8 洗濯ものと義弟 後編
何が彼をそんなに怒らせてしまっているのか、正直コマには理解できないでいた。
多分、昨日のトールの件だとは思う。けれど、トールはきちんと謝ったし、今後は気をつけると反省もした。今後は一人で勝手なことをしないこと、とロキが注意したけれど、ザザは何も言わなかった。いつも通りの顔で、黙って座っていただけ。
その後は
じゃあ、何が問題だというのか。
コマには皆目検討もつかない。
見上げたザザの顔は、のっぺりと無表情で、何を考えているかわからなかった。
凍てついた視線で冷やかにコマを見下ろしている。
温度のないそれは、まるで拒絶。
一緒に暮らし始めたからこっち、ザザがこんな眼をしたところを見たことが無い。それだけにどうしたらいいか判らず、コマは泣きたくなってしまう。心臓の音が、煩い。
(ああ、おれ、またやっちまったのかな…)
仁王立ちしている義弟から視線をそらすことも出来ず、かと言って何か言葉をかけることもできずに押し黙ったまま、嫌な汗が全身に滲んだ。
こうやって自分のせいで他人を怒らせてしまったのに、何が原因なのかわからない、ということは今までも多々経験がある。それこそ、幼馴染のソラなんて、何度怒髪天をついたかわからない。力いっぱい頬を殴られたこともある。外見に騙されがちだが、ああ見えてソラは手が早い。
思うに、自分は他人の気持ちを慮るということに長けていないのだと思う。
だから不用意な言葉でいつも誰かを傷つける。
それが自分にとって毒にも薬にもならない輩であるならば別段気にもならないが、少しでも心にかかる相手であるなら話は別だ。傷つけたくない。傷つけたなら謝りたい。詫びて、許しを請いたい。
嫌いにならないで、と縋りつきたくて。
どうしよう、とそう動きの速くない頭をフル回転させて考えた。
けれど、焦るほどにいい考えなど浮かばない。そもそも、深く考えることには向いていないのだ。
更に、考え抜いた末に「これだ!」と思ってとった行動が、裏目に出て手痛い目にあう場合が多い。過去の経験から考えて、手痛い目にあった場合が八割である。大抵裏目に出て更に事態が拗れ、結果ソラに殴られる羽目になるのだ。
そう思うともう、何をしても悪いことしか起きない気がして、身動きが取れなくなる。右へ行こうが左へ行こうが、正解はない気がした。どうすればいいか口で教えてほしい。察するなんて高等なこと、コマには難しすぎる。
石になってしまったようにぴくりとも動かず、泣きそうな表情のまま瞬きもせず、ただ自分を見上げている義姉の姿に、ザザは下唇を噛んだ。
(何でこの人はっ…!)
腹立たしさと同時に、胸を強く押されるような痛みを感じた。
何をどうして、そういう思考回路になるのかが理解できない。正直、馬鹿じゃないのか、とすら思う。
多分自分は、いや、兄弟の全員が、コマが何をしたとしても、それを許し受け入れるだろう。
どんな愚かな所業も。
惨酷な行為も。
例え戯れに殺されたって、構いはしない。
コマならば、何をしても許される。自分たちが許す。きっと最期も、笑って逝ける。
その位、彼女に救われているから。
あの地獄から、その筋ばった手で、掬い上げられて。
なのに。
(全然、わかってない…)
悔しさで眉間にしわが寄った。
へその下辺りで、煮えたぎった熱湯が溢れているような気がした。水がはねる音しかしない静かな川辺に、ザザの耳にだけ湯の沸騰する音が聞こえる。
それがわからないように、必死に顔から感情を消し去った。
その時だった。
「あーねき」
緊張の糸を弾くように、軽い響きの声がした。
振り返ると、金穂色の髪をした青年が立っていた。
満面に笑顔を浮かべている。優しげに目尻が下がって、口角は反対にきゅっと上がっていた。
「ロキ」と、あからさまにほっとしたようにコマが呟いた。
にこにこと笑みを湛えたまま、ロキが二人に近づく。髪と同じく綺麗な金の瞳が、間の抜けた表情で座り込んでいる義姉に向けられる。
一瞬、何かを考えるように、双眸かた感情が消える。しかし、すぐにいつも通りの柔らかな色を浮かべて見せた。
コマの腕を掴み立ち上がらせた。
「ジェノベが探したぜ。ナントカって菓子を作るから、味見して欲しいって」
「でも、おれ…」
「ジェノベの奴、姉貴の姿が見えねぇと情緒不安定になってすぐ手首切るから、早く行ってやって」
「う…それは…」
「後片付け面倒だし、貧血起こされるのも面倒だし、さ」
困惑気味にロキとザザの顔を交互に見やる彼女を、半ば強引に家の方へ押しやる。
「ザザの洗濯手伝っていたんだろ。後は俺がやっとくから」
ぐい、とその背中を押した。
義弟で一番身体の大きいロキに押され、僅かによろめきながら、しぶしぶコマは歩き出す。
途中で一度、振り返った。ザザは俯いたまま、そちらを見ようともしなかった。
大きな老木の根元をくりぬいて作った家の中に義姉の背中が消えたのを確認すると、ロキが振り返った。
ぶすくれた表情のままのザザを見やると、ぷっと吹き出す。
「ガキ」と呟かれた言葉に、じっとりとザザが長兄を睨めつけた。
「ヤキモチはいいが、そういう怒り方は可愛げがない」
「ヤキモチじゃない」
「ヤキモチだろ」
豊かな金糸の前髪をかき上げながら、ロキが見下ろすように笑った。日差しに透けて髪の毛が輝いて見える。真昼のお日様を映したような色は、少しだけ銀にも似て見えた。
この長兄は、一番長い時間をコマと過ごしている。聞けば、まだ彼女が教会の施設にいる時からの付き合いらしい。
そして、“救済”の、最初の成功例でもある。
当年もって二十三歳になったロキは、見目も中身も優等生。明るい笑みは太陽に似て、人懐っこく誰にでも向けられる。光に透けると銀に似た金髪は緩くウェーブがかっており、トールと並ぶと本物の兄弟に見えた。上背のある身体はよく鍛えられており、その割に手先も器用で、家業を一番こなすのはこの義兄であるのは全員が認める事実だ。
おかげで義兄弟たちの中でコマが最初に頼るのは、いつだってロキ。付き合いの長さ故だろうが、その度にザザは面白くないと思っていた。
けれど、強く憧れる気持ちもある。反面、その余裕たっぷりな雰囲気に負けん気が刺激された。ああなりたいけれど、素直に師事するには、ザザはまだ青い。
普段ならばその気持ちを成長するための活力にするのだが、今日はどうも具合が悪い。何だか彼に馬鹿にされているように感じてしまう。
だから、思わず噛み付いてしまった。
「俺が、いつ、何で、何に、ヤキモチ焼いたって?」
方眉を吊り上げ、絶対零度の視線で冷やかに言い放った。薄い唇が嘲るように三日月を描く。笑顔のつもりだが、露骨に怒りが滲んでいる。
珍しく正面から食って掛かってきたのが面白いのか、ロキが更に楽しそうに笑った。
「お前、愉快なキレ方すんな」
「キレてねぇっての」
「そうカッカしなくても、コマは俺達を不平等に扱ったりはしないぞ」
義姉がいない場で、ロキはしばしば彼女を呼び捨てにする。それがまた、ザザの癇に障った。
自分の所有物のように呼ぶなよ、と。
「何の話だ」
「お前の話だよ。お前、アレだろ? コマがトールを甘やかしたと思って、ヘソ曲げてんだろ?」
「別に…」
「違わねぇだろ。皆が大騒ぎして探し回って、挙句、ちゃっかり姉貴と手なんか繋いで帰って、へらへら笑っているトールが面白くないんだろ」
「…」
「ついで、姉貴も姉貴でトールを怒りもしない上、ずっと機嫌がよかったもんなぁ。おいふざけんなよ、ド畜生、とか思っているわけだろ?」
内心、図星だった。どんぴしゃり、というやつだ。
気まずくなってザザがそっぽを向くと、ロキが声をあげて笑った。
「素直な奴」
腹が立って、洗い桶に入ったままのショールを、乱暴に漱ぎ始める。薄くなった生地は水に圧されて揺らめいている。このまま手を放して、川に流してやろうかと思ったけれど、実行に移せるほどザザは薄情にはなれなかった。
結局、ぎゅっと絞って洗濯籠へ放り込む。
「まぁ、さ、許してやれって」
ぐい、と肩に腕を回し、ぶすくれた表情のザザを引き寄せた。
「あの女は、甘やかすのも甘やかされるのも、慣れてねぇんだよ。いや、他人と馴れ合うこと自体、慣れてねぇかな」
明るい真紅の瞳をくるりと回し、ザザが顔を上げる。どろりと濃い蜂蜜色の瞳と視線が重なる。
金色の双眸に、黒い影に見える自分が映り込んでいる。
「そんなの、俺達が言える立場じゃないだろう」
ふて腐れた口調で下唇を尖らせる。二人きりという気安さから、普段見せない表情が表に出てしまっていることにザザは気づいていなかった。
コマがいない時、たまにこうして彼の無表情が剥がれることがある。格好をつけたいが故の無表情だから、恰好をつける相手がいなければ、自然と取れてしまうものなのだ。そういう所が中々可愛い義弟だとロキは思う。
わざわざ言いはしないけれど。
違いない、と、ロキが笑った。
「あいつの場合、俺達ともちょっと違って、特殊だからな」
「レベル五、だから?」
「それもあるけど。聖譚曲の性質やら、置かれていた環境とかだよ。それくらい察しろ」
「わかってる」
「なら、そういう態度はやめとけ」
明るい表情のまま、低くなぞるような声で、ロキが言った。
その声色に、背筋がひやりとするのを感じた。何か言おうと口を開き、結局諦め、素直に頷いた。
「いい子だな」と、肩をぽんと一叩きすると、ロキがザザから身体を離す。
「コマに甘やかして欲しいなら、まず、もちっと素直に甘えてみろ。抱きついて、ぎゅっとして、大好き!とでも言ってみりゃいいじゃないか」
「そんなトールみたいなことできるわけない」
「お前ら、一歳しか違わないじゃないか」
「うるさい」
恨めしげにロキを睨めつけると、洗濯桶の前に座り直し、洗濯の続きを始めた。
コマの上着だった。これまた色あせて薄くなった羽織物。薄くなった布地が破れてしまわないよう、優しく揉んで押し洗いする。水がぶくぶくと音を立てながら、泡を吐き出した。
「そいつもとっとと片付けちまおう」と、袖を捲くりながら、ロキも隣に屈んだ。
「そんで、さっさと戻ろう。ジェノベの菓子が待ってる」