今の自分に出来ること…
ベッドで眠っている蓮を起こさないように、乾いた制服を着てケイのマンションの玄関を出た。一晩中降り続いた雨はすっかりあがったようで、早朝の清々しい空気が肌に触れた。
昨夜のことを蓮は覚えていないかもしれない。
それでもいい……
私は忘れないから―――
マンションを出ると、腕組みをしている紫苑が車に凭れて立っていた。
どうしてここにいるのかと問いただしたかったが、口も聞きたくない相手。
「蓮くんとの最後の夜はどうだった?」
「…………」
紫苑は嫌味な笑みを向けていた。結菜は紫苑と眼も合わせることなく黙って横を通り過ぎた。
「そうこなくっちゃ。反抗してくれないと、お仕置きもできないからね」
紫苑の言葉に結菜は足を止めた。
『お仕置き』とは、きっとまたヒカルに何か危害を加えるということ……
「あれ?素直になっちゃうの?残念だな。まあ。乗ってよ。ユイちゃんに話したいこともあるしね」
後部座席のドアを開けられ、腹立たしさを押し殺し、紫苑に促されるまま車に乗った。
「話しってなに?」
不機嫌極まりない声を紫苑に向かって発した。
「勘違いしないでね。ユイちゃんが蓮くんと一緒にいるのを分かってて、僕は黙って待っててあげてたんだから」
「…………」
「でも、蓮くんのあの様子だと、何も覚えてないんだろうね。残念だね。ユイちゃん」
紫苑のどことなく小馬鹿にしたような言い方に腹が立つ。
でも。何故部屋にいた蓮の様子まで紫苑が知っているのだろう?
「紫苑。まさか……」
「安心してよ。僕は盗聴なんかしてないよ。盗撮もね。そんなことをしなくても二人のことは手に取るように分かるよ。
キス。しつこいぐらいされたでしょ?」
何もかもを見透かしたように笑う紫苑にゾクッと身震いした。
本当はどこかで見ていたのではないのかという、紫苑の的中する言葉に、気味悪さまで出てくる。
「話しって何?」
兎に角。ここは話しを聞いて、早くこの紫苑との空間から離れたかった。
「そんなに焦らなくても、時間はたっぷりあるからね」
車が発進すると、同じように後部座席に乗っている紫苑が耳元で囁いた。
結菜は紫苑から離れるようにドア側に寄る。
「どこに連れて行くつもり?」
何を言っても、何をしても、全てを見抜かれているようで、腹立たしい紫苑の顔から眼を背けた。
紫苑はそのことを分かっているのか、自分から目を逸らしている結菜をクスリと笑うと、目の前に一枚の紙をちらつかせた。
「な、なに?」
「これにサインして貰うよ。ここのところに名前を書けばいいだけだから。簡単でしょ?」
「……これって」
紫色の印字や囲いがしてあるその紙は、よく見ると上の方に『婚姻届』と記されていた。
「ユイちゃんがサインしてれば、上条義郎だって頭ごなしに反対しないでしょ」
「紫苑。あなたいったい何を考えてるの?」
これに名前を書いたからと言って受理はされないだろう、紫苑は自分より年下で、まだ結婚できる歳ではない。でも、結婚する意味なんてあるのだろうか?
あるとすれば、蓮と自分を結婚させないため。全ては私を不幸にするため……
―――幸せになんかさせない。
きっとそういうことだろう……
「僕が何を考えてるのか、ユイちゃんには分からないよね?一つ教えてあげるよ。僕は二年留年してるんだよ。だからもう18歳。この意味は分かるよね?」
「じゅう……はち?」
「そう。だから結婚も出来る」
「うそ……だって。私より年上……!?」
普通にしていれば、可愛らしい童顔の紫苑は、どう見ても18歳には見えない。
「本当だよ。僕はひーちゃんと同い年。二年間高校に行けなかったのも、全部ユイちゃんのおじいさんのせいだよ。大切な孫が、僕と結婚するって聞いたら、どんな顔をするのか……クスッ。今から楽しみだよ」
「…………」
そんな―――
紫苑から渡された婚姻届を見た。こんな薄っぺらな紙一枚で、全てが変わろうとしている。紫苑の言う通りにしなければヒカルや蓮にどんなことをされるのか分からない。
「それと、もう一つ。僕とユイちゃんが夫婦になれば、いずれ上条財閥は僕のものになる。これって一石二鳥だと思わない?上条義郎はユイちゃん以外に相続する気はない。だったらユイちゃんを僕のものにすれば、あいつの全ては僕のものになる。志摩子さんも喜ぶだろうな。
ユイちゃんは好きでもない僕と一生を共にする。一生をかけて、じわじわと復讐してあげるよ」
それは一生、この悪魔の紫苑と一緒に暮らすということ?
冗談じゃない!
「そう。上手くなんかいかせないから」
「これから、あいつがどう出るのか……楽しみだ」
車窓の景色を見る余裕もなかったが、記憶にある景色に、上条家に向かっているのだと悟った。紫苑は義郎に会い自分と結婚すると報告をするのだろう。
広海に引き取られてから、何年もの間、敬遠していた上条家はあの時と何も変わってはいなかた。
大きな門に出迎えられ、木の擦れる音の重厚さを久しぶりに聞き、結菜と紫苑の乗った車は吸い込まれるように門をくぐった。
紫苑の手には先程まで結菜が持っていた婚姻届が握られている。
女中達に挨拶をされながら、見事な日本庭園が見える長い廊下を横切り、いつも義郎がいる部屋の前に案内された。
「結菜。暫く見ない間に大きくなりおって」
そう言って目を細めた義郎は、この家と同じで何も変わってはいなかった。ここへ来るのを敬遠していたのは、義郎が嫌いだからではない。この家事態に近づきたくなかったから。
「ご無沙汰しています」
孫と祖父のぎこちない挨拶を横にいる紫苑は黙って聞いていた。
ここにはお金に絡んだ輩たちの出入りが後を絶たなかった。
そんな大人達が出入りしているこの家にはあまり良い思い出はない。
「今日は大切なお話があって、こうして結菜さんと一緒に参りました」
いつものように毅然たる態度の義郎だが、紫苑の『大切な話し』という言葉に、顔色が少し変わった気がした。
***
結菜たちの乗った車は来た道を引き返していた。
「まあ。あれは想定内だね」
紫苑はそう言うと前髪を気にするように触った。
義郎は紫苑の結婚の申し出に条件を付けた。
それは、紫苑と結婚する結菜には上条財閥を継ぐ権利を放棄させるということ。大体の紫苑の思惑には感づいているようで、紫苑から上条財閥を守るにはそうするのが賢明だと思ったのだろう。どこか腹の探り合いのような紫苑と義郎の緊迫した会話に、傍で聞いていた自分の方がほとほと疲れてしまった。
もともと上条財閥なんて興味はない。義郎がそう言って紫苑が諦めてくれるなら言うことはない。
暗くなり、ぽつぽつと明かりが灯り始めた街の景色を、車から眺めていた。
今朝まで蓮と一緒にいて、蓮の温もりに触れていたなんて、本当は嘘だったんじゃないのかと思えてくる。
この掌で包んだ蓮の手の感触は自分のものとは違い、長い指でごつごつと固く、当たり前だけれど、男の人の手をしていた。
細く見えるのに、しっかりと筋肉が付いている身体も、溜息が出るほど、整った顔も、何度も囁かれた声も、全てを忘れないように自分の身体に刻み込ませた。
もう二度と、二人で過ごす夜はないのかもしれないから……
「紫苑。お爺さまのところに引き返してくれる?」
昔、何度も聞いた義郎の言葉が浮かんでくる。
――――心も身体も強くなれ
自分の身は自分で守れ。強くなければ自分も守れないし、守りたい人も守れない。強くなければ上条家では生きていけない……
その言葉の意味が分かっているつもりでも、本当は分っていなかったのかもしれない。
今の自分では誰も守れない。自分さえ守れてはいない。
ヒカルや蓮を守っているつもりでも、本当は何一つ守れてなんていない―――
行動を起こさなければ、いつまで経っても紫苑の言うことを聞く人形のまま。このまま紫苑の思惑通りになんていかせない。
いかせてはいけない。
でも、どうすればいい?
いろいろ考えてみても、今まで良い案なんて浮かばなかった。義郎にもう一度会いたいと思ったのはきっかけが欲しいだけかもしれない。
自分にスイッチを入れるきっかけを……
紫苑はクスッと笑うと運転手に命令して車をUターンさせた。
「分かってると思うけど、僕に有利になるように、よろしくね」
念を押すように言う紫苑を無視して、結菜は車の窓から見える景色をずっと眺めていた。