3 コマ
「こんなもの、体のいい殺しじゃないか」
吐き捨てた音は、弱々しく掠れていた。
彼女は痛みを堪えるように、衣服の上から胸元を強く掴む。渦を巻くように布地にしわが寄った。
教会は、自由を望んだコマに、「自由」を与えた。
重く圧し掛かる枷のある「自由」を。
(“救済”だなんて、ご大層な名をつけたものだ)
口端に嘲りを浮かべ、ソラがアーモンド形の双眸を細めた。綺麗な顔が歪む。そこに潜んだ感情が表面に浮き上がり、彼女の美しさはより一層際立って見えた。
教会はコマに対し、三つの条件を提示した。
それを呑むことで彼女に「自由」を与えると約束したのだ。
元々反抗的な態度の強いコマを従順にさせるために制限のある「自由」は、教会にとっても都合のよい餌だった。
何よりも、彼女の聖譚曲は教会にとっても貴重な存在。手放す気は更々なかった。
意識在る全てに干渉する聖譚曲。
使い方次第で、他人を意のままに操ることもできれば、精神を破壊し外傷なく殺してしまうことも出来る。
更にその力はレベル五という並外れた大きさだ。
どうにかしてコマを手中に収めておきたい。
故の「条件」。
一つは、半永久的に聖譚曲に関する研究、実験への協力を継続すること。
一つは、生涯首に嵌められた抑制装置を外さないこと。
そして最後の一つは。
「いい加減、あなたがしっかりしないと、“義弟”達の心配が尽きませんよ」
勤めて明るく言い放ち、軽くコマの肩を叩いた。投げられた言葉に、やっと彼女の表情が弛む。
「そうだな」両眉の間のしわが取れ、口元が綻んだ。
「おれがしっかりしなきゃ、あいつら、ここに殴りこみを掛け兼ねない」
「う…やりかねないから怖いですね」
コマの「義弟」達を脳裏に思い出し、ソラが口元を手で押さえた。
「義姉」至上主義の彼ら暴れ出したら、コマ以外に止めようが無い。それこそ、学院の魔法師を何人動員したら止められるやら、全く想像ができなかった。
それにしても、優しい表情をするようになったものだ、と思う。
ショールを肩にかけ直している彼女を見やり、ソラは薄く微笑んだ。昔は、いつも苛つき眉間にはしわを寄せっぱなしで、笑った顔など見たことが無かったのに。
(それに関してだけは、感謝してもいいのだけれど)
そう、最後の条件で、彼女に「家族」を与えてくれた教会に。
コマの聖譚曲は、同じく聖譚曲を保有する魔法師の意識に対しても有効なことがわかっていた。
彼女の聖譚曲は相手の意識を支配してしまうが、相手がその支配を受け入れた場合、コマの意志で相手の保有する聖譚曲を制御することが可能なのだ。
それは、自分では制御できないレベルの聖譚曲を保有する魔法師が、自分の意識をコマに委ねれば、聖譚曲による精神崩壊や暴走を防ぐことができる。
コマによる魔法師の支配。
教会がそれを「救済」と呼び始めたのはいつからだろうか。
確かに救いであることは事実だろう。
うまくいけば、の話だが。
現在「救済」を受けた症例は三十四。
内、成功したのはたった四人だけだ。
残りの三十人は、彼女に意識を委ねることが出来ず、結果、自身の聖譚曲の暴走を引き起こし精神崩壊した後、全員が死亡した。
その度に、コマの魂を抉るような傷痕を残して。
「救済」は、教会が認めた合法的な殺人だと、この極秘事項に関係する人間は皆知っている。
口に出さないだけだ。聖譚曲の強さから暴走を頻発させるため、手のかかる魔法師を「救済」の名で始末する。うまくいけば、それはそれでいい。暴走しない上、力のある魔法師はいくらでも利用価値があるのだから。
見え見えの思惑。
それを悪意なく、善だと信じて行っている教会の考え方には、正直嫌悪感で吐き気がした。
それでもコマは「救済」をやめない。
家族を護るために。
「まだ、失敗するって決まったわけじゃないでしょう」
服の裾を翻した風が、湖を揺らしてゆくのを見やりながら、ソラが前髪をかきあげた。つるりとした綺麗な額が顕になる。そこに、絹糸のような黒髪が落ちた。
「今度はきっと、新しい“家族”が増えますよ」
「うん」
小首を傾げ、コマが笑む。
笑うとつり気味の目尻が少しだけ下がった。
「救済」が成功した四人の魔法師-――全員がレベル五の少年達であるが、現在、全員が彼女と一緒に暮らしている。
彼らの聖譚曲が暴走しないのは、コマによる聖譚曲の支配によるもので。そのため、彼女の影響を常に受ける必要があるからだ。
コマは、四人を「義弟」と呼び、自分を「義姉」とした。
彼女にとって、初めてできた護るべき家族。
心無いものは、おままごとだと陰で嘲笑う。聖譚曲以外はとんだ壊れ者だ、と。
何も知らぬくせに。
おままごとだ、お遊びだ、と、そう囁かれる存在が、どれだけ赤毛の魔法師を救ったと思うのか。
誰も、自分たちを救わないくせに。
常に眉間にしわを寄せ、苦しそうに世界を睨んでいたコマ。彼女が今、表情を崩すことができるのは、誰のおかげだと思っている。
決して、彼女を嗤う愚か者たちではない。
殉教者が、その顔に笑みを持ったのは、彼女自身が勝ち取った「家族」のためだけだ。
「明後日、いつもの時間に来るのですか?」
「ああ。隔離棟のいつもの所だろ」
「じゃぁ、私も行きます」
「何で?ソラは立ち会えないだろ」
「知っていますよ。外にいるだけですから」
「おれなら大丈夫だ」
少しむっとしながら、コマが口をへの字に曲げた。その表情は、初めて会った頃から変わらない。
思わず苦笑して、彼女の手を握った。
「それも、知っています。でも、心配くらいさせて下さい。あなたの」
双眸を細め、上目遣いににっこりと微笑んだ。
極上の笑み。きっと、他の者であれば、魂を抜かれかねぬ微笑み。弧を描く薄い唇は、花弁のように可憐で、思わず奮いつきたくなる。
けれど、コマは違った。彼女は、ソラの容を見てはいないから。
不意をつかれたように、ざくろ色の瞳をぱちくりとさせたコマが、すぐに怒ったようで泣きそうな表情を浮かべた。
青白い肌に微かに赤みが差す。握った手から、彼女の身体が強張るのを感じた。
けれど、手を振り解こうとはしなかった。
何かを言おうとして、飲み込むように口を噤んだ。
一呼吸おいて、搾り出すように、一言、呟いた。
「うん」