最善の方法
限界かもしれない……
ここ数日間眠れない日が続いている。結菜は重い身体を引きずって学園に向かった。
学園に行くというのは敵陣に一人で乗り込んでいくように途轍もないパワーがいる。でもこうして休まずに通うのは意地があるから。紫苑に決して屈しないという唯一の自分のプライドでもあった。
負けてたまるか。
その意地だけが、今の自分を動かしている。いや。動かしていた……
正直、世界中の人達が自分の敵ではないのかと思えるこの現状に、精神的にも参ってしまっていた。
挫けそうになる気力を振り絞り、今日も学園での一日が終わろうとしている―――
HRも終わり、教室から出て行く生徒達に混じり昇降口を抜けると、後頭部に何かがクシャっという音でぶつかった。
髪に手をやるとドロリとした気持ち悪い感触が指先に伝わり、固い物が手に触れた。
「な、何?」
コンクリートの上に落ちた白い物を拾うと、それは卵の殻のようだった。
「オレ。一発命中!」
「やるじゃん」
声のした方を見上げると、階段の踊り場で男子生徒たちが固まっているのが見える。
「誰が一番多くヒットさせるかな〜〜」
そんな声が聞こえてくると、今度は次々に自分に向かって生卵が投げられてきた。空から振ってくる卵を避けきれず、何個も頭や肩にぶつかると、割れた卵で髪や制服が汚れた。そして、その光景を見ている下校途中の生徒達が笑っている声が耳に入ってきて、恥ずかしさと屈辱さで泣きそうになってくる。それでも奥歯を噛み締め、流れ出そうになる涙をぐっと奥に押し込めた。
もう。イヤだ。
このまま大人しくしているなんて出来ない。
結菜はその場に持っていた鞄を投げつけると、階段の踊り場にいる男子生徒たちを睨み付けた。
「あんたたち!!そこで待ってなさいよ!」
そう叫ぶと、来た道を戻り階段を上った。まさか結菜が本当に来るとは思わなかった男子たちは驚き、上の階へと何人かが逃げていく。逃げ遅れた男子の首元を生卵で汚れた手で掴み、勢いよく後ろへ引っ張った。その男子はバランスを崩し上り掛けていた階段を踏み外すと後ろへと倒れていった。今度は次の男子の腕を取ると後ろへ捻った。簡単にその場にしゃがみ込むと結菜は次の男子に向かっていった。
こんなことをして何かが変わるなんて思わない。もしかすると余計に事態は悪化してしまうかもしれない。やられたら、やり返すなんて意味のないこと―――
分かっていても、この時はもう我慢の限界だった。
上の階に逃げた男子達が後ろを振り返り、仲間がやられていることに気づくと、逃げるのをやめ結菜に向かってきた。振りかざした拳を避けると、急所に蹴りを入れる。あまりの痛さに蹲る男子を見た仲間達が後退りをすると、また結菜から逃げていった。それを見送ると結菜ももう後を追うのを止め、階段を下りると、コンクリートに投げつけた鞄から散らばった教科書を拾った。
ポツポツと降ってきた雨が熱しられているコンクリートを冷やしていく。コンクリートの臭いがムワッっと蒸せるように辺り一面を覆うと、雨とは違う雫がポトリポトリと拾っていた教科書やノートに落ちていった。
雨は次第に降る速度を速め、校舎の中で雨宿りをしている生徒や、傘を差したり差さなかったり、足早に通り過ぎている生徒達が結菜の横を通り過ぎるが、誰一人として結菜に手を差し伸べる者はいない。
結菜は流れる涙を拭いながら、遠くまで散らばった筆記用具を拾っていた。
雨はどんどん酷くなってくる。生卵で汚れた制服のブラウスが濡れ、肌にぴたりとくっつき気持ち悪さが倍増した。
何も考えられない。考えてはいけないと誰かが言っている。
目の前に落ちている物を拾って家に帰りシャワーを浴びて冷凍庫に入っているアイスを食べよう。大好きなバニラのアイスをお風呂上がりに食べるんだ。それって最高に美味しいんだよね。
「うううっ……」
いくら楽しいことを想像しても、この涙は降り止まない雨と同じで、止まることはなかった。
打ち付ける大粒の雨が、蹲った結菜の背中に向かって激しく叩き付ける。
お前は独りきりなのだと空から見ている神様がそう言っているようで益々卑屈になってしまう。自分はどうしたらいいのか……これからどうなっていくのか……
怖い……こわいよ―――
「カサ。忘れたのか?ホント鈍くさいな」
打ち付けていた雨が一瞬のうちに自分を避けてコンクリートの上に落ちている。見上げると、傘を持ち微笑んでいる女装をしたケイが立っていた。
「ケイ…………!?」
「お前。その格好ウケル。なあ。それって新しい遊びか?高校生って何考えてるか分からないな。ついて行けない。ははっ。結菜。それってオレがオヤジってことか?」
「…………」
「何か言えよ」
「…………」
「普通『何言ってんのよ〜ケイがオヤジのわけ無いじゃない〜』とか『ケイよりかっこいい男なんていないわ』とか『ケイはステキ過ぎて女が放っておかないわ』とか」
「もういいよ」
「なんだよ。まだまだあるのに」
ケイはそう言いながら、まだ入っていない散らばった物を鞄の中に手早く詰め込み、傘を持った手で鞄を持つと、空いている手で結菜の腕を持ちその場に立たせた。
車に乗せられ、ケイの住んでいるマンションに着くと、卵と雨でドロドロの制服を脱ぎ、お風呂に入った。脱衣所の洗濯機が静かな機械音を鳴らしながら、汚れた制服をきれいにしてくれている。
ここに来るのも抵抗が無いわけではなかった。蓮とのこともあるし、女装をしていても一応ケイは男なわけで……でも、きっと、そんな心配も関係なく、ケイは妹のように自分を放っておけなかったのだろう。
ケイが用意してくれた服に着替えると、結菜はリビングに入った。
「……ケイ?」
着替えた服は女性物だけれど、ケイが着る服だけあって自分には大きすぎる。はいているズボンがずり落ちそうになり、上へ持ち上げた。見回してもケイの姿はリビングにはない。
広い割には家具があまり置いていないリビングは、スッキリとしているが生活感がなく寂しい感じがする。何となく、中央に置かれたテーブルの前に腰を下ろしてみた。
暫くしてケイが肩にバスタオルを掛けた格好でリビングに入ってきた。着替えは済ましていて、男の格好になっている。
「制服が乾くまでここにいろ。帰りは送ってやるから」
「ケイもお風呂に入った方がいいんじゃない?」
「ああ、そうだな。でも、その前に……」
「何?」
ケイが結菜の隣に座った。
「蓮とのことだけどな……結菜ってホントに紫苑って奴のことが好きになったのか?」
「蓮くんに、頼まれたの?」
そう聞いて欲しいとケイは蓮に頼まれたのだろうか?
「いや。違うけど。蓮も、お前も何か隠してる様な気がして」
「ふ〜ん。で?」
「で?って……お前はホント。ムカツクわ」
そう言ってケイは結菜の額を指で弾いた。
「いたっ。何すんのよ!」
「ここ。眉間にシワが入ってる。一年前までの蓮みてぇだな」
ははっと笑ってケイが立ち上がった。
「ケイ……」
「蓮から……別れるフリから本当に別れたって聞いたときにはウソだろって思ったけど、何だか余裕だったんだよな、蓮の奴。まあ、結菜のことを信じ切ってるっていうか。あいつなりに結菜のことを理解してるつもりだったみたいだけどな。でもな。結菜……」
見下ろされたケイの眼は真剣なものだった。
「今の蓮は、お前が出会う前より酷い。何があったか知らねえけど、自分だけで抱え込むのは止めた方がいい。オレに言えるのはそれだけだ」
ケイは言いたいことだけ言うと、バスルームに入っていった。
だから?だから、私にどうしろというのだろうか……
ヒカルや蓮が危険な目に遭わないためにと、取った選択はまた間違いだったのかもしれない。もしそうだとしても、今更引き返すわけにはいかない。
蓮の元に行けば、必ず紫苑が動く。
あれは紫苑の脅しやはったりなんかじゃない。
こうすることが、最善の方法だと。この時は、そう思っていた。