第一話 おさななじみ
新シリーズになります。これまでの作品ともまた全然ジャンルが違いますが、少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。
どうして信じてしまっていたんだろう。
友情は永遠だって。
どうして思い込んでいたんだろう。
あいつの隣にずっといられるって。
―――どうして自分の本当の心の声を、無視してしまったんだろう。
気が付けばいつも、想いとは裏腹の選択肢ばかり選んでた。そして馬鹿なあたしは、取り返しのつかないところまで来て、初めてようやく気付くんだ。
全部間違ってた、って。
もっと素直に、自分の気持ちに正直になれてたら良かった。そしたら、こんなにも胸が張り裂けるような痛みも、世界にたった一人取り残されたような孤独も、無力な自分に絶望することも無かった。
どうしようもない自分の愚かさに泣くことも。
あたしはいつも、あとから後悔する―――。
「―――……俺、カノジョが出来たんだ」
片山 悠人は、ばつが悪そうに、目を逸らしながら言った。
「……え……っ」
まるで、一瞬時が止まったように、新倉 瑞希には感じられた。
始業式が終わり、二学期最初の日の放課後の渡り廊下からは、校舎内で久しぶりの再会にはしゃぐ同級生の声も、委員会の仕事にバタバタと駆けて行く生徒達の足音も聞こえて来る。だが今の瑞希にはそれがひどく遠い。
午前だけで終わる今日は、部活動もまだ再開されておらず、野球部に所属する悠人とも同じ時間に帰宅が出来る。このところ誘いを断られてばかりだった瑞希は、今日こそは一緒にどこかに寄り道をして帰ろう、と息巻いて、ホームルームが終わるなり同じ2組の教室から先に出て行った悠人を追いかけ、声を掛けたところだった。
「……だから、悪い。カノジョが気にするから、もうお前と一緒に帰れない」
何か、早く何か言わなければ。そう思うのに喉に舌が張り付いたように、声が出ない。
硬直したまま黙りこくった瑞希に、悠人は緊張した面持ちをさらに強張らせ、恐々と目の前にいる幼馴染の名を呼んだ。
「瑞希……?」
「……っ……」
悠人が俯いた瑞希に一歩近づき、その陰になっている顔を覗き込もうとした、その、瞬間。
「…………っくりしたーーーー!!!マジかよ!?!?悠人いつの間に!?え、リアル?脳内カノジョじゃなくて?お前好きな子がいたなんて全然言ってくれてなかったじゃん。お前から告ったの?え、‥‥まさかあっちから?……うわーマジか。てかどんな子?タメ?同クラ?ってか誰だよ!!」
勢いよく顔を上げ、堰を切ったように矢継ぎ早に早口でまくしたてた瑞希は、そのまま大げさな仕草で思い切り悠人の背中をどついた。
「……っいてえ!この馬鹿力が!相変わらず女じゃねーな!……リアルだよ。……あっちから告られた、すげぇ背がちっちゃくて色白で可愛い、5組の……川口 杏奈って子」
どつかれた背中を大きく仰け反らせ、瑞希から飛び退ったあと、悠人は照れ隠しのように目線を横に向けながらもごもごと呟いた。
「うっそ!やば!学年1の美少女じゃん!?信じらんねー!川口さん視力大丈夫かな、悠人じゃぜんっぜん釣り合ってないんだけど!?」
「ほっとけよ!杏奈ちゃんは先見の明があるんだよ!……とにかく、カノジョが他の女と仲良くするなって言うから、お前とも二人きりになったらまずいだろ」
「のろけかよ!ってかあたしと悠人の仲で何も疑われることないだろ、お前となんかなんもある訳ないって!」
悠人の言い分に、瑞希は芝居がかった仕草で肩をすくめ、首を大きく振った。さらに付け加えて、さも迷惑だと言わんばかりに舌を思い切り出して見せた。悠人もつられたようにペッと唾を吐いた。
「それは俺も激しく同意だな。瑞希は男だからな」
「分かってんじゃん、カノジョによく言っとけよ」
「おう言っとくわ」
ひとしきり、いつもの応酬を繰り広げた後、瑞希ははぁっと大きく息を吐いた。はらりと前に広がった前髪が、込み上げる涙を隠してくれた。瑞希の反応に明らかにホッとした様子の悠人の表情が、目に焼きついていた。
「……まぁ、記念すべき悠人の初カノだしな、親友として応援してやるよ」
震えないようにわざと声を大きく張り上げて言うと、瑞希は間髪入れずにくるりと背中を向けた。肩の上で手をひらひらさせながら振り返らず、悠人が何かを言う前に足早にその場を離れる。
渡り廊下から1階の校舎を抜けて、正面玄関に着くなり下駄箱から取り出したスニーカーを、力任せに床に叩きつけた。バシンッと床を跳ねたスニーカーの音に、周囲にいた生徒達が何事かと振り返る。瑞希は構わずに、乱暴に靴を履き替え、ドスドスと足音を響かせ正門までの道を歩いて行く。初めは早足だったのが、さらにスピードを上げ、正門を抜ける頃には全速力の駆け足になっていた。
次から次へと溢れて来るものを、誰にも見られたくなかった。
悠人とは物心つく前からの幼馴染同士だった。家が近所で、同じ幼稚園に通い、小学校に上がってからは地元の少年野球チームに入り、学校でもそれ以外でもほとんどの時間を一緒に過ごしていた。その頃から瑞希は、誰が見ても男の子に間違われるほどわんぱくで勝ち気な性格をしており、外で思い切り遊べないからと髪を長く伸ばすこともスカートを履くことも嫌がり、彼女を女の子らしくさせたい母を困らせていた。
そんな瑞希の性質は中学校に上がってからも相変わらずで、女子野球部がない代わりにソフトボール部に入り野球部のエースである悠人と張り合っていた。悠人も瑞希を他の男友達と変わらずに男扱いをして、ずっと二人の関係性は続いていた。瑞希の第二次性徴が始まるまで。
瑞希が中学2年生で初潮を迎え、少しずつ体つきが丸みを帯びて行くにつれ、悠人は瑞希にぎこちない態度をとることが増え始めた。態度を変えた悠人に瑞希は何故か言いようのない苛立ちを覚え、体の成長に反発するようにますます男子のように振る舞うようになった。
悠人が離れて行ってしまうような気がして、胸の奥がざわざわと騒いで仕方なかったのだ。
なんで今まで楽しくつるんで来たのに、急によそよそしくなるんだと。自分は何も変わってないし、変わらない。今まで通り、幼馴染で、親友同士だ、と。
その正体不明のもやもやした気持ちが、恋心なのだと気付いたのはさらに1年以上後だった。同年代の女子よりも男子の輪に混ざることが多かった瑞希は、情緒的な成長が―――恋愛方面では特に―――遅かった。そのために気付いた時にはもう、男勝りとか男っぽいを通り越して一見すると少年にしか見えないほど女の子らしさからは程遠い場所に立っていた。
……構わない、と思った。
中学生になると周囲にはカップルになる同級生も出て来る。だが付き合うということはいつも、別れるということと隣り合わせだ。幼い恋人同士の関係は、それがいかに脆いかを教えてくれた。初めて付き合った相手と結婚し、二人はいつまでも末永く幸せに暮らしました、なんて美談は物語の中にしかないのだ、と。例えこの恋心が悠人に伝わり、よしんば付き合いに至ったとしても、それは同時に決別へのカウントダウンが始まるように瑞希には思えた。
恋は移ろいゆくもの、友情は永遠―――瑞希はそう疑わなかった。
悠人に恋人が出来ても、心配することはない。だって、自分は友達だから。『男友達』だから。
これから悠人が何人のカノジョと付き合い、別れ、また付き合うを繰り返したとしても、自分達は変わらない、そう、信じていた。
だから、恋心を自覚してからは余計に、女としての自分を押し殺して、生きて来たのに―――。
『カノジョが気にするから、もうお前と一緒に帰れない』
悠人のさっきの言葉は、そんな瑞希の胸を深くえぐるには十分すぎた。
初めての彼女が出来たくらいで、10年以上にも及ぶ自分との友情より恋人を選ぶ、悠人の薄情さへのショックと怒り。
これまでこんなにも必死に『男』を装って来たのに、いとも簡単に『女』として排除されてしまうことへの悲しみとやりきれなさ。
他の男友達と同じように扱っていても、やっぱりちゃんと『女』だと認識してもらえていた嬉しさ。
様々な感情が嵐のように瑞希の胸を翻弄し、いつしかいつもの下校ルートを大きく外れていた。
通学に使うバスのバス停から、さらに学校の裏手の山に入った雑木林の小道。その先にはコンビニも、人家もない。
まだ暑さの残るじめじめとした空気の中に、ひぐらしの鳴き声が去り行く夏を惜しむように響くだけだ。
瑞希は構わずに雑木林の中に入って行った。と、その時、後方から声が掛けられた。
「あれ、君、どこいくの?そっちは古い社があるだけだよ?」
やや高めの若い男の声だった。聞き覚えのない声、知り合いではないだろう。
「……」
立ち止まった瑞希は振り返りもせず、黙っていた。険しくしかめたままの眉を、きつく引き結んだ唇を、涙に濡れてぐしょぐしょの頬を、誰にも見せたくない。
「バスで帰るなら、バス停はあっちだし、JRなら逆ほうこ……あ、え、ちょっと!?」
なおも話しかけて来るその若い男の言葉が終わらない内に、瑞希は再び歩き出した。
見ず知らずの人間に気を遣う余裕なんて、今の瑞希にはない。今は一刻も早く、一人になりたい。
足早にその場を離れていく瑞希に、その男はそれ以上深追いするつもりはないのか、はぁ、というため息が背後に聞こえたものの、それ以上の呼び止める声はなかった。
男の制止を振り切った後、10分ほど細い散歩道を歩いただろうか。
鬱蒼とした雑木林の奥の少し開けた場所に、男の言っていたように小さな神社があった。どこかの分社なのだろう、石造りの門柱にほぼ消えかかった刻印があり、『葦原崗神社北分社』とあった。
そう言えば、この地域で比較的有名な、縁結びの神社の名前がそんな名前だったな、と瑞希はぼんやりと思った。
「今さら、縁結びとか意味ないだろ……」
瑞希は小さく自嘲気味に呟いた。
胸に秘めていた想いは、いかなる形にも実を結ぶことも無く、あっけなくはじけて消えた。
所詮、悠人もただの年頃の男の子に過ぎなかった。知り合ったばかりの可愛い同級生の告白に、躊躇いなく幼馴染を遠ざけられるくらい。カノジョの目を気にするような小さい男だったなんて、正直がっかりだ。
「……あたし、一人でなにやってたんだろ。イキがって、オーバーに男みたいに振る舞って、悠人の一番の親友は一生あたしなんだって勘違いしてた……」
胸の苦しさを吐き出すように独り言ちながら、瑞希はのろのろとした足取りで木造りの鳥居をくぐり、社まで歩みを進めた。瑞希が一歩進むごとに、砂利と枯れ葉が小さな音を立てた。
境内には人影はなく、ほとんど参拝客が来ないのか、お札やお守りを売る社務所にも巫女や宮司の姿もなく、無人だった。それでも小綺麗に保たれていることから、定期的に職員が清掃や修繕に来ているのだろう。
拝殿の階段にしゃがみ込むと、瑞希は自分の膝に頭を埋め、ギュッと体を縮こまらせた。
「これから、もう悠人と喋ったり、遊んだり出来なくなるのかな……。やだな……。でも、今まで通り会えたとしても、どんな顔して会ったらいいんだよ……!」
ドロドロと重苦しい気持ちが胸の中を渦巻き、浮かんでは消えた。
悠人の親友がもう出来なくなるなら、男っぽくしている理由はもう、ない。
だが今さらここまで自分の中の女らしさを拗らせておいて、どんな風に軌道修正していいかも分からない。制服のスカートすら、着心地が悪くて、常にジャージのズボンかハーフパンツを履いているくらいだ。
女らしくしたところで、学年一の美少女の噂のある杏奈に張り合える自信なんて、ある訳もない。……そもそも自分は悠人の恋人になりたかったんだろうか?
自分達の間にはもっと純粋で神聖な、何物にも代えがたい強い絆があると思っていた。
「……あたしが、本当に男だったら、変わらずにいられたのかな……」
ぽつりと呟いた。
リン―――、という音が背後から聞こえたような気がした。
「鈴の音……?」
風か何かで鳴ったのだろうか?
「……?」
ぞわり、とした得も言われぬ感覚が瑞希を襲った。誰もいないはずなのに、何か視線を感じる―――?
まさか、さっき声を掛けて来た男が、自分を追いかけてやって来たのだろうか?
瑞希は何か言い知れない胸騒ぎを覚えた。何故だか、身を隠さなければ、と思った。
深い木々に囲まれたこの場所は隠そうと思えばいくらでも身を隠す場所はあるように思える。でも何か四方を遮る空間に行きたい。
「……」
瑞希は後ろを振り返り、賽銭箱の奥にある拝殿の閉じられた木戸を見つめた。そして数秒逡巡したのち、立ち上がった―――。