壊れそうな心
紫苑にとっては面白いほどに、結菜は追い込まれていた。
学園ではもう自分の居場所すらないような……そんな気さえしている。
教室にいても、廊下を歩いていても好奇の目にさらされていた。
この間までは蓮と別れた理由は『蓮の浮気』だった筈なのに、今度流れた噂は、実は浮気をしたのは蓮ではなく上条結菜の方だったというもの。あの『雨宮蓮』から『紫苑』に乗り換えたと学園中の生徒達は思っている。蓮の浮気が理由なら仕方がないわね。で終わる話も、年下で、しかも一年でダントツ一位のイケメンである紫苑に乗り換えたという話しに、噂好き、イケメン好きの女子達が放っておいてくれる筈もなかった。
呼び出しをされ、言いたいことだけ言われるのにももう慣れてしまった。時々、紫苑が駆け付けて『ユイちゃんを虐めるな』という、彼女を守る優しいカレシ的な芝居にも飽き飽きする。紫苑のその行動に女子達はすっかり騙され『性悪女から紫苑を守る会』まで発足しているぐらい。
性悪男ならそれは紫苑だけど!!と大声で言いたいけれど、それを言ったからって誰も信じてはくれないだろう。
紫苑は私と付き合っているというフリをしながらも器用に、そして見事に自分の味方を増やしていった。反対に私は、性悪女、最低女、とレッテルを貼られ完全に孤立している。もともとあまり仲が良い友達もいなかったけれど、クラスで唯一話しをする委員長も強引にあっち側の人間に引きずり込まれ、迷惑がかかると、こっちから話しかけなくなっていった。
紫苑の水面下での攻撃は、ボクシングの試合で軽くボディを何度も殴られているように、徐々にそして確実にダメージを与えられていく。たった一人の孤独な戦い―――
噂を流したのは紫苑で、それも自分に対する恨みからなのだろうけれど、ダメージは紫苑だけから受けたものだけではなかった。
ことを同じくして、我が家のお手伝いをしてくれている自分にとってはお母さん的な存在のタキが、息子さんと暮らすという理由で家から居なくなってしまったのだ。離れて暮らしていた息子さんのところへ時々行っているのは知っていたけれど、まさかそんな話しになっているとは気づきもしなかった。もちろん、タキにとって他人と暮らすよりも、自分の息子夫婦と暮らす方が幸せに決まっている。
でも……
精神的にぐったりと疲れて帰ってきた安らげる場所に、明かりも灯らず『お帰りと』待ってくれている人も居ないというのがこれほど寂しいものだったと思わなかった。
学園でも独り。家に帰っても独りきり……
味方は一人もいない。傍にいるのは自分のことを陥れることしか考えていない紫苑だけ。
こんな状態で、病まない自分が不思議なぐらいだった。
そして、そんな状態の時に、ついにマユからの呼び出しが掛かってしまった。
当然、蓮とのことや紫苑とのことを聞かれると覚悟をして向かった。今、マユにとことん罵声を浴びられるとどうなってしまうのか危険な気もしたが、行かないわけにはいかない。
「ま、待った?」
久しぶりの友達との会話に、変な動悸で手が汗ばんでしまう。
「ううん。ユイは何頼む?私はオレンジジュース頼んだんだけど、このケーキセットも美味しそうだよね。やっぱ、セットにしてもらおうか。ねえユイもこれにしなよ」
座った瞬間に待っていたマユが勢いよく喋り始めた。それは不安を消し去るように無理矢理明るくしているように感じる。
「マユ。何かあったの?また純平くんとケンカでもした?」
結菜の言葉に、今まで我慢していたのか、涙がマユの眼からポロポロと零れていった。
「……ユイ〜」
「どうしたの?」
「……うっ」
「泣きたいだけ泣けばいいよ」
結菜はマユの隣に座り直すと、マユの肩を抱いた。
一頻り泣き、マユはテーブルに備え付けられているナプキンを束で掴むと涙と拭い、鼻をかんだ。
「ごめんね。ユイだって大変な時なのに……ううっ」
「……そんなことないよ」
鼻の頭を赤くさせ、涙でボロボロの顔で無理に笑っているマユが愛おしく思えた。
「純平には言えない。でも……私どうしたらいいのか分かんなくて。気づいたらユイに電話してた」
「うん……」
「あのね。私、子供が出来たのかもしれない―――」
「え……子供って」
マユの言葉に一瞬頭の中が真っ白になった。
「生理がこないの。こんなこと初めてで、でも純平には怖くて言えない」
「どうして?」
「だって純平に『堕ろせ』って言われるかもしれないし、最悪『別れよう』って言われたらって思うと怖くて……」
−マユ……
結菜は、バカだな。って言ってマユをギュッと抱きしめた。
「マユの好きになった純平くんは、そんな小さい男じゃないよ。私が保証する」
「うん。そう思うけど。でも、やっぱり怖くて言えないよ〜」
結菜の腕の中でマユは頭を横に振った。
それからは同じ事の繰り返しだった。絶対に言った方がいいという私に、絶対に言えないと言うマユ。
「だったら、私がついて行ってあげるから、取り敢えず病院に行ってみようよ。ただ遅れてるだけだったらもう悩まなくてもいいんだし。ね?そうしようよ」
「…………」
「マユ?」
「もういい!!ユイに相談した私が間違ってたんだよ」
「ちょ、マユ?」
「病院に行くのも怖いんだから〜〜〜!!」
マユはそう叫ぶと、結菜の制止を振り切ってファミレスから出て行ってしまった。
情緒不安定……!?
久しぶりの友との会話もこんな感じで怒らせて終わってしまい、こっちが情緒不安定になってしまいそうだった。
とぼとぼと歩いて帰る侘びしい帰宅道。でも、マユのことも気になり、次第に自分の家とは違う方向に向かっていた。
到着したのはいつかお邪魔したことのある塚原家。
何て切りだそう。マユに黙ってこんなことをして後で怒られないだろうか。とか、いろんな事を考えて、チャイムをなかなか押すことが出来なかった。
「あら。結菜ちゃんじゃない!」
後ろから現れたのは、トイプードルのユズを抱いた塚原ママだった。
塚原ママに強引に家へと入れられ、そのままリビングに通される。
「あの……」
「省くんはまだ大学から戻ってないのよ。あの子勉強ばかりでホントつまんないわ」
何ヶ月も会っていない省吾のことが懐かしく思えた。省吾には卒業式以来会っていない。大学に合格したお祝いの言葉も携帯電話からだった。
「勉強ばっかりって……受験が終わっても続くんですね」
それは当然だけれど、省吾のことだから、頑張りすぎていないか少し不安になる。
「結菜ちゃんは元気にしてたの?」
「はい……あの。純平くん今日は家にいませんか?」
「純くんに用だったの?なんだ〜早く言ってくれればいいのに」
塚原ママはニコッと微笑むと、二階にいる純平を呼びにいってくれた。
リビングのテーブルを囲む純平と結菜、そして塚原ママ……椅子の下では子犬のユズが再会を喜んでくれているのか足にじゃれついていた。
塚原ママの前でマユに関することなど言える筈もなく、塚原ママが用意してくれたケーキと紅茶を頬張りながら、たわいもない会話で時間だけが過ぎていった。
「また、いつでも遊びに来てね」
そう言って塚原ママに見送られ、純平が「送るよ」と一緒に家から出てきてくれた。
「なんかオレに話しがあったんじゃない?」
察しが良いのか、純平は家から少し離れるとすぐに聞いてきた。
「……うん」
「蓮のことか?」
「違うよ。マユのこと」
「…………」
「ここじゃ話しにくいから、どこか移動しようか」
二人はそれから無言で歩き、辿り着いた公園のベンチに座ると、暫く無言のまま気まずい空気だけが流れていった。
その沈黙を破ったのは純平だった。
「オレ。マユを怒らせるようなことしたかな?今回はさっぱり分かんないんだよな。結菜ちゃん何かマユから聞いる?」
「……うん」
話しづらくて、返事だけ返えした。
「やっぱり、別れ話か……」
なんだ。やっぱそうか。と純平は後ろ頭を掻きながら項垂れた。
「え?あ、違うよ。別れ話のわけないよ」
「違うの?」
結菜の言葉に一瞬で純平の顔が明るくなった。喧嘩ばかりしていても、お互い想い合ってるんだなって羨ましく思えた瞬間だった。
「この話って、私がしてもいいのかって今でも迷ってるんだけど」
「いいよ。しちゃって下さい」
明るく言う純平に益々言い出せなくなってくる。
い、いや。
ここまで来て今更だ。マユに怒られるのを承知で、純平に話しを切り出した。
「実はね。驚かないでほしいんだけど……その、マユね。あ、あ……」
「あ?あって何?」
「あ、赤ちゃんが……出来ちゃったかもしれないの」
最後は聞こえないぐらい小さい声になってしまった。結菜の声が聞こえたと思うベンチの隣に座っている純平は、そのまま固まったように動かず、放心状態だった。
「そうだよね。私が言うことじゃないよね。でも、マユは純平くんには絶対に言えないって言うから」
「そ、そ、それは、どどどどうして!?」
純平は明らかに動揺していた。
「臆病になってるみたいよ?純平くんの愛の大きさが分からなくなってるみたい……って純平くん??」
いきなり走り出した純平の消えていく後ろ姿を呆然と眺めていた。
結局、伝えただけで純平の気持ちも分からなかった。
何やってんだろ。私……
このまま純平は逃げたのかもしれないと思うと更に落ち込んだ。やっぱり言わなければ良かった。今の自分が友達の相談になんて乗ること自体間違っているのだ。
「ああああああっ。もう!!!!」
この悩みも誰にも相談出来ない。
紫苑のことも、マユたちのことも、胸の部分に引っかかっていて全然消化なんてしない位置にある。そんなものがどんどん溜まってきて、渋滞が起こると、頭の中で危険信号が発信される。
これじゃ、紫苑に壊される前に自滅してしまいそうだ……
まだまだいける。大丈夫。なんて言える元気は、本当はもう残っていないのかもしれない。