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三杯目 ミネラルウォーター

 足元を徘徊するロボット掃除機をよけながら、奈菜はテーブルを拭いて回る。白兎は奈菜に掃除用具を渡してすぐ、厨房に引っ込んでいた。

「奈菜さん、それが終わったら、バケツと雑巾を外に置いておいて。看板を拭くから」「はい」

「用具は、さっき教えた二階の倉庫にあるから」

 奈菜はバケツ一杯の水を持って外に出る。脚立に乗った琴羽が、手を差し出した。

「毎日、ここまで?」

「汚れていると思ったらね。私にとっての鳥居と同じさ」

 琴羽に雑巾を手渡しながら、奈菜はあたりを見回す。相変わらず、伸ばした手の先すら見えないような濃霧だ。

 バケツを持ったまま、奈菜は濃霧の向こうへと視線を向けた。大したことのない人生だったが、これほど、つまらない景色ができるとは。

「奈菜さん」

「はい」

「お客さん。先に、お冷を出しておいてくれないか」

 琴羽がドアを指差すと、からんころん、とドアベルが鳴った。



「どうぞ」

 コップ一杯のミネラルウォーターを、その老婆はじっくりと時間をかけて飲み干した。白兎は厨房で、ずっと何かを作っている。水の場所を聞いたときだけ顔をあげて、黙って冷蔵庫を指差した。

「ああ、おいしいねえ。こんなおいしいお水はいつぶりだろうねえ」

 老婆は、空になったグラスを愛おし気に撫でる。しわだらけで、やせ細った手だった。カウンター越しに、奈菜は老婆を見下ろす。品のいい淡い色の服と、きちんと整えられた白髪。とても、水も飲めないまま死にそうには見えないのだが。

「ここは、あの世かしら? 私、病院のベッドにいたのだけど」

「えっ……ええと、いえ。その、ちょっと前のところです」

「あらそう。そうなのねえ」

 二杯目を頂戴、とグラスが差し出される。奈菜は、ガラスのピッチャーから水を注いだ。控えめな照明の中、氷の入っていない水は、揺れるたびにその表情を変える。

「あの、えっと……違うお飲み物も、ありますけど」

 看板の掃除から戻ってきた琴羽が、大急ぎでエプロンを代えて両手を洗っている。相変わらず読めないメニュー表を指差して、奈菜は老婆を見やった。

「コーヒーとか、緑茶とか」

「そう。でも、今はこれがいいわ。お水に満足したら、温かいものをいただこうかしら」

 老婆が二杯目の水を飲み干してから、琴羽がカウンターにやってきた。

「お待たせを。あなたに似合いの一杯を淹れましょう」

 琴羽は、戸棚から、コーヒー豆をミルに入れる。豆を挽く音が響く中、盆を持った白兎が厨房から出てきた。

「奈菜さん、彼女の隣に」

 琴羽に言われ、奈菜は白兎を追ってカウンターを出る。白兎が、持っていた盆を老婆の前に置いた。その内容に、えっ、と思わず奈菜は声を出す。

「あら……これ」

 それは、白いワンプレートにおかずが詰め込まれた、ハンバーグ定食だった。コンソメスープとライスもついている。デミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグの隣には、丸く成形されたポテトサラダと、それを支えるような、気持ちばかりのレタス。じゃがいもとニンジンのグラッセに、スイートコーン。決して手抜きの一品ではないが、洒落たカフェで出すような見た目でもない。コンソメスープに浮いたクルトンが、さらに安っぽさに拍車をかけていた。

 奈菜は怪訝な顔で白兎を見やる。白兎は、黙っていろ、と言いたげに顔をしかめた。

「……あら……? あら、あらあら、不思議」

 老婆は両手を合わせ、目を瞬かせて、ハンバーグ定食を覗き込む。

「素敵。私の一番のごちそうが出てきたわ」

 目をきらきらと輝かせて、老婆はフォークとナイフを取る。そして、不思議そうな顔をしている奈菜に気付いて、ふわりと笑った。

「私ねえ。あなたくらいの年に、プロポーズされたのよ。その時はコーヒーなんて、喫茶店で飲む特別なものでね。そのお店のランチがこれだったの」

 笑顔でハンバーグを平らげた老婆の前に、食後のブラックコーヒーが差し出された。

「ああ、確かに、あの時もブラックだったわ。不思議ね。昨日まで、思い出しもしなかったのに。昔の思い出なんて、みんな、消えちゃったと思っていたわ」

「……覚えているものなのですよ。思い出せないだけで」

 コーヒーのカップを両手で包み、老婆は目を細める。

「ああ……私は、ちゃんと幸せだったのね」

 惜しむようにコーヒーをゆっくりと飲んでから、老婆は三人に深々と頭を下げ、店を出て行った。天国へきっと行けるだろうね、と琴羽が言っていた。

 食器を片付けながら、奈菜は、空のグラスを持って首をひねった。その様子に、琴羽は眉根を寄せて笑う。

「延命治療をし続けた人に、多いんだ。一杯の水、一口の食事に、焦がれている人が」

 はっとして、奈菜は顔を上げる。

 立って歩く。食事をする。言葉を話す。息をする。その全てを何かに代替されて、命を繋ぐ。氷を入れ忘れたただの水に感激するような気持は、奈菜は知らない。だが、老婆の言動に、少しだけ得心がいった。

「でも、それって」

 そうまでして、生きていてほしいと願うのは。

「愛しているからですよね?」

 奈菜が問いかける。カウンターに頬杖をついて、琴羽は「どうだろうね」と笑っていた。

「けれど、幸せだったんだろう。子供と、孫と、ひ孫がいて。プロポーズの思い出が残っていて。それで、幸せだったと彼女が言うんなら、間違いなく」

 奈菜は、閉まったドアと、手元のグラスを見比べる。やせ細った老婆は、しゃんと背筋を伸ばして歩いていった。道に迷うはずがないというように。

「おい下っ端、遅い!」

「はっ、ごめんなさい!」

 白兎に怒鳴られ、奈菜は慌てて片づけを再開した。

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