一杯目 ブレンドコーヒー
気付くと、少女はカフェの中にいた。
「あれっ?」
五つ並んだカウンター席の中央。振り返れば、テーブル席が二つある。木組みの天井と、壁掛けのフェイクグリーン。天井から吊るされたランプが、橙色の光を落としていた。白い壁には、空の額縁がいくつかかけられている。
「ようこそ、カフェ『ことのは』へ」
コーヒーミルやサイフォン式のコーヒーメーカー、ガラスのティーポットなどが並ぶカウンターの奥に立つのは、黒髪の青年だった。愛想のいい笑顔とカフェ店員の白いシャツが似合う、柔和な青年だ。どこかで見たことがある気が、と少女は首をひねった。
「ここは、どこです?」
「カフェですよ。さあ、重い荷物は足元に。美味しい一杯を淹れましょう」
青年の背後の壁には、メニューの黒板がある。少女がそちらへ視線を向けるが、文字が読めなかった。知っている言葉のはずなのだが。
少女が視線を巡らせている間に、青年は背後の戸棚からコーヒー豆を取り出した。いくつかの豆をミルに入れ、ハンドルを回す。こりこりと、小気味いい音が響いた。
少女は鞄を足元に置いた。おろしたての高校の指定バッグだ。制服とセットだと安いから、と半ば押し売りのように買わされたものだ。入学式はまだ先だが、今日はこれから、新入生説明会の予定だった。
「あ、いい香り」
「それは何より」
目の前では、コーヒーメーカーの下方でふつふつと湯が沸いていた。下から上へ、そしてまた、上から下へ。
「ミルクとお砂糖は?」
「あ、どっちも」
白いソーサーに、角砂糖が二つ。小さなミルクピッチャーも添えられて、少女の前に差し出された。
「オリジナルブレンドです。自信作なんですよ」
青年が、人懐っこい笑みを見せた。
「……あの」
カップを手に、少女は顔を上げる。
「私、駅にいたはずですよね」
「ええ。小さな自殺志願者さん」
少女は、やっぱり、と視線を落とす。コーヒーの水面は、吸い込まれるような色をしていた。
「……これは、夢?」
「そうとも言えますし」
ことり、と少女の前に皿が置かれる。小さなクッキーが乗っていた。
「そうではない、とも。あなたは確かに、電車に飛び込んだ」
青年は、悲しむように目を伏せた。その表情で、少女は、青年への既視感の正体に気付く。自分が飛び込んだ瞬間に、向かいのホームにいた人だ。困ったような顔で、自分を見ていた。
「ここは、彼岸と此岸の境。生と死、存在の有無、夢と現。すべてが重なり合って存在しているがゆえに、一瞬が永遠にまで引き伸ばされた、無限の現在の世界ですよ」
青年は、砂時計を少女の前に置いた。上から下へと落ちていた砂は、半分が落ちたところでぴたりと止まる。それから先は、一粒も落ちなかった。
思えばここで目が醒めてから、外の音が聞こえていない。いくら閑静な住宅街にあるようなカフェでも、人の声ひとつ、車の音のひとつくらいは聞こえそうなものなのだが。
壁掛けの時計もないので、腕時計を見ると、ガラスにヒビが入って止まっていた。
「魂の岐路にして安息地、カミサマのカフェへようこそ、芦原奈菜さん」
相変わらず愛想のいい笑みを浮かべたまま、青年は少女の名を呼んだ。
砂糖とミルクをたっぷりと入れたブレンドコーヒーは、それでもなお、コーヒーの香りが強かった。苦味は薄れ、酸味はわずかに後味に残っている。クッキーは、甘さが控えめなココアとバターの二種類。少し硬めに焼いてある。
「どうして、私の名前を?」
「ここは私のカフェですから。お客様のことは全部分かるんですよ」
「じゃあ、何ですか。私が自殺しそうだったのがかわいそうだったから、助けたとか?」
奈菜の言葉が鋭くなる。青年は眉根を寄せて笑った。
「まさか。自殺者なんてたくさんいるのに、その全てに心を砕くことは、とてもとても。お客さんは、ちょっと、運が良かっただけですよ」
「……そうですか」
奈菜がカップを傾けると、青年はにっこりと笑い、カウンターの奥へ引っ込む。奥は厨房になっているようで、洗い物をしているような音が聞こえてきた。
カップを空にして、奈菜は足元の鞄を取る。椅子から降りると、途端に鞄が重く感じられた。
「逝きますか?」
奥から、青年が戻ってくる。
「……ここが岐路なら。出たら、死ぬんですよね」
「そうとも限りません」
出てみては? と青年はドアを示す。奈菜は鞄を抱え、ドアを押し開けた。からんころん、とドアベルが鳴る。
「え」
外は、濃い霧に包まれていた。短い階段を降りると、舗装されていない道がそこに現れる。
振り返ると、カフェは、壁に蔦が這った一軒家だった。霧に沈む風景の中、二階建ての建物だけがぽっかりと浮かんでいる。
右も左も、ともすれば上下すらわからなくなりそうな濃霧。奈菜は視線を巡らせて、カフェのドアに手をかける。青年は、笑顔のままカウンターの向こうで待っていた。
「何がありました?」
「……何も」
「なるほど。あなたはまだ迷っているらしい」
椅子を奈菜に示し、青年は、空になった皿にクッキーを追加した。
「私が?」
「ええ。外の世界は、あなただけの世界です。あなただけが見ることができて、あなただけが触れることができる」
「……じゃ、私は空っぽってことかな」
ふ、と奈菜は自嘲気味に笑った。
「どんな景色だったんですか?」
「霧で、真っ白でした。ここのお店しか見えない」
「なるほど」
青年は頷き、それから、ぱん、と手を打つ。
「それでは、黄泉へ逝く道も還る道も分からないでしょう。どうです? その霧が晴れるまで、ここにいるというのは」
「……どうでしょうって……私に、それ以外の選択肢はあるんですか? ここがどこかも、まだちゃんと理解できていないのに」
「ありますよ。でも、何も見えない霧の中、手探りで歩くのは大変でしょう」
奈菜は唇を曲げる。外の景色が、本当に、自分だけの世界だとしたら、この青年の手助けも期待できないだろう。
「……じゃあ、霧が晴れるまで、アルバイトさせてください」
「ええ。では従業員を紹介しましょう」
その前に名前を教えてほしいな、と奈菜は青年を見上げた。
「はい。従業員の、白兎君とルンバさんです」
白い兎一匹を抱えて、青年が奥の厨房から戻ってきた。
「兎?」
「ええ、因幡白兎君。頼りになるシェフです」
青年は、奈菜に兎を渡す。兎は、奈菜の腕の中で大人しく鼻をひくつかせた。青年の足元には、黒いロボット掃除機がある。
「こっちがルンバさん。掃除係です」
「……はあ」
「そして、私は八百神琴羽。このカフェのマスターを任されている、カミサマです」
青年、琴羽が自分のネームプレートを指差す。先刻まで読めなかったそれは、琴羽が名乗ると同時に、奈菜にも読めるようになった。
「あなたの中の霧が晴れるまで。どうぞよろしく、奈菜さん」
差し出された手を握り返して、奈菜はぺこりと頭を下げた。