表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/31

第九話 ポイント・オブ・ノーリターン


 「―――久しぶり、瑞希」


 宙に浮かぶ、ソレは無邪気に笑った。


 古い拝殿の中は風もないのに、その身に纏う白の衣の裾がゆらゆらと虚空にたなびき、その漆黒の髪がふわりと広がった。


 「……それで、今日はどうしたの?」


 まるで年長者が子供に話しかけるような口ぶりで、小首を傾げながら優しい声音で問いかけた。


 「……」

 「……んん?」


 俯いて、黙りこくっている瑞希にソレは音もなく近づき、顔を覗き込む仕草をした。


 「……エン」


 瑞希は掠れた声で呟いた。そして、まるでダムが決壊したように大粒の涙を流しながら、胸の内を吐露し始める。


 「……駄目なんだ。あいつがあたしのことなんて眼中にもないことくらい最初から、そう言う対象なんかじゃないって、分かってた。だから、友達でいいって、『親友』って言う特別なポジションにいられればいいってずっと思ってた。でも、あいつにカノジョが出来て、あたしの心の中はぐちゃぐちゃだ。もう関わって来るなって言われて、寂しくて、腹が立って、カノジョが羨ましくて……!あたし、自分がこんなに弱っちいなんて知らなかった。こんなに、自分が……」

 「自分が……醜いなんて?」


 エンの声が、瑞希に重なった。


 「そうだ……男みたいに振舞ってたくせに、あたしの中身は、女の嫌な部分でいっぱいだ。まるで、焼け付くように、熱くて、息苦しくて、耐えられないんだ。……あたしが、本当に男なら、こんな気持ちにならなかっただろうに」


 瑞希はそう言うと、胸をかきむしるように背中を丸めた。


 気付いた時には自分の周囲を半透明の赤い鬼火が囲んでいる。その炎が、瑞希の瞳にも映り込み、妖しく輝いた。


 さっきからずっと、頭が朦朧とする。体中が熱を帯びて、燃え上がりそうだ。いやに響く心臓の鼓動が直に全身を内側から叩いているようにも思われた。


 「瑞希……それが、君の答え?」


 再び、エンが優しく問うた。


 「……」


 瑞希は、虚空の一点を見つめていた。しかしその瞳は焦点を結んでいない。


 「男に……なりたいの?身も、心も……?」


 コクン、と瑞希は、確かに頷いた。まるで、機械的な仕草だった。


 ふふっ、とエンは零れるように笑った。


 するとエンの体が一度瑞希の周りを旋回し、拝殿と外を繋ぐ開け放たれた扉の前で止まった。その体が、細い弧を描く白い月に重なる。


 「いい夜だよ、瑞希。今日は十三夜。九(苦)と四(死)の和合する今宵、君は自らがかけた長年の呪いからついに解放されるんだ!」


 エンと向かい合う瑞希の背後にある鏡が、突如としてまばゆい光を放った。瑞希は反射的に振り返った。


 閃光が瑞希を覆い隠す一瞬前、鏡の中に男の姿の自分を見た。


 急激に力を失い体を曲げ膝を着いた瑞希に、エンは小さく呟いた。


 

 「でも終わりは始まりと言うよね。そんなに簡単に―――楽になれると思う?」


 

 光に包まれながら、瑞希はふと思った。

 

 目の前の神は、果たして『善い』神なのだろうか?


 しかし、それ以上のことに思いを巡らすための時間は、すでに残されていなかった。








 ―――気を失っていたのは、一瞬だったのか、数時間も経っていたのか。


 意識を取り戻した時、瑞希はそれまで靄がかっていた自分の頭が、急速にクリアになって行くのを感じた。


 拝殿の中は、まるで何事もなかったかのように重苦しい暗闇に包まれていた。いつの間に降り始めたのか、外から細かな雨粒が地面に当たる音がしている。


 「あたし……!!!」


 自分の置かれている状況に思い至った瞬間、瑞希は勢いよく体を起こした。それとほぼ同時に、自分の胸元に手を当て、感触を確かめた。


 「…………男に、なって、る……」


 そう叫んだ自分の声は、驚くほど震えていた。


 「そうだよ、君のお望みどおりにね。……気分はどう?」


 優しい口調で問いかけるその声が、背筋を凍り付かせた。寒気と嫌な脂汗が瑞希の体が噴き出し、体中の血液が逆流しているような、吐き気を催す不快感が駆け巡った。


 「……エン、変えたのは、身体、だけ……?」

 「うん……?」


 震える唇のせいで、上手く言葉にならなかった。ごくり、と唾を飲み込んだ。


 「あ、あたしの……心は?……女のままだ、だって、あたしまだ、悠人のこと……!」


 一つ一つ自分の言葉を自分で辿るように紡ぎながら、瑞希は『自分』を確かめた。そして両手で身体の表面をなぞりながら、むしろその下に隠れる中身を掻きだすように爪を立てた。


 エンは小さい子供に言い聞かせるように、薄く微笑みながら瑞希の眼前に浮かんだ。


 「……物事には段階というものがあるんだよ、瑞希。心、すなわち魂を作り変えると言う事は、物質である肉体を変えるよりよっぽど難しいんだよ。ずぅーっと時間がかかるのさ。それが、何日掛かるか、何年掛かるか、はたまた君が生涯を終えるまでに間に合うか、それは僕にも分からないなぁ」


 幼い容姿をした神はハハッと軽快な声を上げた。


 その言葉に、瑞希は絶句した。


 「……そんな!じゃ、じゃああたしは救われないじゃん!気持ちが残ったままじゃ、この苦しさは無くならない!心も男にしてくれるんじゃなかったの、嘘つき!!」

 「聞いてなかった、瑞希?僕はやらないとは言ってない、時間がかかると言っただけだ」


 さっきから言葉遊びでけむに巻かれてばかりいる。瑞希の中で、嫌な予感が急速に膨れ上がって行く。何故自分はこんな得体の知れないものに縋ってしまったのだろう。いや、今の今まで、まるで何かに操られていたかのように、自分の行動に実感が湧かなかった。もし、恐怖が先に来ていたら、飛び込む前に思い留まっていたはずだ。


 瑞希の中の混乱はさらにさらに増していく。


 「お願い……元に、元に戻して、やっぱり嫌だ、男になるなんて。こんなこと願うべきじゃなかった。こんなの、最初から間違ってた。だってあたしが男になっても、何の意味もないのに!」

 

 瑞希は両手を組み合わせて懇願する。取り乱し、泣きじゃくった。時を同じくして、降り出していた雨が瞬く間に強くなって行く。


 「それは出来ないよ、瑞希。いいかい、僕は何度も君に警告した。よく考えろってね。僕は大事なことは全て説明して、君にお試し期間も与えてあげたよ。その上で、君は自分の意志でここに来たんだ。もう契約は成立だ。クーリングオフは効かない」

 「そんな……!」


 聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調のエンは、どこか楽しそうに首を傾げた。


 瑞希の顔はもはや蒼白だった。瞬きもせず、目の前の実体無きモノを凝視した。ソレは身をよじらせてクツクツと嗤った。雨はもはや社の中にまで打ち付けて来るほどの豪雨に変わっていた。


 大きな稲光が走った。


 みるみるうちに少年の口元に獣のような鋭い牙が伸び、目つきが鋭く変化した。銀色の耳が、尾が、逆毛立ちてらてらと濡れたように輝く。


 「そもそも、神とはただ望みを叶えるだけの都合の良い存在と思うたか、人間。その思い上がりを知り、身の程を弁えよ。せいぜい己が愚かさを死ぬるまで恥じるが良いわ!」


 そう声高に言い放つと、嗤い声だけを残し、神と名乗った少年は陽炎のごとくゆらりとゆらめきながら掻き消えた。


 



 ―――あとに残された瑞希は、言葉を失ったまま、今や何も存在しない虚空をただ呆然と見つめていた。

 



 「―――やだ、瑞希ずぶ濡れじゃない。こんな遅い時間まで、どこ行ってたの?」


 家に着くなり、母が居間から飛んで来た。


 頭のてっぺんから履いている上履きまで、濡れネズミになっている我が子の姿を見て、バスタオルを慌てて持って来た。


 「もう、こんなに遅くなるなら、電話の一つもよこしなさい。男の子だからって心配する時には心配するのよ」

 「……うん、そうだね。ごめん母さん」


 瑞希はバスタオルを頭からかぶったまま、虚ろな声で答えた。


 びしょ濡れの靴下のまま廊下を歩くと、足型の水滴がついた。そのまま2階に上がり、自分の部屋の電気を点けると、着替えるよりも先に部屋中の収納の引き出しやクローゼットの扉を開け、中身をぶちまけた。


 散らかった衣服は全て、男物になっていた。幼少から撮り溜められたアルバムの写真も、中学校の卒業アルバムも、そこに映る自分の姿は全て男の子だった。


 今度は通学カバンの中身をひっくり返した。


 出て来た生徒手帳に書かれている性別は、『男』と表記されていた。


 最後に、勉強机の鍵を掛けていた引き出しを乱暴に開け、中身を無我夢中で探った。ノートや筆記用具、電気ケーブル。入れていた雑多な物たちをためらいなく床に投げ出していく。


 すっかり空になった引き出しを、凝視する。


 そこに入れておいたはずの薄紅のリップバームは、いつの間にか消えていた。

 

 初めての女友達にプレゼントされた、女の子らしい『モノ』。


 まだ普段使いにする勇気は持てなくて、家族にもみられることが恥ずかしくて、こっそり引き出しにしまったもの。

 

 でも、瑞希が『女の子』であると、背中を押してくれていたような、『宝物』。


 「……!」


 カッと瞬間的に湧いた怒りに任せて、瑞希は両手の拳を机に叩きつけた。そして、声を殺して身を震わせ、むせび泣いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ