立っていた。
「……ちっ」
カウンターに頬杖をついて、白兎が面倒そうに息を吐く。少女の大きな目には、今にもこぼれそうなほどに涙が溜まっていた。
「どうしたの? 道が分からない?」
奈菜がしゃがむと、少女は首を横に振る。白兎を振り返ると、心底嫌そうな顔をして身をかがめた。と、みるまにその体が縮み、白い兎へ変化する。少女は、足元に近付いてきた兎を両手で抱きしめた。
「ううん……」
奈菜は困ったように頬を掻く。階段を下りてくる足音がして、琴羽が顔を出した。
「奈菜さん、鬼灯をひとつあげるから、その子を門まで送って行ってくれないかな」
「あ、はい。……鬼灯?」
「はい、これ。帰り道は白兎君が見えているからね」
橙色の提灯を差し出し、琴羽は白兎にも笑いかけた。無表情のウサギが、しっ、と嫌そうに息を吐いたように見えた。
少女と手を繋いで、奈菜は濃霧の中を歩く。奈菜には濃霧にしか見えないが、少女には道が見えているのだろう、奈菜や白兎が促さずとも、その足取りに迷いはない。
「わたし、弟がいたんだ」
どれくらい歩いただろう。ぽつり、と少女が呟いた。
「この先に行ったら、弟もいるかな?」
「……ええと……」
「わたしも弟も、もう、寂しくないかな。もう、腹ペコじゃないかな?」
少女の問いに、奈菜は答えを用意できなかった。ただ、少女の頭を撫でて、サイズの合っていないシャツのボタンを留めなおす。
少女の腕から白兎が抜けだし、少女の数歩先を歩く。少女は奈菜の手を引き、小走りで白兎の後を追った。
奈菜が持つ提灯が、ぼんやりと足元を照らす。次第に周囲は暗くなり、濃霧と相まって、奈菜は心臓の裏を舐められるような恐怖に襲われた。少女は足を止めない。やがて真っ白だった風景は墨色に塗りつぶされ、濃霧の向こうに、見上げるほどの影が現れた。
「ここまでだ」
奈菜の肩に、白兎の手が乗る。いつの間に人型に戻ったのか、白兎は鋭い顔で、少女を見下ろしていた。
「ここから先は、一人で逝け」
白兎を見上げ、少女は目に涙を浮かべる。だが、小さな手は奈菜から離れ、シャツの裾を握った。
「おねえちゃん、おにいちゃん」
少女は、口をひきつらせて笑う。
「ミルク、おいしかった」
少女はぱっと踵を返し、小走りで影へと向かっていく。少女の姿は、すぐに濃霧に包まれて見えなくなった。
「……戻るぞ」
白兎に肩を引っ張られ、奈菜は頷く。
「……あの子、裸足でしたね」
「靴を知らなかったんだろう」
「それに、服も大きかった」
「自分に合わせた服を貰ったことがないんだろう」
「……弟って」
「下っ端」
ぐい、と白兎は奈菜の頭をつかんで前に押す。前のめりになり、奈菜はつんのめった。
「あれは、もう終わった命だ」
「……分かってます」
揺れる提灯が、薄暗い道を照らしていた。舗装されていない道の向こうに、カフェの影が見えてくる。
「おかえり、二人とも。ご飯にしよう。手を洗っておいで」
カフェに戻ると、琴羽が三人分の食事を用意して待っていた。示し合せたように、提灯の灯が消える。
「……お二人は」
提灯を琴羽に返しながら、奈菜は視線を落とした。
「ずっと、ここで、こういう人助けをしてきたんですか」
「まあそうだね」
「それが仕事だ」
「でも、仕事とはいえ……辛くないんですか? それに、何か二人に利があるようにも思えないのに、私を保護までして」
「利はない」
白兎があっさりと言った。
「そうだね。奈菜さんを保護したのも、成り行きだよ。利なんてないさ」
「でも、じゃあ」
「だけど」
奈菜の言葉を遮り、琴羽は奈菜の口に指を立てる。
「人助けなんて、そんなものだろう?」
朗らかに微笑む琴羽に、奈菜は釈然としない顔をした。