5 記憶の海
宗教画が至る所に飾られた隔離棟の白い廊下を、ソラは迷いなく歩いてゆく。
時折すれ違う人は、皆一様に裾の長い白衣を着込んでいた。
ソラと同じ白衣。皆、隔離棟で従事する研究施設の職員である。
颯爽と進む彼女に、周りの職員がちらちらと視線を向ける。その容姿と内在する力故、誰もがソラ存在を知っていた。
力の性質から嫌煙されてしかるべきなのだが、やはり見てくれの良さというのは七難を隠す。彼女の容しか見ない者たちは、見えるものだけでソラに好意を持ち、そして彼女から好意を得たいと望んでいるらしい。
愚かな望に答える気は更々なかった。
けれど、利用する気は大いにある。
実際、有象無象の職員など、ソラにとって何の利用価値もないのだが、何かあった時に捨て駒くらいにはなるだろうくらい考えている。だから、名も知らぬ相手だろうと、顔に愛想笑いを張り付けて会釈をくれてやる。
愛想笑いであっても、外から見ればまるで天使の微笑み。
男女関係なく頬を紅色に染める人間の側をすり抜けながら、右へ左へと迷路のような廊下を進み、やがて多数の扉がずらりと並ぶ広い廊下に出た。
その中の扉を一つ開くと、するりと中に入り込み、後ろ手に扉を閉める。
ただ白いだけの正方形の部屋。
真ん中には白いベッドが設置してあり、白いシーツがかけてあった。ベッドを覆うように天井からは透けた布地が垂らされている。
ベッドの脇には小さなサイドテーブルと椅子が一脚。他には何も無い。
ベッドの側に歩み寄ると、右手で布地を押しやり、そこに横たわる人物を覗き込んだ。淡い色をした長い金髪の青年が、長い睫毛を伏せ、横たわっている。象げ色の肌は青に近い白。呼吸は小さく、一見すると死んでいるようにも見えた。
額にかかった前髪をすいてやりながら、ソラが囁くように呼ぶ。
「マシロ君」
反応は無かった。
彼は切れ長の双眸を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
それを気にする様子もなく、側にあった椅子を引き寄せると腰掛けた。木製の丸椅子の素っ気ない硬さもいつものことだ。
掛け布団から出ている細い腕に触れると、その手を優しく握る。
「ごきげんよう、気分はいかが? 今日もいい天気ですよ。雲もありませんし、今夜はきっと月も星も綺麗に見えるでしょうね」
他愛も無いことを幾ばくか話しかけるが、やはりマシロの反応は無いままだ。
いつものことなのでわかってはいるものの、話しかけ続ければいつか彼が眼を覚ますのではないかなんて、少女のような淡い期待を抱いている。今までそれが報われたことはない。
「さて、今日も記憶にアクセスさせて貰いますね」
そう独りごちると、そっと彼の掌を両手で包み込んだ。それを自分の額に押し当て、眼を閉じる。
細く長く息を吐くと、謳うように諳んじ始めた。
「我、汝の背を捲るもの。紡ぎし話を解く者。道開きて導を成せ。我、汝の理を受ける者なり」
途端、キィィンと鈴が震えるような音が耳の奥で鳴り響く。
風も無いというのに黒髪が揺れたかと思うと、ソラの身体が仄かに光り始めた。
月光によく似た白金の輝き。時折、淡い紫が混じる。光は、明け方の空の色に似ていた。
白金は握った両手を伝ってマシロの身体を這うように包んでゆき、すぐに全身を覆ってしまう。薄い膜が眠り続ける青年の身体を包み込むと同時に、ソラは誰かに頭を捉まれ、そのまま力いっぱい後ろに引きずられるような感覚に襲われた。
(きた…)
聖譚曲が発動したのだ。
魂だけ身体から引っこ抜かれ、ものすごい勢いで落ちていくような衝撃を感じた。
心の内側で眼を開けると、薄闇の中で無数に輝く星が当たり一面に散らばっている。
その中にソラは一人浮かんでいた。
(うまく入れた…)
ほっと息を吐きながら、辺りをぐるりと見回した。
満天の星空のようなこの空間、これがマシロの魂の中だ。
細かく言えば、魂の中にある記憶を保存している空間。本当の星とは違い、赤や緑、青、黄色と様々な色で輝いている光一つ一つが、記憶の固まりである。
幾千、幾万とありそうなこの記憶の海の中から、マシロの記憶を探し出すのがソラの役目だ。
水の中を泳ぐように、薄闇をかいて前へ進む。
時折、記憶の星に触れてみながら、マシロの記憶を探した。
星に触れると、跳ねるように輝きが強くなり、中に納められている記憶が弾けて、目の前に広がる。ほんの一瞬で終わるものもあれば、数日間に渡るものもある。全ては触れてみなければわからない。
途方もない作業である。
けれど、ソラはあまり苦とは感じなかった。
体力、気力、根気も必要な作業。しかし、人の記憶の海は星空に似て、気持ちが落ち着いた。身体にかかる圧力は水のよう。通い空の向こうには、こんな世界が人がっているのかもしれないなんて、夢を見る。
ここは、何の匂いも、音もない。
誰もソラを見ない。触れようとも、名前も呼ばない。
それが心地よかった。
「今日は、収穫なし、か」
四つ目の星の記憶を見終わると、肩を揺らしため息をつく。
今回はマシロの記憶らしきものは当たらなかった。
多数の人間の記憶の中に埋もれているたった一人のものを探すのだ。砂漠から砂金を探すのと同じだと、恩師である教授の言葉を思い出す。気長にやらなければならない仕事だとわかっていても、思うように目当ての記憶が見つからないのは歯がゆいものだ。
(そろそろ上がらないと…まずいかも)
薄闇の中に浮かぶ自分の指先を見ると、微かにぼやけて見えた。
少し眠たい気もする。心地よさに思わず欠伸が出た。
長い間他人の内側に入りすぎると、ソラの自我自体が崩壊しかねない。
一度、深く入りすぎて、昏睡状態に陥ったことがあった。
まだ自分の限界を測りかねていた頃だ。記憶の海の心地よさに飲まれ、判断能力が徐々に奪われていることに気付けなかった。まだ行ける、まだ潜れる、と思っているうちに、自分の名前を忘れかけた。何とかそれに気づけ、慌てて「帰る」という行為を思い出したのだ。
その時は周りの助けもあり、何とか自分の身体に戻ることが出来たが、たっぷり一ヶ月は寝たきりの生活を強いられた。
老フーにコマ、ついでに口うるさい兄弟子からも大目玉をくらい、久々に素直に反省したものだ。
瞬き続ける星々の中で、そっと双眸を閉じる。顎を上げ、高く遠くへ飛んでゆくイメージを脳裏に描く。
自分の身体が浮き上がる感覚がし、次の瞬間、しりもちをついたような衝撃が全身に走り、両目が開いた。
一瞬、視界がぶれた。
薄闇の光が瞳に焼き付いていたのか、見えるものが暗い。が、すぐに色彩は鮮やかに変わった。
白いシーツに流れる金髪、眠る青年の横顔。彼の手を握る両手が、汗ばんでじっとりと濡れていた。
ほう、と息を吐いた。
全身にうっすらを汗をかいている。眉間に太い針を通されたような痛みが走った。
聖譚曲を使った後は、いつもこうである。